鴨川等間隔になれなかった私達に

 知らない電話番号の主人は大抵名乗らずとも判る。仕事柄そもそも知らない番号に非通知は多いが、私の携帯はそれに加えて毎回知らない番号でかけてくる人間がいるからだ。

「なあ、今いてるんやろ、京都」
「直哉?」

 おう、なのかうん、なのか明瞭でない間投詞がマイクの先から聞こえる。この男はもしもし何々です、という電話をかける上での最低限のルールさえ知らないまま二十一世紀を生きている。

「京都、いてるの」
「いないよ。まだ山科」
「それは居てるんよ」
「うるさいなあ。そもそもさっきまで大津にいたし、あんたの京都の範囲はもっと狭いじゃん」

 この男は毎度となく私が京都に来るたびに目敏く気付いては連絡を取ってくる。それが大体違う番号で、学生時代に登録したきりの直哉の電話番号は、彼が高専を中退してから一度も通知を寄越した試しがない。あれから何度となく機種変更をしたけれど、電話帳の中身を改めることなく今の今までずるずるときてしまっているせいであの頃の直哉の記憶と一緒に電話番号が残っているのがなんともおかしい。
 なぜ私が京都に来ているのが判るのか問うたことがあるが、もちろん彼は答えなかった。大方斥候代わりの配下の呪術師が見つけ次第報告していると言ったところだろう。一度気になってGPSの類がないか補助監督の誰かに確認してもらったがなさそうだった――しかしよく考えれば彼がそんなものを駆使している姿なんて想像もできなかったのだが。

「ちょっと時間ある?」
「ない。これから打ち合わせあるし」
「打ち合わせ、15時からなん知ってるからな」
「……私にも予定ってものがあるの。昼食べたりとか」

 あとはお気に入りのパン屋に寄りたいし、隙間の時間に百貨店にも寄りたいし。直哉の、つまり元彼の相手をしている時間などもうないのだ。元彼、という表現につい笑ってしまった。悪ガキが節操なくつるんでいただけだ、それに関係の始まりも終わりもあまりにも曖昧すぎてセックスフレンド、悪友、元同期、いずれかの単語の方が幾らか収まりが良い気すらする。一年生の夏にはあの山奥の寮でふたりつるんでいた記憶がある。東京の実家からはねだしてわざわざ京都校にきた私と、行かなくていいのに来てやったんだ、と言わんばかりの直哉がふたりきりの同期になって身も心も触れ合ってしまったのは当然の結末だった。

「昼の時間やったら俺も時間空いてるけどお」
「ごめんなさいね、外でサンドイッチの口になってるから直哉とお昼には行けない」
「……ふうん」

 じゃあね、と告げて画面を落とし、そこの角でいいですと運転手に告げて料金を支払う。朝イチで東京から出てきて今日は二件の仕事をこなして日帰りの予定だった。どうも泊まると直哉に会うような気がしていつ日帰りにしてしまう。今日も漏れなくそうで、毎回コンタクトを取ってくるから忘れられずタチが悪い。夜ふとした拍子に、飲んだ帰りに、ホテルにチェックインするまでの間に、この街のどこにでも直哉が現れそうな気がしてならない。お世辞にも爽やかさのない笑顔で、さも偶然を装って現れるだろう直哉になんと言っていいかわからなくて私は彼から距離を置き続けている。この街ではいろんなものが住んでいるから、彼の気配はそれらと混ざり切って気付けやしないだろう。
 通勤ピークもすぎて人もまばらな地下鉄に乗り込み、つい学生時代のことを思い出しながら三条まで乗った。あの頃の私たちは元気だったからよく出町柳から丸太町まで歩いたっけ。等間隔で川縁に座ることなど一度もなかったけれど、直哉と出かけるとあのあたりを歩くことが多かった。あれでいて坊ちゃん育ちの直哉は川の生き物を観察しては隣の私にその様子をつぶさに告げるのが常だった。「みて、鴨がおる」「でかいネズミが泳いどる」ヌートリアの名前はついぞ覚えなかった。「鴨が交尾しとんで」大きい声で状況を説明しながらはっきり指差すのはこちらだけでなく鴨も可哀想だった。
 あと、何があったっけ……と思いながら、目的地を告げるアナウンスが流れたので地下鉄を降りる。エスカレーターに揺られながらそのあとを思い出すけれど、丸二年にも満たない思い出しかないことを眼前に突きつけられるのも同時の出来事だった。二年の夏休みが明けたら直哉は常に何かに怒っていた。それが家に起因していることくらい当時の私でもわかったけれど、そのままこんなところにいなくても一流の呪術師にはなれるんだ、と言って出て行ってしまったのだった。勿論東京所属の大人になった今は当時何があったのかは理解しているけれど、私はいまだにあの時に学校と一緒に直哉に捨てられたような気持ちでいる。
 三条の長いエスカレーターを乗り継いで改札を通った瞬間に、私の名前を呼ぶ声がしてつい振り返ってしまった。

「お、暇そうやな」
「直哉……」

 目の前にはあの時よりも少し老けた直哉が立っていて、にやにやと心底嬉しそうな顔をして私の左手をさも当然のように取る。ほないこ、と彼は私の半歩先を行くように地上の方へと足を進めている。私は俄な混乱と、昔からの彼の変貌になんで、だったりどうして、の疑問がないまぜになりながら直哉、と呼び止めることしかできずにいた。

「なんでここにいるの?」
「お昼ご飯食べに」
「そうじゃなくて、なんで待ち伏せてたの」
「人聞き悪いなあ。待ち合わせ言うてよ」

 全部俺にはわかるから、と一瞬だけ顔を近づけて囁かれる。学生時代は黒かった髪の色は今は金色に抜けていて、それでも書生みたいな格好をやめていないせいでどこかちぐはぐでおかしさがある。この街でもギリギリ溶け込めてないような気がする、と思いながらもそれを伝えるには私たちの間には時間が空き過ぎていた。

「どうせここらへんで降りるやろと思ったけど、どこのパン屋行くかまではわからんかった」

 だからこれ、と直哉は私の手を掴んだ逆側でじゃら、とビニール袋を鳴らす。中には食パンが丸ごと一斤入っていて、その下にいくつか小さい包みがあるように見えた。

「川辺でオープンサンドしよ」

 何それ、という間も無くうれしげな直哉に手を引かれて階段を上る。いまどきはケッタイな名前のパン屋がある、だとか具は適当に選んだわ、だとかうれしそうにディティールを語る様子からすると、本人がさっき買ってきたのだろう。十年ぶりに会ったのにまるで学生の時の続きみたいだ。あの時みたいに制服も着ていないし、あの時みたいに付き合っているわけでもないのだけれど、確かに街に繰り出しては日がな遊んでいた時みたいな気持ちになっていた。

***

 手で割った不揃いな食パンに、直哉が買ってきた惣菜屋のサラダを乗せて齧り付く。直哉は学生時代は絶対しなかったのに川辺の間隔のなかに入ろうとしてはうまく入り込めずに結局一駅歩いて、大きな河川敷の遊歩道まで降りる羽目になった。大人になってからはここの道を歩くなんてしなかった、と思いつつも確かに思い返せば学生時代直哉と飽きるほど歩いたのもこの道だった。ここでええかあ、と彼が指し示した地点で彼は何も気にせずに袴のまま座り込む。一瞬逡巡したけれど、すでに朝の仕事で動き回っていたので私もハンカチなんて敷かずにその隣に座り込んだ。懐から出した匕首でパンを切ろうとしていたので止め――結局手でちぎる羽目になったのでガタガタでいびつな形に割れたけれど、その食パンは前評判に違わず柔らかく甘かった。

「行儀わるいなあ」
「カットしてあるやつ買えばよかったじゃん」
「焼きたてだったんよ」

 鳥に攫われないように直哉は大きな口で食べ進めていた。あまりにも十年前の続きのように、さも自然に振る舞う直哉を前にしていつの間にか心安い気持ちになってここまできてしまった。確かに午後の打ち合わせはここから行く方が近いけれど、と思いながら視線を川面の浅い部分に向ける。段々になった規則的に並べられた石が不安定ながら橋の代わりになっているのを私たちは知っている。もう少し上流までいけばそれを渡る人もいなくはないが、ここらではあまりそういう使われ方をしないことも。直哉は後輩をそそのかしてあそこを通らせて川に落としたことがある。まあそれは一種の、母校のよくある新入生の通過儀礼であったけれどその後すぐ消えた直哉がそれをやったせいで、その翌年からはデルタの近くのもっと浅くて家族連れの多いところのそれに変わって、次第にみんな足を水に浸け出すような遊びに変わってしまった。直哉が二年生の時に楽しそうだったのはその時だけだ。

「最近どうなん仕事」
「結構忙しい」
「はあ、東京でても東京の仕事貰えてへんやん」
「うるさいな」

 酸味の効いたデパ地下のポテトサラダは芋の形が残っていてなお食味が良い。歯にしゃりしゃりと当たる薄い新玉ねぎもなお良い。直哉が箸で雑に乗せただけなのに、それだけで当初食べようと思っていた喫茶店のサンドイッチへの憧憬なんて忘れてしまいそうだった。ふかふかで柔らかくてほの暖かいパンも上手くあっていた。やわらかさと甘さがしっくりくる。一方で厚いパンに山のように盛った具材のせいでお互いに大口をあけて川面の前で平和にパンを齧っているなんてどうもなんだか情景としてはしっくりこない。何度かコンタクトはあったとはいえ、これは別れてから初めての再会なのだ。しかも十年ぶりとかの。それがこんなにスムーズに過去と現在が接続されていていいのだろうか。

「なんか変な感じ」
「何が」
「だってなんか、高専のときみたい」
「そやなあ」

 直哉は無遠慮に半分のこったパンの上にさらにポテトサラダを載せる。昔からよく食べる男だった、とは思うものの今も変わらないのだろうか。あの時は黒かった髪も今や何故か金色だ。それでいてピアスの穴はあの夏から増えていなさそうだった。彼の中で何が変わって何が変わっていないのか、私にはもうわからない。

「そっちかて全然変わってないやん」
「そうかな」
「背も伸びん、等級も変わらん、顔は……まあまだかわいいな」
「最低具合も変わらないね」

 食パンの半分から向こう側へ。目の前の水面は穏やかに豊かな水量を右から左に流し続けている。彼の好きな生き物は見当たらない。これから後二週間もしたらきっともっと気温がきゅっと下がって、こんな間近に座るなんて酔狂な行いになってくるだろう。その証拠にひしひしと跳ねる水滴が纏う温度は冷たい。ああ、この分ではこのあと高専についたらもう寒いのだろうな。

「なあ」

 いい食パンは耳までおいしい、食べにくいことがない、というのを図らずも今日知った。最後のパンの角を口に押し込みながら、自分の名前を呼んだ直哉の方を見る。いつの間にか直哉はペットボトルの緑茶を口にしていた。おもむろにあけられた蓋と直哉の片手に乗せられたままの食べかけのトースト、それからまだ残っているポテトサラダ。

「俺らいつ別れたっけ」
「さあ」
「別れた気、ないんやな」

 よかったわ、と言いながら直哉は大きな口にトーストを押し込んだ。なんだそれ、と思いながら私は直哉から視線を外す。のどかな秋の昼で、向かいの川べりに学生も家族連れもいればちょっと視線を遠くにやれば車だって通っている。自分たちがいる後ろの堤防を上がれば市バスの停留所だって地下鉄の入口だってある。あまりにも誰かの休みの日の一部分に私達はいる。鞄から朝東京駅で買ったきりのボルヴィックを取り出して、封を切って口に含む。一気に飲み干そうとして数回息継ぎしながら飲む私に直哉の視線が向いていることなんてよくわかっていた。

「そうよな、だってお前まだ」

 直哉の左手が自分の顔に伸びてつい身構えてしまう。市井の人々からどう見えているのだろう。初々しい学生カップル、そんなわけない。直哉がそう考えていたとしても私達はもう二十七歳の大人だ。しかも片方は一人前の呪術師としてめでたく十周年を迎えた成人男性だ、ということを忘れてはいけない。

「なつかしいな、これ」

 直哉の手は結局私の右耳に触れた。無遠慮な手は私の耳たぶを二つの指で摘み、その下側に下がった金属と石の組み合わせを陽に当てようとしている。これが誰から送られたかなんて知らなかった、と思いながら右手でやんわりと直哉の手を引き剥がす。コットンのシャツの感触が懐かしい。

「これ、高専のときのクリスマスにまわってきたやつ」
「誰のかわからんかったろ」
「来なかった四年生のだとばっかり」
「俺がお前に当てて送ったやつ。置いてったからな」

 留め金の下に緑色の楕円の石がさがったピアスだった。石と留め金の間の彫金の細工が小さい花になっているのが自分にしか見えない小ささで気に入っていて、服装の彩りがない日に好んでつけていた。ましてやクリスマスシーズンなど色味がマッチしていたものだから、連日つけていたことも度々ある。少なくとも直哉のピアスの趣味ではないと思ってこの十年安心してローテーションの中に組み込まれていた。学生時代の折返しで得たものだったから初心に返りたいときだとか、そういうときにもつけていたのに、それがこの男のプレゼントだったなんて知らなかった。

「知らなかった」
「そうか? 俺は嬉しいけどな。知らんとまだつけてくれてたのも」

 直哉を引き剥がした手を耳に当てる。お気に入りだったのに、だった、もう私はそのことを過去にしているらしい。ちょうどいい、と思いながら人差し指で耳の裏のバネの金具を引っ掛けて外す。逆の手でも同じ動きをしてピアスを外して右手に一対を集める。つるつるしている緑の石、可愛かった。アンティーク風の金具、好きだった。何よりいずれも自分の肌の色に映えていてよかった。

「これかわいかった。知らなかったけど、選んでくれてありがとう」
「それはどうも。つけとったらええやん」
「そうだね、でもこうすべきだから」

 立ち上がって、振りかぶって、一投。頂点で離したかったのに慣れていないせいで頂点を過ぎたところで指から二つのピアスが離れて川面の上に揺れて、小さい飛沫と一緒に水の中に沈んだのが見えた。隣の直哉はおい、だとかおまえ、だとかなんとか言っているけれどもう何を言っているか正しく聞き取れもしない。

「じゃあね、直哉」
「何……してん」
「いいよ、さっきまでは付き合ってたってことにしても。でもこれからは違うから」

 私の右手を直哉が掴んでいた。食べおわったサラダの殻容器が直哉の袴の膝から芝に落ちた音がするけれど私はそれを振りほどいて堤防の階段に足を向ける。京都の大きい川沿いで、大きい道沿いで、橋の近くで、私の名前を大きく呼ぶのはやめてほしい。振り向いたら終わりだ、と思いながら私は小走りで階段を駆け上がる。連続した仕事のせいで今日のヒールは低めなのがよかった、と思いながら食べたばかりのパンと飲みすぎた水が胃からあふれそうな気配すらする。青春は正しく終わらせておくべきだ、と思って拠点を東京に戻した二十歳の春のことを思い出すのは何故だろう。あの時にはすでに直哉の姿を見ないで三年経っていたのに、出来事が接続されるのが不可解だった。階段を登りきって地下鉄入り口に飛び込む前に出来心で橋のたもとの木の陰から数分前に座っていた場所を覗い見ればもう直哉の姿もなくて、代わりに靴と荷物が残されたままだった。視線を少し川の方にずらせば袴の裾を括りあげた直哉が川の中を進んでいた。私はその光景を十年前に見たかった。彼がまだ高専生で、私がまだ彼の隣にいるべきだと思った時代に。
 今度の出張の時にも彼から電話がかかってくることはあるのだろうか。