甘酸っぱい春のこと

 薄くてかさかさした紙をめくる。友達と月刊誌の漫画を回し読みして感想戦をするのって、月に一度のお楽しみだと思う。長く連載されている話もこのあいだはじまったばかりのもいずれも気になるのに、全然時間が足りない。それは量があることもだし、味わう時間も必要だし、何より次の読み手たちが部活の合間に読むと言うからこの昼休みしか時間がないのだ。
 そして火曜日のお昼休みというのは、元々彼氏と、つまり衛輔くんとのランチの日でもあった。まだ冒頭の一作しか読んでいないのに、隣でジュッと紙パックの中身を飲み干す音がした。見えない猫のしっぽがばしばしと足に当たる心地がする。たぶん、この広告ページから先に進んだらなあ、とちょっと苛立った声も聞こえてくるに違いない。
「ねえ衛輔くん」
「ん?」
 かたんと軽い音を立てて紙パックが机に置かれる。私がもう一つの机の上に漫画を置いたタイミングで、ちょうど彼はお弁当に手を持ち替えたようだった。私の倍以上に大きいお弁当を彼は事もなく昼休みのごく早いうちに食べ終わる。付き合ってもうずいぶん経つからおいていかれることには慣れていたけれど、追いつこうとして私も隣に置いていたお弁当の包みをあける。
「さっき読んだ漫画見てたら、付き合ってないくらいの二人が修学旅行ですったもんだするのなんか甘酸っぱくていいな〜ってなっちゃった」
「集中してたな」
「ずっとこっち見てたでしょ」
「俺のこと無視してずっと読んでるからな」
 ちゃんと切り替えたでしょ? そう返事をしながらお弁当箱の蓋を開ける。好きなおかずばっかり入っていてうれしいな。スナップえんどうが入っていてもう春なんだなという気持ちになる。もうすぐ進級か、と思うと胸が少しだけ締め付けられる気持ちがする。その上甘酸っぱい漫画を読んだせいで少しだけそわそわする。
「……修学旅行」
「もうすぐ一年経つね」
「うん」
 衛輔くんのお弁当の頻出おかずは生姜焼きだった。口に詰め込んだまま返事をするから声がくぐもって聞こえる。おばさんの作る生姜焼きは家のよりちょっと辛くておいしい。窓際から差す陽光が衛輔くんの髪を明るく透かしていて、ついこの間お家に呼ばれたときもこんな角度で衛輔くんの顔を見たなと言うのを思い出す。
「その時はさ、俺たちもうとっくに付き合ってたじゃん」
「そうだね、一緒に回ったよね」
「……付き合ってない方が良かったってことか?」
 箸を止めて声のする方に目を向ける。衛輔くんはこっちを見ていない。わざとだ。こっちを見ないまま、数個先の机にかかっているだれかの鞄に目を向けている。珍しく機嫌が悪そうなのを隠しもしていない。数分前に合流したときはそんな素振りなんてなかったし、もちろん朝に会った時だっていつも通り快活だった。何があったのか、特に心当たりがない。
「……どうしてそういうこと言うの?」
「……」
 大きく箸で区切った白米を口に放り込んで衛輔くんは返事をしない。お弁当を机に置いたついでに私もペットボトルに手を伸ばして、気分転換をするように一口二口と傾ける。正直言って、彼らしい発言とは思えなかった。
「もりすけ、くーん」
「……」
「夜久くん?」
 丸い目が歪められてこちらを向いた。彼は付き合い始めてから強く名前で呼ぶのを希望してきた。理由を聞いた時にだって俺はお前の特別だろ、と照れもせずに告げてきたときにはかっこよくてクラクラした記憶がある。そういうことを恥ずかしげもなくさっぱりと言い切るところが好きだった。なので、彼がこんなことを言うなんて喧嘩している時以外ほとんどない。そもそもその喧嘩すら、どちらかがすぐに折れてしまうのであんまり成立した覚えがない。
「……悪い」
「本当に悪いよ」
「わかってる」
 また白米を放り込んでいる。もう四分の一は空いているお弁当箱が私のお弁当箱の隣に置かれて、黒いお箸も一緒に揃えられる。
「……そんなうっとりした顔で言うなよ」
「うん?」
「甘酸っぱくていいなって」
「そこに引っ掛かってたの?」
 衛輔くんの指がひしゃげた紙パックに触れる。それからその中身をもうとっくに飲み干したのを思い出したのか、机の上で手が遊んでいた。
「どうしようかなあって頭いっぱいになりながら回るより、楽しく手繋いで回れた方が嬉しいよ」
「……おう」
「それに少女漫画できゅんきゅんするのはホンモノとは別の楽しみじゃない?」
 ようやくやっといつも通りの目が私を捉えている。そこから険が抜けたように柔らかく目尻が下がって、いつもの気持ちが戻ってくる。彼が気を許している時に見せる、溶けた目尻は好きなものの一つだった。
「……それは知らねえけど、最近家デートばっかりだったから、気にしてるかと思った」
「あれ……あ、確かに最近そうだっけ」
 でもそれは仕方がない。もうすぐ高校三年生になる、まず期末テストがあった。それに進級したら最後のインターハイに向けての予選が始まる。勉強会と称してお家デートをする以外、土日もぎっしり部活の詰まった衛輔くんと会う時間なんてほとんどない。
「……気づかなかったけど、気にしてるなら今度お出かけする?」
「そういうのは俺から誘わせてよ」
「じゃあ、体育館の練習スケジュールが出たら誘って」
 それまで土日は空けとくね。そう告げれば、目の前で小さな口の口角がきゅっと上がった。おう、という返事に目尻を下げるのは、今度は私の番だった。