代わりにリボンを頂戴よ

 自分の人生の主役でいたいなら、物語の主役みたいな同級生を好きになることはお勧めできない。たとえば黒尾鉄朗みたいな男とか。でもそれを自覚できたとしてなんだというのだろう。今日は最後の登校日だった。黒尾くんのことを見かけるのはきっともう、卒業式しかない。三年間ほのかに抱いていた恋心はこのまま四月までの間に忘れてしまえればいい。
 ホームルームの間に外を見ると、センターの日に降った雪がまだベランダの日陰に固まって残っていた。年が明けてから半月しか経っていない。もちろん、彼の部活人生が終わってからはもっと短い。そして私の受験生生活が終わってもう数日が経っていた。本当は推薦でもう決まっていたからセンターすら受ける理由はなかったのだけれども、学校がうるさいので受けただけだった。
 自由登校日と卒業式のお知らせが配られたけれど、ろくに読まないままクリアファイルにしまう。卒業式には正装で来ること、集合は何時、と繰り返す担任の声すらセンチメンタルを前にするとどうでもよかった。もっと最後のホームルームってみんなセンチメンタルになるものだと思っていたけれど、意外とみんなピリピリしていた。私みたいにぼんやりしている奴はもう進路が決まっているか、浪人を決め込んでいるか、そういう立場の人が多かった。担任が声を張り上げてもみんなノートを開いている。多分、みんなさっさと帰りたいということだけは共通していただろう。黒尾くんでもそうなんだろうかと思って廊下側の彼の席に目を向ける。廊下の入り口に一番近い後ろの席の足元には相変わらずエナメルバッグが置かれていて、三年間変わらない。そのまま上を見ると、黒々とした目と視線が合う。虹彩の際がはっきりしていて視線がわかりやすいひとだ。ホームルームの間なのに、私と視線が合うと口角をニイ、と上げるあたりがやっぱり物語の主役のそれで、私は急いで視線を外す。逆を向けども黒尾くんがまだこっちを見ているのがガラスに反射して見えて、たまらなくなって私はクリアファイルからプリントを取り出して先生の話をメモするふりをした。三月一日の集合は九時、冬服、校章を忘れない、まだ髪は染めないこと。それから卒アルに書き込むペンを忘れないこと、と書き足す。黒尾くんの第二ボタンは人気だろうなあ。一体誰が受け取るんだろう、そもそも学ランじゃないのに第二ボタンなんだろうか、と思っていたら目の前に新しいプリントが差し込まれる。もうとっくに登校日の話は終わっていたらしい。

「待って」
 質問をするわけでもなく、図書館に行くわけでもなく、ホームルームが終わったあと学校に長居なんてする理由もない。帰りにアルバイトでも探してみようかな、と思いながら軽い鞄を肩にかけて教室を抜けるところだった。入り口の番人、もとい黒尾くんは椅子を大きく下げて私の進路を塞ぐ。私の後ろにいたクラスメイトが黒尾ォ、とそれを咎めてから彼は私の腕を引いて、それから椅子を机に寄せた。
「……何?」
「お嬢さん、もう暇でしょ」
「別に、暇ってわけじゃ……」
 一瞬彼のチームメイトであったところの夜久くんが机に来かけて、それから踵を返された。助けてくれるかと思ったのに意外と薄情だ。黒尾くんの机の上はノートとプリントが雑に載ったままで、まだもう少し教室にいるんだろうなというのが窺えた。
「……でも、もう決まってるでしょ、大学」
「……まあ」
 公然の秘密ではあるけれど、返事は声を落とした。あまり言わないようにと諭されはするけれど、当然ほとんどの人は誰がどこらへんに、くらいは知っている。大学名も学部も誰にも言ってはいないから、どう推測されているかは知らないけれど。
「そうだよな、部活もしてたし生徒会もしてたし、成績良かったし……当然だ」
「……ごめん話が読めない。帰っていい?」
 あんまり進路のこと話したくないから、と付け加えると彼は急に立ち上がる。急に目の前に壁ができたみたいで驚いていると、彼は悪い! と言いながら廊下に私を連れ出して、そのまま廊下の柱の影に私を押し込めた。
「ここならいい?」
「……全然良くないけど、何か聞きたいの」
「いや……あの」
 目の前にあるのセーターの襟元は少しほつれていて、脱ぎ着が多かったんだろうなというのを想像してしまった。この前まで現役をやっていた人に夏の大会で引退した部活のことを言われると、少し恥ずかしいなと思う。言い淀んだ顔を見上げると、一瞬廊下のガラスに目を逸らされてしまって少しだけ胸が痛んだ。三年間で私なんか彼の世界の人間ではないとわかっていたはずなのに、やっぱりこうして目の前で話すとどこか嬉しくなってしまって悔しい。最後の登校だからご褒美なんだろうと割り切るしかないと思った。
「どこの……学部に行くの」
「……部活のメンバーにも言ってないから、話したくないんだけど」
「いや……そうだよな、でも俺学校までは担任から聞いちゃったんだ」
「それなら余計に……ごめんね」
 がんばって、と告げて帰るつもりだった。思ったより煮え切らない発言をした黒尾くんの横をすり抜けようとすると、長い腕が行き先を阻む。文句の代わりにもう一度彼を見上げると、口先だけがごめんごめんと悪びれてもいない音を立てている。
「俺の志望校だって言ったら教えてくれる?」
「……えっ?」
「いや、国立も一応受けるけど、第一志望は同じ学校、なんだよね……」
 長い腕で私を柱の影にもう一度しまい直して、彼はゆっくりと学校の名前を告げた。文系の学部ほとんど受けるんだけどさ、と彼は付け足すけれど、確かにそれは進学先の大学だった。
「……法学部政治学科」
「……俺も政治学科」
 高校で黒尾くんのことを忘れてしまいたかったのに、大学でも忘れられないのは少しいやだった。黒尾くん、きっと大学でもモテるんだろうな。今度は四年間も忘れられないのかと思うと少しだけ春が憂鬱に思える。学科が同じでも、高校時代みたいに遭遇することなんてほとんどないだろうけれど。
「あのさ」
「……頑張ってね」
 じゃあ、と会話を切り上げようとしても黒尾くんは影から出してはくれなかった。長い腕を柱につけたまま、出口を塞いでいる。
「あのさ、もし、合格したら」
 廊下の向こうにはまだ人がいるはずなのに、急に静かになったような気がした。黒尾くんの声は小さいはずなのに、やたらとくっきり聞こえてくる。
「……卒業式のあと時間取って欲しいんだけど」
「えっ」
「遅いかな……遅いよな。でも、こないだまで部活やってたからって言い訳になるかな」
 それってどういうこと、と聞き返そうとすると、彼は私の手を取った。躊躇いがないあたり、少し物怖じしてしまう。彼は私の手をそのまま自分のブレザーのボタンにかけた。
「二つ目がいいのか、上がいいのかわかんねーけど、どっちも取っとくからさ」
 ブレザーの合わせ目に私の指を掛けさせて、彼は柱から手を外した。今なら逃げられるはずなのに、身体は動こうとしない。
「そういう話、卒業式の後でさせてくれるかな」
 私でいいの? と茶化した返事をしようと思ったのに、彼の目を見るとそんなこと冗談でも言えそうになかった。ただ首を縦に小さく振ることしかできないまま、私はゆっくり手を彼から離そうとする。彼のブレザーを離しかけるともう一度彼は私の手を包んで自分の身体にくっつけ直す。
「……黒尾くんって、期待させるのが得意なひと?」
「いつだって本気ですよ」
 いつもみたいに自信たっぷりに、彼は私を見下ろして告げた。三年間何度も見た顔だ。まさかこんな至近距離で見るとは思わなかった。
「じゃあ、また今度」
 名残惜しそうに手を離されて、彼は少しだけ身を開いた。もうそこから逃げられるはずなのに、私は動けないまま黒尾くんに先に行ってとお願いする他にできやしない。話の中身を思い出す。頬が熱くてたまらない。卒業式まであと何日あるのか、きちんとホームルームを聞いていれば良かったと思った。そうしたらあと何日期待すればいいのかすぐわかったのに。