はみがきじょうずかな

 生まれてこの方、歯に関しては自信があった。いままで虫歯なんてあったこともないし、歯並びも十分満足、磨き残しもないとばっかり思っていた。それにここ数年は潔癖気味の恋人の、聖臣くんの影響で子供の時よりも歯に対する意識はさらに高まっている。朝晩じっくり歯を磨く習慣があるし、昼だって会社のお手洗いで歯を磨いていた。もちろん使うのは歯科専売の歯ブラシだし、夜にはフロスだってする。もちろんお泊りの日におやすみのキスをするならば、洗口液でおたがいにうがいをしてからだ。
 無料検診のお知らせにつられて久しぶりに歯科医院の扉を叩いたはいいけれど、あらあ、と歯科衛生士さんの声が頭の上で響いてそれらの自信はきれいに消え去ってしまった。親知らず、虫歯になってるわねえ。横方向にいつの間にか生えていた親知らずは、知らない間に露出して、それから知らない間に大穴を開けていたらしい。ここは歯ブラシが届きにくいわねえ、と慰められても虫歯が生えていた事実は変わりそうにない。このまま先生に診てもらいましょうね、とひとりにされてから医師が検査を終えて抜歯の日程を決めるまでの間にいくつもの予感を思い出す。そういえばちょっと前にアイスティーがしみた気がする。海外出張の人からもらったお土産のチョコレートがしみるのは甘すぎるからじゃなかったんだ。それらに目を向けなかった私も悪いけれど、レントゲンをみるとおもったよりも大穴が空いていた。
 先生とカレンダーをにらめっこして抜歯の日程を決めると、私の顔色をみて歯科医師は素直に抜けそうなのでそこまで痛みは出ないでしょう、怖くはないですよ、と慰めてくれた。日程を決めるまでの間思い出したなかで、一番怖いのは抜歯ではないことを思い出したのだといえるわけもなくて、私は曖昧に微笑んで口を濯ぐ。今私が一番怖いのは、虫歯がある状態でキスをしていたと恋人の佐久早聖臣に、あの潔癖症の彼に知られることだった。

 あわせる顔がないけれど、会わないとなると理由をひどく気にするのが恋人の常だった。歯科でもらった試供品と検診結果を帰宅して即座にしまい込んで、ソファに墜落する。同棲していたら隠せなかったと思いながら携帯を手に取るともちろん彼からの連絡が入っていて、私はそれに目を通す。これからそっちに行く。決定事項として告げられたスケジュールにかわいい猫のスタンプを返す。今日はキスをどうやって躱そうか。半月後までどうしたらいいだろう。いや、抜いたあとでも虫歯があったことをいつ申し出ればいいんだろう。嘘をついて黙っているわけにはいかないけれどどう申し開いたらいいかわからない。そんなことばかりを考えていると、彼からメッセージが続けて着信していた。『もう着くけど、今日遅かったの』それは歯医者に寄ったから。『疲れてるならなにか作ろうか』疲れてるのは聖臣くんもでしょ。はあ、どうしよう、と思っていたら玄関から鍵の刺さる音がして、それから一度間違って鍵がしまって、再び開く音がした。
「帰ってる?」
「あ、おかえりなさい……」
 不用心だと言いながら、彼はいつものように家に上がり込んでくる。勝手知ったるといった体で使い捨てのマスクをゴミ箱に捨てて、ソファの上の私を一瞥してからカバンを置いて洗面所に消えていく。そのまま水が流れる音がしてきたのでわたしはのろのろと上着を脱いで、それからハンガーを取りに寝室に足を向けた。さっき試供品をしまうときにさっさと手は洗ったけれど、このままでは怒られっぱなしになってしまうと思ってのかろうじての行動だった。上着をハンガーに掛けて、ブラシをかけて粘着テープを手に取る。彼が来る前にスカートも脱いでしまいたかったけれど、いま部屋着に着替えるのもなあ。
「何してるの」
「……あ」
 明かりをつけていない寝室に聖臣くんが入り込む。手を伸ばして大きいハンガーを手渡すと、そうじゃなくて、と彼は形のよい眉を寄せた。それでもハンガーを受け取って上着を脱ぎだすあたり彼も彼で行動の型が決まっている。
「さっき帰ってきたの?」
「うん、本当にさっき」
「なんか変。疲れてる」
 私の手から粘着テープを奪って、聖臣くんはふたつ分の上着にテープをかける。ぺりぺりと一周分のテープをめくってからケースにしまい直すまで、彼は私に回答を促していたけれどうまく返事はできなかった。
「スカートも脱いで着替えなよ。寝てていい」
「じゃあ出てって」
「いまさら恥ずかしがることでもないでしょ」
 彼は長い腕を広げて私を誘う。本当に私が疲れてぼんやりしていると思って、彼なりの優しさを示されているのが後ろめたくてたまらない。わたし、今日は疲れているわけじゃないの。優しくされる理由なんてないの。私が腕の中に飛び込まないせいで、眼の前の眉がつくる渓谷がさらに深くなるのが見える。一歩、二歩と近づいて来る彼を拒否することも出来なくて、そのまま彼にされるがままに腕に収められる。胸の中でただ瞬きをするだけの人形になっていると、長い首を折って頭の上に彼の唇が近づくのがわかって少しだけ緊張してしまった。
「……いやなの」
「そうじゃないけど」
「いつも喜ぶじゃん」
 練習のあとにシャワーを浴びてきたのがよく分かる。シャツ越しに彼が使っているボディソープのやさしい匂いがして、本当なら厚くて堅い彼の身体にしがみついてそれを享受するのが好きだったことを思い出す。家のボディソープとは少し違う、彼がロッカーに入れているほうのものだ。
「いままだお化粧ついてるから、シャツについちゃう」
「このあと洗うからいい」
「でも」
「シャワー浴びてきたけど、気になるならもう一緒に風呂入ろうよ。疲れてるなら洗ってあげるし」
 少しだけ身体が離されて、眼の前に真っ黒な瞳が迫る。薄暗いせいで表情が読めないけれど、身体に回されている手からは困惑しているだろうことが伝わってきた。嘘をつくのが苦手なのはお互い様だ。隠し事すら苦手なせいで、お互いに触れてしまうとなんとなくどんな気持ちかなんてわかってしまう。
「……今日、来ないほうがよかった?」
「ううん」
「でも拒否されてる」
 なんで、と彼は素直に問う。だってと言いかけて、本当にこの場で報告すべきか一瞬迷ってしまった。仕事だったら、早く言うべきに越したことはないだろう。じゃあほかは? ほかだってきっとそうだと思っても、聖臣くんの呆れる顔が安易に想像できてしまって怖気付いている自覚がある。
「……だめ、怒られたくない」
「俺が怒るようなことをしたの」
「わかんない、でも軽蔑されそう」
 ここまで言ってしまったらもう言わざるを得ないだろう。目を瞑って勇気を出す。聞いてくれる、と声を絞り出すと彼はちいさく返事をした。でもその前に座ったほうがいいと思うんだけど。促されてベッドの縁に座る。となりに彼が座ってすこしよろけて、そのまま隣り合った手を握られたままなのに気がついた。彼なりの気遣いだというのはわかっていた。
「あのね、今日会社の帰りに、歯医者に行ったの」
「……何で? 痛かったの」
「無料検診のはがきが来てて……あの、クリーニングしてもらった状態で会いたいなって思ったから」
 指先がぎゅっと握られる。顔を見上げることなんて出来ないけれど、私の発言に好意を持ったことらしいことは伝わってくる。そうだよね、本当ならそう喜んでほしくて行ったのだから私の期待は合っていた。
「でもチェックしてもらったら、親知らずがあって」
 結論を言うために一度息を吸い直す必要があった。
「それがね、虫歯になってたの」
 ごめんなさい、と続けて手をほどこうとした。虫歯があったのにさんざんキスして、ごめん。きちんと磨けてなかったみたい。自宅だと逃げ場が無くて困る。初めて虫歯ができたこともショックだったけれど、彼に虫歯菌を移していた可能性も胸が痛むし、それで軽蔑されるのも怒られるのもいやだった。本当は一つずつの感情に向き合って処理したかったのに、と八つ当たりに近い気持ちすら湧いてくる。
「……それ、どこにあったの」
「こっちの、左上の奥」
「そう。抜くの?」
「うん、再来週……」
「ほかにはあった、それだけ?」
 これだけだった、と報告すると彼は隣で小さく息を吐く。それから私がわざわざほどいた手を掴み直して、今度はほどけないように指の間を握り込む。洗ったばっかりの手はすこし湿度があって、私の手の甲がぴったり彼の手で覆われているのがありありと分かった。
「……それだけなら良かった」
 今痛くない? と顔を覗き込まれた。黒い瞳は別に私を軽蔑も断罪もしていなくて、ただいつものように私を気遣うものだった。うん、と返事をすると虫歯のあるほうの頬に手が添えられる。彼の指が無遠慮に頬に沈んで、歯の並びに当たる。もっと奥だよと思ったけれど指摘をしたら口の中に手を突っ込まれかねないと思ってされるがままにしていた。
「虫歯があるのが気になるか気にならないかで言えば気になるけど、別に俺だって子供の時にあったから怒るほどじゃない」
 初めてなら俺がうつしたのかもよ、だなんて気休めを吐きながらも、彼は私の頬をつつくのをやめようとはしない。それどころか、間近にある瞳には少しだけ好奇の色すらある。ちらと目を見ると私が訝しく思っているのが伝わったのか、彼は視線を外して身を乗り出して額に口付けた。
「それに俺もこないだ検診受けたけど、別に虫歯はなかったし、問題ない」
 そりゃあ、スポーツマンだもん。一介の会社員よりも大事にしてほしいし、問題がなくて当たり前だ。私が気にしているのは影響を出しかねなかったところなんだけど、聖臣くんに伝わっているのかいないのかよくわからなかった。彼は少しいつもより多弁気味で、それから私の手を離そうとしない。機嫌を損ねた感じでもないし、想像したみたいに軽蔑されている感じは受けないけれど、なんて返事をしたらいいのかわからなかった。
「気にしてくれるのは嬉しいけど、そんなことで怒らない。何だと思ってるの」
「でも聖臣くん、チームの人に普通にアルコールスプレー撒くでしょ」
「……それは向こうが普段からきちんとしてないのを知ってるから。いつもちゃんとしてるのを知ってたらしない」
 取ってつけたような言い訳をする。私は『撒かれる』側に来てしまったのだと思って怖がっていたのに、ここ一時間くらい考え込んでいたのが少しだけ馬鹿みたいだとすら思えてきた。私はすごく気にしていたのに、当の聖臣くんは明らかに少し、楽しんでいる。
「気になるなら抜くまで仕上げ磨きするけど」
「やだ、はずかしい。隣でちゃんと磨く」
 奥まで磨ける? 逆もきちんと磨いてあげる。手を掴んでいた手が離れて、両手が頬に掛かる。キスする時みたいな姿勢なのに顔は近くならないし、指先はもっと不躾で侵略的だ。そこまで柔らかいと思ったことのない頬をむにむにと触られていて、目の前で恋人がいつもより少しだけ楽しそうな顔をしていた。指にファンデーションがつくのを気にしていないあたり、何か彼の中のツボにハマったのかもしれない。
「いや、やっぱりする。今日からするから」
 決断的に彼はそう告げて、愉快そうに丸い目を細めた。仕上げ磨きだなんて、子供じゃないんだからと反論しても彼はその決定を変えようとはしない。だってその方が安心でしょ、と当然のように告げる顔は私が困っていることを分かり切っている顔だった。
「抜歯が終わったら、ご褒美にキスしよう」
 あくまで虫歯があるうちはキスをしないと言い切るのもまた聖臣くんらしい発言だった。有給を取ってでも予約を早めたいなだなんて思ったりしてしまう。想像よりも現実の彼の反応が怖くなかったことに安堵して、いつの間にか私は彼の手の間で泣いていた。