とっておきのひと

 幼馴染の双子の、異性の趣味は似ていない。それにさらに傾向があって、侑は喧嘩ばっかりするけれど割合一人ひとりの女の子と長く続く傾向にある。万年クラスメイトの方、治は意外と長続きしないばかりか、下手すると一日限りで別れていることもしょっちゅうあった。何も昔から片思いしているひとのそういうことを聞きたくなんてないのに、クラスがずっとおんなじせいでまた付き合ったの別れたの、という話がそこかしこからいつも聞こえてきてしんどいことこの上ない。来年になったら、治は文系、私は理系でクラスが分かれるんだろうから今年までの我慢かもしれないけれど。
「ちゃうねん、やるまでは本気で好きだった」
 朝練がない日なのに早起きしてしまったから、いつもと違う時間に登校したのが運の尽きだったのかもしれない。校門をくぐって体育館に差し掛かったときに、よく見知った声が聞こえる。体育館の外の水場に知っている銀色の頭と、もう一人がいた。顔をびしょびしょにした治と目が合って、気まずくなって手元の携帯の画面を見る。最悪だ、またおんなじこと言ってる。数軒先の家からおんなじ制服の女の子が出て行くのを見かける度に、私は翌日この釈明がどこかで聞こえるんだろうなと思って毎晩過ごしている。侑の彼女は長いこと同じだから、知らない女の子が家の近くで泣きながら歩いていたら、それは大体治の彼女だった。その日か少し前に治に告白して、おばさんと侑のいないときに治に家に連れ込まれて、その後治を振る女の子達。だいたい同じ制服の、たまに女子大生みたいなお姉さんすら見かけることがあるけれど、窓を開けていると彼女たちのすすり泣きが聞こえて胸が詰まる。
「俺は振られた方」
「いまその話するか」
 チームメイトだろう相手が治を諌めるけれど、だあって、と治は不満そうな声を上げていた。顔は見えないけれど、声色の中には少なくとも罪悪感とか、悔しさとか、そういう振られた側の気持ちは一切なさそうだ。彼は片割れのことを人でなしだと言うけれど、こと恋愛に関しては治の方がそうなんじゃないかとたまに思う。いつもこうして、すぐに家に連れ込んで、それからすぐに振られる。振らせているのかもしれない。何も詳しく聞きたくなくて女の子側の話なんて聞いたことがないけれど、治に課題があるのは目に見えていた。でもそれを解決したいとも詳しく知りたいとも思わない。好きな人がどんな風に女の子を抱くのかなんて、聞きたくない。それに女の子達も大抵の場合は私が幼馴染で近所に住んでいるのは知っていたから、彼らの悪口をわざわざ私に吹き込もうとはしなかった。
 治たちの方向を見ないようにして、すこしだけ早く体育館のそばを通り過ぎようとする。これ以上聞きたくない。少なくとも同じクラスなのだから、今日一日治の顔を見るたびにさっきの声を思い出すのだろう。水道の流れる音に集中しながら学校玄関にかけこむ。ガラス戸の内側ではやわらかい柔軟剤の残り香がして、ふと手元から目を上げると昨日の女子学生の後ろ姿が見えた。まじで、最悪だ。彼女は赤色のサンダルに履き替えている途中で、それでやっと彼女が先輩なことを知る。治の元彼女はたくさんいるけれど、やっぱりきれいなひとが多いなと思いながら自分の靴を脱ぐ。昨日の帰りは、行きだけは治と手を繋いだんだろうか。どうせそれ以上しているのだ。しているに決まっている。治と手を繋いだのなんてごく小さいときの記憶しかなくて、その点だけは少し羨ましく思ってしまう。立て続けに二人をみてなおそう思うなんて最悪だ。早く、治のことなんて嫌いになりたい。

 図書室で朝活とぎりぎり言える程度の自習をして、ホームルームぎりぎりに教室に滑り込もうとする。朝に治と元彼女を見たせいで、教室で治を見たくなかったからそうしたのにその判断は間違っていた。階段を登りながら後ろが賑やかになって失敗を悟る。私の隣を足の長い数人の先輩が階段一段飛ばしで抜いていって、バレー部の朝練終わりにかちあってしまったことを悟った。後ろで声の大きい侑の声がしているから、きっと彼らには抜かされるか同じくらいに教室に滑り込むだろう。一時間目の古典の小テストを忘れていたらしい侑の声に対してチームメイトが範囲を告げている。治の声はしなかったけれど、どうせその集団の中にはいるのだ。お、と侑に声をかけられて小さく挨拶を返す。寝坊か。隣を一段とびに通り抜けていく集団になす術なんてない。寝坊したほうがいくらかマシな朝だったけれど、侑にそう思われていても何も支障がないので放っておいた。
「……だからほんまに俺は振られた側で、もうちょっとかわいそがってくれてもええやん」
「そろそろやめたら、そーゆーの」
「俺は侑とか角名と違って断るのに罪悪感覚えんの」
 隣を抜けていく治と一瞬目が合う。何で朝に二回も治の弁明を聞く羽目になっているのだろう。爽やかな早起きだとか、小さくてもやってみた朝活の努力だとか、そういういいことが全部帳消しになりそうな気分だった。隣にクラスメイトがいるんだからやめてくれたっていいのに、角名くんだってクラスメイトの私に会釈するんじゃなくてもっと止めてほしい。
「だからそういうところのせいでしょ、誰でも構いやしないって態度」
「好きな女は俺のこと嫌いなん知ってるし、そんなら他の女なんて全部同じちゃう」
「最低だなー」
 ほんと最低だ。呆れながら先に階段の先に消えていく治の背中を見る。ばかばかばーか。一生振られてろ。一生女の子に軽蔑した目を向けられていてほしい。治の初恋なんて一生叶わないで苦しんでいろ。好きなはずなのにどうしてもそういう気分になってしまう。彼らが教室に滑り込んでから、すこし遅れて教室に入るとほぼ担任が入ってくるのと同時だった。遅刻ぎりぎりなのに全然焦った気持ちも生まれないまま、机の上に一時間目の数学のテキストを出す。出欠確認をしている間に顔を上げると、何かを咀嚼している治がこっちを見ていた。出欠の返事をして、治と目を合わさないように黒板のすみっこに注目する。あの視線の意味はなんだろう。聞いたことを言うなという意味だろうか。そんなこと頼まれたってしないと思っていたら治が出欠確認を取られて、それから彼は前を向いた。
 結局その日はそれ以降、一度も話さないまま六時間目が終わる。休み時間にバレー部の同級生が教室に遊びに来ても、もう治は別れ話のことを繰り返さなかった。

 もともと部活のない日なのでさっさと帰るに限ると思ったけれど、最寄駅までのバスでもう一度治と遭遇してしまってそれを改めた。家が三軒隣ということは、駅から家までほとんど同じ道を通る。足の長さが違うからどうせ追い越されるだろうけど、話しかけられるのも億劫だった。駅ビルのスターバックスでも寄って勉強して帰ろうと思ってバスを降りる。大きな背中が私よりも先にバスを降りて、駅前のロータリーに消えていった。
 ぴ、と電子音を立ててバスを降りる。本当はそのまま左に折れてまっすぐ進めばいいけれど、バスを降りてまっすぐ駅ビルに向かおうとすると、おい、と低い声がして左手を掴まれた。心当たりはある。当然知っている声で、振り向けば手の先に紺色のセーターが見えた。当然視線を上にあげれば銀色の髪が流れている。クラスメイトの、幼馴染の治が、私の腕を掴んでいるのは明白だった。
「……なに、バレー部も休みなの」
「放課後はオフ。帰らんの」
「勉強して帰る」
「家ですればええやん。帰ろ」
 あなたと一緒に帰りたくないから寄り道をするんだとは言えなかった。治だって私も部活がないことくらい気づいているだろう。あんまり外で勉強するのが得意じゃないことなんてもちろん知っている。
「……やだ。治の方が足長いから、追いつかないもん」
「仕方ないからゆっくり歩いたるわ」
 半ば強引に手を引きながら、治は歩き出す。子供の時以来に手を繋いでいるというのを治はわかっているのかいないのか、それでも彼は言葉通りにゆっくり私がついてくるのを待とうとする。じっと見つめられながら、有効な言い訳の手札を持っていないことを悟って足を踏み出すと、いくらか視線から険しさが抜けたように見えた。
「それに今日はおばさんに用事あんねん。お前んち行かして」
「なんで?」
「……おばさんのコロッケ食いたい」
「今日コロッケかどうか知らんし」
 きっとママに連絡したら喜んで夕飯がコロッケになるだろう。でも治がうちに来るなんて最近ないことだった。小学生のときは時折双子のところのおばさんがいない時に来たっけな。
 そもそもなんでうちに来るんだろうというのは今朝のことを思い出すので言えなかった。なんとなく、何度か視線が合っていたことからそれが理由だろうなということくらい予想がつく。
「なんでもええねん、コロッケがいいけど。あと今日の物理教えてもらわなあかんの」
「寝てたやつ?」
「文系に物理とかほんと勘弁してほしいわ。角名もノート取れてへんし、あれなに?」
 授業の最後だけ起きていたのだろう、最後の演習問題の解説を彼は口にする。侑は赤点を取るけれど、治はギリギリ回避しているところしか見たことがない。最後だけ聞いていればわかるだろうにな、と思うけれどもわからないとはっきりいうあたりそういうところは変わらないなと思う。起きたら知らん記号があるしさあ、と不服そうな声が解説の行間を呪っていた。
「……理系の幼馴染がおるんやから家で教えてもらおと思って」
「彼女にきけば? 先輩ならわかるでしょ」
「振られたって何度言わすん。聞こえてないわけ無いやろ」
 指先を強く握り込まれて、びっくりして立ち止まってしまった。治はそんなことなんて構いやしないとばかりに私の腕を引っ張る。小さい頃だって、結局ふたりに腕を引っ張られてばっかりだったけれどこんなに今は力が強いんだというのを思い知らされたような心地だった。二、三歩遅れて小走りで治に追いつこうとする。治はそのまま私の手を離してはくれなかった。
「なんでとか聞かんの」
「……聞きたくないし」
「俺、幼馴染にくらい優しくしてほしいって思っててんけど」
 相手が先輩やって知っとおくせに、と治は鼻で私を笑う。ほんとは興味あるんと違うの、とからかうような声が鼓膜を焼いて、今朝のことを思い出して少し耳が熱い。朝の私は、先輩は昨日の帰り道に治と手を繋いだのだろうか、そうだとしたら羨ましいと思ったはずなのに、いままさに自分がそうしていることがどうしてか面映ゆくて居心地が悪くてたまらなかった。腕を振りほどきたいのに、治の指は私を離す気なんてなさそうなくらい私の手に食い込んでいる。
「治の彼女のことなんて知りたくなかったのに、朝会っちゃったんだもん」
「よお本人だってわかったな」
「知らないかもしれないけど、私の部屋の窓からいつも見えるの。治の彼女が泣きながら帰るとこ」
 昨日見たひとが目の前にいたらわかるよ、と付け足す。きれいなひとにばっかりふられて、治のほうがよっぽど人でなしなんじゃないの。堪らなくなって言いたい放題口に出す。侑は口が悪いだけだけど、治は言わないだけでいじわるだもん。階段で言ってたことだって、と言いかけたタイミングで赤信号に捕まる。横並びになって続きを一気に言えるほどの度胸は持ち合わせていなかった。沈黙の中で、治は余裕の顔で続きを促す。
「階段で、なに?」
「誰でも一緒って」
「……全員に好きになれないって伝えてるし」
 青信号に変わって、一歩目を踏み始めるのが早いのは私の方だった。それでもすぐに治の長い足が差を埋めて、真横で歩き始める。
「好きな子がいるから好きになれんし代わりにして抱くけどって言ってもそれでええって言うから抱いたっただけや」
「……聞きたくない」
「それで勝手に全員幻滅して別れるっていうねん。俺はむしろ誠実」
 昨日もやっぱりそうなんだ。あとあのコンビニの前を通り過ぎたらもうすぐ家なのに、直前でこんなに聞きたくない話ばっかり聞かされるのはなかなかしんどい気持ちだった。本当にこのあとうちに来るつもりなのだろうか。さっきの交差点を曲がったところにある公園で昔はよく一緒に遊んだはずなのに、いまからそんな事実想像できやしない。この道だって暗くなってからこうして一緒に歩いたこともあったはずなのに、こんな話をするようになるなんてあの頃は想像もできなかった。いや、高校生になった今ですらするとは思っていなかったけれど。
「聞きたくないじゃなくてちゃんと聞いて味方になってくれ」
「幼馴染のそういう話聞きたくないよ」
「でも聞いてもらわないと困る」
 できるだけ困った顔を作って治を見上げる。聞きたくないと繰り返しても、治は聞けと言う。私に対してこんなに強気に喋っているのに、太い眉毛が垂れていた。二人で困った顔をして見合う羽目になっていてなんだかおかしい。圧倒的に困っているのは私のはずなのに。
「治のことも治の彼女たちのことも別に誰にも話したことないよ。みんな私のこと幼馴染だってわかってるから治の悪口なんて聞かされないし」
「あのさ」
 あともうちょっとで家だった。ここだったら、私の部屋から見えるだろうな。自分の部屋を見上げてみると窓には黄色いカーテンがかかっていて、朝片方のカーテンを開けたきりになっていた。本当にうちに来るのかどうか分からなくて聞き直そうと思って足を止める。治は相変わらず困ったような顔をしていた。
「誰のせいでこんなことなってると思う」
「……おさむ」
「お前や。お前が好きになってくれればいいのに。そしたら全部やめる」
「なにそれ」
「……続きは部屋でせん? お邪魔させてもらうわ」
 勝手知ったる、という雰囲気で治は家の敷地に入る。仕方無しに私は玄関を開けて、ただいまあ、と家の奥に声を掛ける。治きてるけど、部屋で課題するからあ。治が家に来るのなんて久しぶりだからすぐにママが顔を出す。じゃあお茶もっていき、だの、お菓子あるわよおだとか、ママはいつだって双子のことが好きだった。治も治でそれをわかっているのか、本当に今日夕飯食べてっていいですかだなんて発言までする。行きしな思ったとおり、ママは治のリクエストを快諾していた。そんな中で玄関にならんだローファーのサイズがまるで違って、昔と違うのだということをありありと客観視してしまう。キッチンでペットボトルのお茶とコップをつかんで、治にママからもらったビスケットをもたせてさっさと階段を上がる。これでよかったんだろうか、いっそリビングでやろうと言えばよかったかも。治はぴったりわたしについてきて、これ食ってもええか、だなんて途中でビスケットの箱を開けかけていた。

 今朝は早起きだったから部屋が荒れていなくてよかった。ローテーブルをひらいて適当にすわって、と案内したのに治はそのまま、私にくっついて窓辺にきた。カバンをお互いに置いて窓辺に立つ。半分だけ閉じたままのカーテンを開けると家の前の路地がはっきり見下ろせた。今はだれも通っていないからわからないけれど、窓の隣の勉強机に座っていれば何もかも見えるというのは嘘じゃない。
「……ほおん」
「ほんとに見えるでしょ、ぜんぶ」
「見えるな」
 治はビスケットの紙箱を開けて、ひとかけすでに口に入れていた。ぼりぼりと大きな咀嚼音が近くから聞こえたので見上げると、治は一枚私に差し出す。いらない、と言えば彼はそのままその一枚を箱にしまい直した。
「……さっきも言うたけど、お前が彼女になってくれたらもう見んですむようになる」
「だって家すぐそこだもん、そりゃそうでしょ。私だったら道で泣かずに家帰って泣くし」
「泣かせんわ」
「私もみんなと一緒だよ。私だって……」
 私だって治のことが好きなのに、治に他の女の子の代わりにされたくなんてない。いやいっそ、治の言う事を受け入れて他の女の子みたいに治のことを嫌いになれたらいいのだろうか。言いかけて治がビスケットにむせたので、お茶をついでグラスを手渡した。喉仏が上下するのをぼんやり見ながら、勉強机のいすを引いて座る。治を立たせたままだけどもうどうでもいい。
「……なあ」
 治は手に持ったいろいろを私の机に勝手に置く。お茶を飲み干したグラス、ビスケットの箱。それから椅子に座る私の前に座りこんだ。膝の向こうに治の頭があって、私を見上げる視線が私を灼く。治よりも背が高かったときなんてわずかな記憶の間しかない。久々に私の名前を呼ばれて、不意に胸の奥がじわっとする。
「いや」
「泣かせんって」
「みんなにそう言ってるんでしょ」
「頑なやなあ」
 私が椅子に横に座ったせいで、治は頭を椅子の背に付けていた。侑に比べて、あまり声を張らないで喋るせいなのか、顔をくっつけているせいなのか知らないけれど、声が椅子の木伝いに伝わるようでこそばゆい。背もたれにかけていた腕を足の上になおしていると、治はそれを拒否と受け取ったようだった。少しだけ眉を寄せたようだけれど、太い眉毛のせいでその動きがはっきりして見える。
「……だってするまでは本気で好きなんでしょ、みんな」
「聞かんでいいとこばっか聞いてんな」
 太ももの上においていた手を勝手に治は自分の指を絡める。さっきの帰り道もそうだったけれど、こういうことに抵抗がないところが私の持論を深めるんだっていうのがわからないのだろうか。固い指先が私の指の間に触れる。昨日もこういうことを先輩に言ったんだろうか、でも先輩にはなんて言ったんだろう。無言で治が手で遊んでいるのを見ながら、帰り道の彼の発言を思い出す。
「……頼むから俺のこと好きになってくれ」
「なんで」
「俺のこと嫌いなん知ってるけど、代わりの女と遊んだらもっと嫌いになるって顔してるし。もういややねんそんなん」
 彼は両手の指の間に自分の指を絡めて、それからぴったり手のひらを合わせようとする。サイズも何もかも違う作りの手は私の手を包んでいるといってもほぼ過言ではない。手のひらにかかる治の指先はかたい。爪がきれいに揃えられているのは部活のおかげなんだろうか。指の節が大きくて、部活で手を酷使しているんだろうなということを想像してしまう。手のひらは熱くて少しだけ汗をかいていて、それから私の手のひらよりもずっと大きくて余っている。小さいときにこんなことしたことなんてなかった。私には比較する相手もいたことなんてない。治からしたら、誰に似ているとかも思い出せるのだろうか。それともそんなことなんて些細すぎて覚えていないのだろうか。
「一番好きになってほしいひとに好かれんこと、もうやめたい」 
「は」
「……はよわかって」
 くい、と手を引かれて身体のバランスを崩しそうになる。治は狙ってそうしたのかもしれないけれど、彼のお望み通り彼のほうに崩れるほどかわいらしい体幹の持ち主ではなかった。それを見て彼は身を乗り出して、私の膝の上に身を乗り出す。顔が近くなって、手を繋いだまま彼の顔を覗き込む形になってしまう。身長差もあってかいちばん顔を近づけたなと思った。教室でたまに隣の席になってペアワークをするときがあるけれど、そんなときよりも一番近い。治ってこんな苦しそうな目をするんだ、というのを初めて知った気がする。
「俺は諦めんからな」
「あの……治さ」
 光がないグレーの虹彩を見ながら、なんと言っていいのかわからなかった。頬が熱い。治の顔に影がかかっているから、彼から私の顔色はわからないだろうけれど、いま見られたくない。でも目をそらすべきときじゃないというのは十分わかっていて、そのせいで口の中の水分がどんどん失われていっている気がする。顔が熱いせいで、手のひらがじっとりしている。治の手汗だけじゃなくて私もたぶん、いますごく焦っていて、びっくりしていて、緊張している。きっと全部バレている。
「……わたし治のこと好きだよ」
「いつも目が合った時嫌そうな顔するやん」
「……好きなひとが知らない女の子とくっついたとかすぐ別れたとかあんまり聞きたくないもん」
「なんで? ……妬いてくれたん」
「普通に不潔だからいややねんけど」
 彼に色のよい発言がでるとすぐに調子に乗るのは、やっぱり彼の性質そのものだった。私が好きだと言ったせいか、彼はさっきよりも身を乗り出していて、私の上に乗りかからん勢いだった。カーペットの上に座っていたらマウントポジションを取られていたかもしれないなと思って少しだけ背筋がひんやりする。
「それは言い過ぎちゃう」
「……言いすぎじゃない。ふられたほうっていつも言ってるのいやだった。いやだなとすら思いたくなくて、治のこと早く嫌いになりたかった」
「あほらし」
 大きくため息をつかれると、彼の息が腕の産毛に触れるような距離だった。はあ、と長い嘆声が部屋の中に響いて、居心地が悪い。居心地が悪いし彼に乗っかられているのが少し不安な気持ちになって組まれている指を外そうとすると、案外簡単に彼は手をほどいてくれた。くっついていたところがいやに熱くて、肌が離れるとすうすうする。タオルで手を拭きたくなったけれど床のカバンに手を伸ばすのも癪だ、と思ったら治の腕が背中に回されて、それから、椅子から引っこ抜くみたいにして持ち上げられた。
「うわ」
「可愛げなあ……でもそういうとこが好き」
「おろして」
 あんまり暴れると良くないと思ってばたばたこそしないけれど、彼は椅子から床に私を引きずり下ろして、いつのまにか崩したらしい自分の足の上に私を置いた。降りると言っても腕を離してはくれない。スカートのまま跨ぎたくないと言っても俺は気にしないだとか何だとか言って、私の頭を肩に乗せて勝手を決め込んでいる。やっとつま先を床につけた状態で、ベッドの上のクッションを彼が床に引っ張り込んでその上に私を下ろすまで、彼の肩の上で文句を言っていたら全身汗をかいた気がする。
「最初からこうしてたらよかった」
「しらん」
「照れることないって」
 彼は私の乱れたシャツを整えながら、一転にやにやした顔で満足気にそう言い放った。スカートの折り目をきれいに直して、シャツのずれを直して、よれたリボンを襟の真ん中に据え直す。わざとらしく丁寧に直されて、どれだけ私が暴れたのかをわからせられるようでどきどきした。治の肩に押さえつけられていたほうが顔が見えなくてよかったかもしれない。彼の顔がはっきり見える距離で、影もかかっていなくて、きっと私がどれだけ赤面をしているか彼にはよく見えるはずだ。治の顔色はよくわからない。むしろ夕方のせいで陽の光が指しているし、治が赤面するとも思えなかった。
「ずっと好き」
「一番?」
「一番好き」
「一番って比較されてるからいややなあ」
「それを俺にいうの結構ひどいんちゃうの」
 じゃあずっとでいい、と言ったらわがままやなあと彼は目尻を溶かした。キスしてもええよな、と当然のように断りを入れてきたので、私は課題が終わるまでしないと宣言して、それから改めて治の肩によりかかる。課題が終わるまでキスしないし、いいと思うまでエッチしません。ちんこ爆発してまう、と治は情けない声を上げながら、勝手に私の手を取って指先にキスをしていた。ちょっとしょっぱいなと彼は独り言を言う。それって誰と比べての感想? と言いそうになって、代わりに首を伸ばして治の肌に唇をくっつける。なんだ、治の頬だってしょっぱいじゃん。誰と比較したことも私はないけれど、治もしょっぱいなと言えば、彼は目を丸くして私のことを見ていた。