Circus 冒頭サンプル
呪術師に復帰しようと思ってから実際に仕事が始まるまでは案外長いブランクが発生した。辞めますと言って即時に辞められる環境ではあったものの、現代日本においては案外事務手続きというものがある――書類上七海の退職日は申し出てから一ヶ月半後になったし、その翌月一日が正式な呪術師としての入職日ということになった。それは七海の業務上の機密情報保護期間のせいであったし、税金や年金などの諸事務の切り替えが絡むという理由もあった。
明日からでも来たらいいよ、と告げた五条に対して伊地知がそれは難しいと思う、と確認を入れたのが幸いした。七海はその次の勤務日に上司に辞意を告げ、即時に受理はされたものの退職日については総務側から手続きに日程を要すことなどが告げられて五条に状況を告げることとなる。資産運用をしていた都合、機密情報保護のせいで一ヶ月半は取らずに溜まっていた有給休暇を消化する必要が生まれました、そう告げたときの五条の反応は想像の通りだった。競合他社どころか、対呪霊なのに? その指摘はごもっともだと思いながらも実際のところ呪術高専自体が都立、実質的には国の機関であるからコンプライアンスに抵触するおそれがあるとなればそれを認めざるを得なかった。
思いがけない休暇が生まれた七海は仕事着を数着誂え、それから現居に引っ越してから初めての大掃除をした。呪術高専を卒業後、大学に編入して引っ越し、さらに大学卒業時に会社に近い現居に引っ越して数年。過去を振り返ることなく今までを過ごしていたので実際のところ高専を出てから開けていない箱もある――例えば同期との記憶に纏わるものが入っている箱であるとか。
七海が入学した年の同期は七海の他に二人、男子学生二人に女子学生が一人の学年になるのはひとつ上の学年と同じ組み合わせだった。三年時に二人きりになるところまで同じにならなくてよかったのに、そのせいで七海は大学編入の道を選んでしまったので、自分の学年は最終的に彼女一人しか残らなかった。教室の席は席替えをする暇もなく、廊下側が七海、窓側が灰原、真ん中はいつも彼女の組み合わせだった。それはいつだって染み付いていて、例外は三人揃って任務に出かけるときの車の席と新幹線の席の予約くらいなもので、その場合は助手席に彼女、後部に男子学生が二人。新幹線なら二人がけの窓側に彼女、その逆側の三人がけの窓側と通路側に男性陣が一人ずつ。平均よりも身長が高い男二人に挟まれるのは暑苦しくて勘弁して、とは彼女の談だった。ひとつ上の学年がどうだったのかは聞いたことはない。
それでも三人で出かけたのは圧倒的に放課後休日の方が多い。任務では近接戦闘が主の七海と灰原はセットで出かけることも多かったものの、一方であまり対呪霊戦闘向きでない術式の彼女は別の相手か、高専所属の大人と任務に出ることのほうが多かった。はっきり言えば、特性が対人に向いていたのだと思う。呪詛師殺しのための下調べだとか、内偵だとか、そういった仕事が振られていた。そのせいで揃って任務に行ったときの記憶が鮮明なのかもしれない。
話を元に戻そう。放課後と週末は有り余る程の記憶がある。放課後に基礎練習、学科の予習復習は当然のごとく、夜に高専のある山をすこし下ってコンビニに行くとなれば自然と三人になった。週末は予定もなく最寄りの駅までの間で遊ぶにしても、ちょっと遠出して都心まで出るにしても、いずれにしてもほぼ一緒に過ごしていたことは間違いない。七海は一緒に出かけた週末の、帰りの電車で彼女がもたれかかって眠っていたときのことを未だに覚えている。逆側では灰原が同様に彼女にもたれていて、あの頃は平和だった。
その後のことを思い出したくないからか、それまでの記憶を美しいものとして保存しておきたいと思っていたのだろうか、七海は高専を卒業してからあの頃の自室の私物の入った箱を今まで開けられていない。そして今回の休暇においても開けられずにクローゼットの奥にしまい直した。
***
初日は午前十時に高専事務室に集合するのが最初の伊地知との約束だった。入職日は事務作業があるので、ということで何年かぶりに鞄を持って出かける。はんこと年金手帳が要りますと事前に告げられていたためそれだけでも良い気がしたが、その後実地訓練となった際に上着に入れたまま動くのはあまりにも心許ないせいだ。それから休みの間に呪具師のメンテナンスから返ってきたばかりのかつての獲物もケースに入れて持つと少しばかり不格好だった。都心から郊外行きの、通勤時間帯を過ぎた電車に乗ったせいであまり気にならなかったが、今後は考える必要があるだろう、と七海は少し考え込んでいた。
いつだったか実家から初めて高専を訪れたときにも似た気持ちで七海は最寄り駅で降りる。久々に見た最寄駅はポスターだけが真新しく、それでいて何もかも変わらないように見える。駅員すらもしかすると変わっていない可能性があるかもしれないと思ったが、改札の横から顔を出していたのはまだ制服に着られているような新卒だった。
駅から高専の道のりもさして変わりはしない。在学中に幾度と通ったコンビニエンスストアも、郵便局も、スーパーも何もかもあの時のままだった。それから鬱蒼と木の繁げる高専の入り口も。この門が『見えている』から戻ってきてしまったのだ、と七海は一瞬門の前で足を止めた。例えば七海の後ろに犬の散歩中の住人がいたとして、七海が目の前でこの門をくぐる姿は見えないだろう。ただ七海は見えた。
門から校舎までもまたはるかな道のりだった。あの頃は対して気にも留めなかったが、高専に共用の自転車があったのにも頷ける。流石の七海とはいえ、オフィスワークに染まった身としては坂続きの道を延々とスーツで歩くのもなかなか堪える経験だった。あの頃は、と言いかけてからここを出てから何年経過したのかを数えて、それから再び口を閉ざした。まだ十年も経っていないのにどうしてこんなに遠く感じるのだろうか。思い出さないようにしていたからなのは明白だけれど、さりとてその間の日々が濃密だったわけでもない。思えば五条に連絡を入れた時から回顧の蓋が開いたとも言える。
約束より少し早く目的地には着いたけれど、事務手続きは担当者と一対一で実施するものだから時間まで始まる素振りはない。学生時代はあまり立ち入ることのなかった事務室の応対デスクに座りながら七海は年季の入った校舎に目を向ける。施設自体は古びているけれど、事務室の雰囲気は一般企業のそれと似ていた。七海の数ヶ月前までのオフィスとは違うけれど、退職手続きをしに行った総務部のそれには近似している。違うのはいずれも職員が呪術師の育成課程を卒業していて、有象無象が見えてしまうだけかもしれない。
「お待たせしました、七海さん」
「すみません、早く着いてしまって」
「いえ、早くお越しになる分にはありがたいですから」
担当職員は名乗りながら書類を広げる。今日の前半は必要な書類について、後半は面談としてかつての担任との時間が設定されていた。給与指定口座、共済年金の書類、機密保持契約の書類、扶養控除等異動申告書、雇用契約書……と署名と捺印のいる書類に囲まれるのは数ヶ月ぶりだった。
「申し訳ないですが、ペンを借りても」
はんこは意識にあったけれど、筆記用具は鞄にも内ポケットにも入っていなかった。そういえば、いつだって仕事中はメモはデスクに転がっていたペンでしていたし、そもそもパソコンを叩いてばかりで、仕事を辞めるときにも総務でペンを借りたのだった。前職の退職手続き以来に自分の名前と住所を呆れるほど書き、はんこを捺しながら後輩にあたる相手からの質問に答える。不在の間に変わった手続きだとか、身分証だとか、それからこれからの勤務について。
身分証は学生証と似たデザインで既に作られていて、当然等級は卒業時よりも落とされていた。またあの時はひたすらに手書きで報告書を書かされていたものの、今はワードで作成して良いらしい。それからスケジュールを組む上でのシステムログインに必要な資格情報を提示され、手元のスマートフォンで初回ログインをして初期設定をするだけで午前は終わりそうだった。昼は外に出ても良いし、学生と共用になるが食堂も使えるとアナウンスされたものの、七海としては今の気分で食堂に寄るのは難しいように感じた。
「七海。やっと出勤?」
「五条さん」
「繁忙期に戻ってくると思ったら、なんだかんだ落ち着いてから来るんだもんな。待ちかねたよ」
飄々とした雰囲気は数ヶ月前に会った時から変わらなかった。あの男は卒業を前に雰囲気を変えた。それから後進育成などとそれまでとはまるで違う夢を口にし今に至る。とはいえ、彼がいなければ七海の今回の転身はありえなかったので恩人とも言える。
「午後ちょっと話でもしようよ。復帰に際して肩慣らしをどうしていくか相談しよう」
「ええ」
十四時過ぎまで面談がある旨を伝えると、知ってるよ、と黒いレンズの向こうで青い目が光る。夜蛾先生にもう時間抑えてもらってるからさ、と言いながら、五条は半身だけ事務室に立ち入っていたのを廊下に身を戻そうとする。
「や、お疲れさん」
「……お疲れ様です」
身を戻そうとした五条の視線が下方に向く。あまり機嫌の良くなさそうな女性の声がそれに続いてつい七海も視線をそちら側に向けてしまう。それに気づいてか、五条はワア、とわざとらしく声を再び上げた。
「そうだ、今日はビッグニュースがあるよ」
「……私、昨晩からの任務帰りなんですが」
「七海が呪術師に復帰したよ。ほら、同期だろ?」
ほら、見てみて、と五条は女性の頭に手を添えて自分の方に顔を向ける。色素の薄い手に挟まれた顔が七海の方にまっすぐ向けられ、視線が合う。薄い茶色の虹彩の真ん中がきゅっと小さくなるのが見えた。顔色が昔より悪いだけで、あとは夜な夜な夢想した姿がそこにある。その反応に彼女の名前を呼ぶのは躊躇われた。
「お久しぶりです。またお世話になります」
「……久しぶり」
「いやあ、同期と仕事ができるのは素晴らしいことだよね」
そうだ、七海には当面彼女に着いていってもらおうかな、いいよね?うん、名案だ。だってあまりにも稀有なことだからね。そう五条は一人で完結しながら、関係する二人の了承も何も得ずにスケジュールを決めたようだった。彼女はため息をつきながら書類サイズの封筒をカウンターに出し、五条にされるがままに髪を弄られていた。
「五条さん、それってどちらの案件ですか」
「勿論、兼務の方」
「正気ですか」
「だって七海だよ? もし何かがあっても、伊地知と二人きりより幾らか生存確率上がりそうじゃん」
「七海くんはまだ今日入職したばかりなんですよね」
「大丈夫だよ。七海だってここの卒業生だし、何より口が堅いから」
部外者からしてみれば話は全く読めなかった。ただ、最後に同意を求められても同意していいのか悪いのかすらわからない。
「それは私にも分かります。でも」
「……私では何か不都合がありますか」
「……ありません」
つい、言葉が出てしまった。五条の体の向こうの彼女はこちらを振り返ることはない。
「今日はもう眠たいんだろ。また今度きちんと説明するからさ、今日はもう帰んなよ」
そうします、と彼女は抑揚なく声を上げ、それから一瞬だけ七海を一瞥してじゃあまた、と告げて事務室から立ち去ろうとした。五条が触れた髪をしきりに梳き直しながら扉に手をかけたので、七海もそれに続こうとする。七海が付いてくるのに気づいてか彼女は校舎側に立ち去ろうとした五条に声を掛けたものの、五条は笑い声と共に廊下の先に消えた。
「五条さん、家まで飛ばして」
「やだね、絶対に面白いから」
昼休みを告げるチャイムが鳴り、廊下に傾れ込んでくる事務員を避けた結果廊下に二人で取り残されてしまった。人の流れを前にして、七海は彼女の手首を掴んで壁側に避けさせてしまったせいなのだが、それはそれとして手の離しどころを失ってしまった。彼女は一向にこちらを向こうとはしないし、かといって何を口にすれば良いかもわからない。このあとお昼でもいかがですか、には距離が遠すぎるし、お久しぶりです元気ですか、は先ほどまでと話題が半分くらい重複している上に、疲れているからと手を振り切られるのが見えていて、とても切れるカードではなかった。
「七海くん」
「はい」
「……なんで戻ってきたの」
「外の世界に馴染めなかったからです」
彼女は十五歳でここに入学してからずっと今まで呪術師を続けていたはずなのに、七海が掴んだ手首は記憶よりもずっと細かった。ハイティーンの頃よりも線が華奢になっている、と七海は間近で彼女を見下ろしながらつい視線を身体に向けてしまう。襟元から覗く背筋、ワンピースの七分袖から生える腕、それから指先。何年も前から繰り返し再生している記憶との差異がところどころに見える。下を向く彼女の首に浮く頚椎を見ながら七海はぼんやりとそんなことを考えていた。
「私はここでも馴染めてないよ」
「そんなことはないでしょう」
「そんなことある」
小さく吐かれた弱音につい七海はもう片方の空いた手を彼女の肩にかけ、自分の身の方に引いてしまう。七海にとっては当然かつ自然な動作だと思っていたけれど、彼女からやめてと声が上がったのでつい全ての手を離してしまった。疲れ切った顔の彼女は躊躇いがちにこちらを見上げ、ようやく視線が合う。卒業の日の記憶がまざまざと七海の脳裏から回顧されて目の前の光景に重なる。
何度となくこの風景を夢に見ることを切望したのに、脳は一度もこの導入を見せてはくれなかった。記憶に従って唇に指を添える。指先にリップクリームが少しついた感触がある。そのまま顔を近づけても彼女はついぞ拒否の声を上げずに目を閉じたので七海は何年ぶりかにキスをした。触れるだけで終わりにしようと思ったのに、彼女が七海の上着を掴むまで止められずにいて、すっかり七海は彼女を廊下の壁に追い込んでしまっていた。
「職場だよ」
「人はいません」
「外の世界だと職場でこういうことをしてもいいの」
「会社によるでしょうが……私のいたところではありました」
「何が馴染めなかった、よ」
これ以上はだめ、と彼女は七海の手を制す。もっとしたかったけれど彼女はにべもなく外に向かって歩き始めているから仕方がない。
「これからお昼でもご一緒しませんか」
「家に帰ります」
「ランチを食べて帰るのもいいでしょう」
「寝る前に食べるのは抵抗があるの」
「では夜にでもいかがですか」
「今日はだめ」
「じゃあいつならいいんですか」
彼女は足を止めて振り返った。手に持った端末は半透明のカバーがかけられており、顔認証でパスコードが解除されている。彼女のスケジュールなら、後で勝手に確認すれば良いのだ。
「もう私のことなんて忘れて」
忘れられるはずもなかった。連絡先も聞けないまま、七海はそのまま彼女を逃すこととなるがその晩七海は久々に学生時代の記憶を夢の中で再生することとなる。卒業の前の日、殆ど家具のない寮の部屋で身体を重ねた時のことだ。それでも当時脱がせたはずの制服は今日見たワンピースに、匂いもあの時の柔軟剤の匂いではなくて今日ほのかにたちのぼった香水の匂いに、それぞれ更新されて七海の上でマウントポジションを取っていた。高専を卒業してから、七海は幾度となくこの日のことを断片的に思い出してはティッシュか下着を汚す羽目になる。その日は深夜に不快感で起きてシャワーを浴びながら、起きてから彼女がどんな表情をしていたか思い出せなくなっていることに気が付いた。それはきっと別れ際の彼女の発言のせいだと思いながら七海は下着を濯ぎ、ほかの衣類とまとめて洗濯機を回す。
二年生から卒業するまでの間、飽きるほど――実際十代の身で飽きることなどなかったが――身体を重ねたのに思い出すのは最後の日ばかりなのすら腹立たしい。どんどん鮮度が失われて自動補完されていた中で最新の姿形が現れたせいで、どんどん朧げな記憶が代謝されたかのように抜け落ちていくのを感じる。瞼の向こうで記憶の中の彼女が自分を七海くんと呼ぶ。あの頃は七海と呼び捨てにしていたはずなのに、七海くんと呼ぶ大人の彼女に置き換わってしまった。それも悪くない、と思いながら七海は新しいパジャマを取り出し、袖を通して今度こそ何も考えずに眠ろうと試みる。いずれにせよ彼女のことを忘れることなんでできない。何故なら明後日から数ヶ月に渡り、彼女の仕事に同行することが七海の業務として決定していた。
20221030 chloe first post in pixiv and reprint in 20230417.
previous title"【10/30新刊】七海と潜入捜査をしながら恋を取り戻す話"