七海と喧嘩して仲直りする話
七海と喧嘩をした。今まで数年付き合ってきて、暮らしも一緒にした中では最大のものに違いない。部屋探しでも、生活習慣を変えるときですらこんな衝突はしたことがなかった。七海のお小言になんとなく腹が立って(だって言っていることは自分だって出来ているとは限らない事柄だらけだ!)一つ一つを言い返していたら思わず止まらずに次々と不満が噴出してしまい、気がついたら許しがたい気持ちになっていた。とはいえ家を飛び出すには時間が遅すぎたし、私ばかりが出ていって不便と不利益を被るのも腹立たしいと思って家を出るのはやめた。七海はその日の夜なんとなく和解の雰囲気を醸し出しながら「もう私は寝ますが」だなんて気取った声を出してきたけれど、私はそれにすら苛立たしい気持ちを覚えてそれからずっと七海を無視してリビングルームのソファにバスタオルを敷いて、タオルケットをかけて眠る日々を過ごしている。七海がこだわったアルモニアのソファの寝心地はちょっと暑いけど最高で、風呂上がりにオットマンに座る七海のことも、私の足にもたれてくる七海も全部無視することだけが少し面倒だった。その対応さえすれば、職場では一切を伏せていたし、等級が同じだと何も仕事が被ることもそうそうないので誰にも何も気付かれないはずだった。
「七海さん、近い」
意図的に私は朝遅くか昼開始になるように仕事を調整していた。七海と遭遇したくないからだけれども、昼は特に嫌だったからだ。日が高くなってからのんびり起きて、カフェでモーニングを食べて直行するのが理想だったけれど全てが全てそう調整できるはずもない。今日は朝早くから仕事があって、午後はフリー。明日から後輩の引率と評価に関する仕事が続くのでその下調べが必要だった。それに合わせて資料の検分だったり、過去の評価観点の分析も必要で、そうして休憩室で同じ家に住む男と遭遇する羽目になる。部屋に入った時からレンズ越しの七海の視線がねっとりと自分に向けられていて居心地が悪かったのに、真横に立つとさらに彼の表面から熱が自分を絡め取ってちりちりと焼かれるような心地だった。そもそも鍛えていて体温が高い男が真横に立つだなんて冬だったとしても暑苦しくて堪らない。そもそも七海は他人よりもパーソナルスペースが広かったはずで、ここまで公衆の場で距離が近いことなんてなかったはずなのに、と思いながらカウンターの上の青いキングジムファイルを開いて目当ての項目を手繰る。指先だけでなく視線の先すら窺われているのがわかる。物言いたげで不機嫌そうな顔は見上げずとも想像がついた。ここで見上げたら、きっと薄い唇はくどくどと何かしらの非難を紡ぐだろう。
「あの、先読まれますか」
「いえ。あなたの後で問題ありません」
「そうですか」
じゃあもう少し離れてくださいと続けようとしたら彼はそのまま付箋だけつけさせてくださいと告げてポケットからペンと付箋を取り出した。あのジャケットに付箋なんて入っていたんだと思いながらページを捲っていると七海は続けてすみません、と言いながらページを捲る手を遮り、薄青色の付箋をページの角に貼り付ける。「いつまで怒っているつもりですか?」角ばった文字が私をせせら笑う。体温がきゅっと上がるのがわかる。七海のことを見上げてあなたもでしょう? と掴みかかりたくなるけれど、両目を瞑って大きく三秒息を吐くことにした。ここで見上げたら七海の思う壺だ、そう思いながら次の四秒で息をゆっくり吸う。だめだ、全然怒りが収まらない。
「失礼」
七海は私が怒りを飼い慣らそうとする間にまた何かを付箋に走り書き、私の手元からページを数枚めくって似たような位置にまたメッセージを貼っていた。「無視するな」私は文字列を確認してから手首の時計を見る。正午の十五分前、最悪の時間だ。あと二分もしないうちに若手の女性職員が七海の存在を確認しに廊下から覗き込み、七海を昼に誘う。「七海さん、お昼まだでしたら、一緒にいかがですか?」美しい髪を器用に束ねて、ごく自然な口ぶりで。七海はなんでもないようにそれを快諾する。私が昼にここに来たくないのはそれを目の当たりにするからだった。中庭で、近くのカフェで、七海は見られているのも私がそれを嫌がっているのも把握している。私がそれに文句をつければ、あなただって後輩と二人で遅くまで飲むのをやめなさいと七海は告げたけれどその苦情は全然釣り合いが取れていなくて聞く気がしない。七海だって後輩と仕事の後に飲みに行くし、それを咎めた覚えはないのだから私だって咎められるべきではない。全然
同じ条件
じゃないのに同じように丸められるのは間違っている。
じゃあなんだ、この怒りの向けられ方は。不当じゃないか、
似た条件
どころか果物ですらないかもしれないと雑な思考に怒りを分散させていれば悪魔の時間はすぐそこまで来ていた。
「あっ、七海さん。今日もいらしたんですね」
「すみません、いまちょっと忙しくて」
「じゃあ……お昼行くの難しそうですかね」
「ええ、すみませんが。『調べ物』に手間取りそうなので」
するりと声が抜けて行って、引き戸が再び閉められた音がした。私は顔を上げることができない。七海が女性からの下心がこもった誘いを断らないことには常々苛立たしい気持ちを覚えていたけれど、今この瞬間においては七海がここから立ち去ってくれたらいいのに、と思っていた。
「七海さん、私午後空きなので先に調べていただけますか。お時間かかるとのことなので、先にお昼いただいてきます」
「お気になさらず」
「気にします」
目当ての記録をファイルから抜き出してコピー機に移動し、自動紙送りにかける。すとんすとんと機器の動作音がして、ほかほかの用紙が吐き出される間も七海の動いた気配はない。こういうの全部電子データにしてほしいな、と思いながらファイルの金具を再び開け、記録を元に戻す。本当は他にも調べたい事柄はあったけれどもう別日にしよう、と思ってファイルを閉じなおて七海の方に寄せて寄越し、まだ熱の残るコピー用紙を折りたたんで手持ちのクリアファイルに差し込んだ。
「それじゃ」
「……終わってないんでしょう、どうせ」
「いいえ。明日の分はこれで十分です」
明後日の分はまた明日やればいい。出張するわけでもないし、明日の報告書を書いた後に調べたらいい。
「まだお昼間に合うんじゃないですか」
「そういう言い方しかできないんですか」
「いえ? だって最近よくご一緒されているところを見かけるので、同僚として気を遣っただけですが」
「気取るのはやめろ」
コピー用紙のせいで温まったクリアファイルが七海に取り上げられる。想像していなかったせいで目で追ってしまって七海とレンズ越しに目があってしまった。は、だとかあ、だとかよくわからない音が喉の奥から溢れる程には七海の目はぎらぎらと輝いていて、どきどきするよりも前に捕食されそうで怖いという感想が先に出てくる。七海の青いボタンダウンが貝のボタンだ、お気に入りのシリーズの方を着ているなとか、今日は香水棚の右にあるトムフォードを着けているとか、刈り上げ部分に汗がうっすら浮いていてきらきらしているだとか、数日間無視していた七海の情報が一気に雪崩れ込んできて頭がおかしくなりそうだ。こんなに綺麗な捕食者がいてたまるかと思うと同時に彼に祓われる呪霊にすら少し嫉妬を覚えてしまう。
「してほしくないことをするように唆すのはあまりいい趣味とは言えません」
「七海、ここは職場」
「うるさい。職場で嫉妬して家で口を聞かない馬鹿に言い聞かせてるんです」
「七海だって似たようなこと言うじゃん。七海も馬鹿でしょ」
「下心を持たれているのにも気付かない馬鹿と一緒にしないでください」
「それはそっちもでしょ? それとも気付いてて見せつけてるの?」
七海も趣味悪いよ、そう言い切らない内に七海は私の肩に触れる。身体が覚えている感触に応じようとしていて一歩下がれば思ったよりも早く身体がカウンターと七海の間に挟まれていた。流石にこの体格差は敵わない、と思いながら七海の顔から遠ざかろうとしていたらすっかりカウンターの上に伸びる形になっていて、傍目からみればいかがわしさ百点満点と言い切れる体勢になってしまっていた。ああ、コンプライアンスという単語がこの世界に存在していればよかったのに。呪術界で唯一コンプライアンスの意味を理解している男がこれじゃあ横文字なんて何の役にも立たない。
「……嫌がる人にキスはできない」
「カウンターに押し倒しておいてそんなこと言うの」
「逆にしたいんですか、あなたは」
「今はしたくない、七海なんて嫌い」
「今は?」
「七海のことが嫌い」
こういう後先考えない粗暴なところもあるくせに、なんだかんだ同意を求めるところが嫌いで好きなところだった。私のことをめちゃくちゃにしてほしいのに七海は絶対にしてくれない。私の同意を求めて共犯関係に仕立てるのがもどかしくて紳士的で大好きだった。七海に嫌い、と言うたびに胸の奥が重くなって七海の目が仄暗く輝きを増すのが愉しくて仕方がない。
「嫌いな男に自由を制限されているのに楽しそうで何よりです」
「それはどうも」
「あなたは今、私がこの足を緩めても逃げ出さないんでしょうね」
「大した自信だこと」
「あなたの言う嫌いに意味なんてありませんから」
「私の家が呪言遣いだったらよかったのに」
「そうしたらもっと素直で可愛いかったかもしれないですね」
素直にキスしましょうよ、そう言われてはいそうしましょうだなんて言えるほど可愛い性格をしているつもりもなくて、七海の足の拘束が緩んだと同時にゆっくり体重をカウンターから爪先に戻す。だんだん真っ直ぐに床に立つ私の顔に七海の顔が近づく。キスどころか噛みつきそうな視線をしている。ここでむしゃぶりつくようにキスができたらドラマチックでよかったのにね、と思いながら私はそのまましゃがんで七海の拘束から逃れてしまった。
「職場でキス、しなくない?」
「すみません、前職では普通でしたので」
「そうなんだ」
「会社や業界によるとは思いますが」
「七海はしたいの?」
「そうですね。したいですし、すべきだと思って」
七海がそのまま腰を落としてくるのが見える。片膝を床について、体育座りをした私の脇の下に真っ直ぐ手を差し込んで立ち上がらせようとしている。その姿勢が得意じゃないことくらい知っている。腰を痛めるぞ、と思ってつい立ちあがろうとしたら七海は小さく助かりますだなんて漏らした。七海が私起因で負傷したら――しかも休憩室で抱き上げようとしてなんて――針の筵になるのはこちらになるのが目に見える。
「あなたがずっと聞いてくれないので職場で相談する羽目になっています」
「家でなんにもなかったみたいなふりするの、本当にやめてほしい」
「要望を聞きはしたでしょう。どうしてほしいという要望はあなたの発言の中になかった」
「そういうとこだよ」
七海は大きくため息をつく。目が爛々としている。絶対に碌なことを考えていない目は一体いつぶりに見ただろう。
「あなたは私が女性と二人で食事に行くのを嫌がりますね」
「嫌です。七海について探りを入れられたりするのも嫌。私が気付いてるのにやめたり隠れたりしないところがもっと嫌」
「素直でよろしい。私も同様に、あなたが下心を持たれているのを知らないまま男性と二人で飲みに行くのに腹を立てています」
「下心を知ってたらどうするの」
「尋問にかけます」
「知りませんでした」
「尋問にかけるのは男性側です。あなたにはいずれの場合でもお仕置きが必要なので」
七海は私の両頬に手をかけながらそう告げる。今日の七海は凄みがあって怖い。皮膚からそれが彼に伝わっているかはわからないけれど、お仕置きの四文字には少しだけ肌が粟立った。
「あなたがどうしてほしいか言わないのでここ数日考えていたんですが、これらは私たちの関係を公表すればいずれも解決すると思います」
「……論理の跳躍がすごくない?」
「結論から話すという技術を知らないんですか?」
七海の硬い指先が私の頬に突き刺さる。いつでも荒れている指先の皮膚は固くてささくれ立っている。ファンデーションが皺の間に入るぞ、と思いながら相槌を打つ。七海はそのまま続けた。
「私とあなたが随分前から一緒に暮らしていることまで知ってなお、女性が私をランチに誘ったりあなたに探りを入れたりするでしょうか?」
「わかんない、敵意は向けられるかも」
「そういう人間は私から手を打ちます」
「怖い……」
「逆にあなたも下心には晒されないと思います」
「わかんないよ、七海に勝てるって思ってる人もい」
「いません」
断言する七海は勝ち誇った顔でほら解決するでしょう、と私に微笑みかける。確かにそうかもしれないけれど、と思いながら私は七海に背を向けてカウンターの上に放られたクリアファイルに手を伸ばす。
「見せつけるように誘いに乗っていたことは謝ります」
「解決策よりもそれを先に聞きたかったんですけど」
「たまには分かりやすくあなたに執着されたかったので」
「大人の七海さんがそんなこと言ってるの学生が聞いたら泣くんじゃないかな」
ね、そろそろ和解しましょう。七海はそのまま後ろから私の身体に手を回す。おうちに帰ったらね。言いましたね、と七海は名残惜しそうに私のワンピースを撫でて手を外す。七海の腕から抜けた瞬間に正午を告げる予鈴が鳴ってそそくさと私は高専を後にした。幸いにも誰にも会わず、落ち始めた広葉樹の葉を踏みしめながら構内を出口に向かって歩く。残穢のようにべったりと耳の奥に七海の吐息が蘇る。また夜に。
***
また夜に、と言った割に七海が帰ってきたのは十六時過ぎで、随分明るいうちだった。そうだったはずなのに、今半分開いたカーテンの向こうはもう真っ暗だ。なんじ、と聞こうとして口を開けども掠れた息しか出なくて、意味を成さないまま七海の舌が私の舌に重ねられる。刺激がガンガンと神経を叩いて頭の中をくるしいときもちいのふたつで満たすのを感じる。生理前でぱつぱつに張った胸を七海のタコだらけの手が表面を撫でる。きもちいい。そのまま力をかけて乳腺が潰される、いたいけどきもちい、指が乳首の先を無造作に撫で回す。狂おしいほど気持ちがいい。同様に私の身体は七海に押し潰されてくるしいけれど身体のつながったあちこちからきもちがいいとばかりに神経が刺激されて私はもっと七海が欲しくなる。私がそうして七海を呼ぶと、七海はその声の中からきちんと私の欲望を嗅ぎ取って私の中で勝手に質量を増し、そのせいで私はまた内側から気持ちいいばかりのスイッチを押され続けて頭の中が混線してしまう。神経回路が勝手に撚れてつながって、受ける刺激が全て七海の解像度に繋がるような心地に身体が耐えられきれずに思考と身体を切り離そうとしてしまう。きもちいいだけに全て塗りつぶされそうな中で七海が私の身体を掴んでいるのはひどく安心感を覚える体験で、満ち足りた気持ちで七海に押し潰されたのは今夜で何回あっただろうか。なんじ、と聞き損ねたところでまた今回も同じように絶頂を迎えてしまって身体が苦しい。苦しいとわかっているのに七海が身体を起こすのも、中から陰茎を引き抜くのも全てが寂しかった。質量と熱が離れていく、そして七海に続いて粘液がぬる、とすべり落ちるのも全てが喪失感をつれてきて頭の中をきもちいとさみしいに塗り替えていく。すべてが流れ出てしまわないように心持ち脚を閉じる。ずっと割り開かれて七海の自重をかけられていたせいで自分の身体なのに軋みながら動いて違和感しかない。足を閉じたせいで筋肉が連鎖して身体の奥に残った液体がもう一度奥に逆流するような心地がして、いまこの身がひとりきりで何とも繋がりがないことを否が応でも理解させられている。
「ななみ」
自分の想像よりも掠れて甘えた声が出てくる。いや、離れないで。そう続けるよりも前に七海はもう一度だけ屈んで私の鳩尾にキスをする。間近に見える崩れた髪型と光る瞳。
「……一回、風呂に入りましょうか」
ベッドから落ちてしまっている衣類と下着を掴んで七海は寝室のドアを開ける。七海の鍛えた背中が遠ざかっていく。後追いをしたくなる背中だと思いながら上半身を起こしたけれど、ふらふらして現実感がない。起き上がるのに腹筋を使ったせいでどろりと股の間から二人分の粘液が溢れてきてつい目でウエットティッシュの箱を探してしまった。サイドテーブルの奥にみつけたそれを取ろうと腕を伸ばして、足りなくて上半身も伸ばしたけれどやっぱり足りなくて再びシーツに倒れ込む。一度肌から離れたシーツはすっかり湿っていて、洗わなくてはと思いながらも身体の重さと一緒にこうなった先程までの理由をつい思い出してしまう。七海が浴槽を軽く洗うシャワーの音が聞こえる。彼も私もすべてお互いに許し許された気でいるけれど、このまま志半ばでシーツの海に沈んでシーツを汚しても彼は私を咎めないだろうか。ぼんやりそんなことを考えながら、でもこれは全部七海のせいだ、と責任の二文字から目を背ける。私達はもう少し対話をしてもいいかも知れない、と思いながらも久しぶりに向けられたむき出しの感情に満足している自分がいて、大人な七海が好きだなんてどの口が言えるのだろうかとちょっと反省した。一緒に暮らす上では、身体のことも考えると、仲直りは小さな諍いの断面で多く機会を持つべきだ。
十六時十五分ごろ、七海は予定よりも想像よりもずっと早く帰宅した。その時の私は七海が帰ってくるとも思わずリビングルームで寝転びながらタブレットで動画を見ていた。明日の仕事に向けて気が重いので今日の夕食は簡単に作ろうと思って寛ぎきっていた。七海が帰ってくるのが少し怖いな、とか数週間見損ねたドラマって何回か見ないとついていけないな、だとかそんな気持ちをないまぜにしながらソファに寝そべっていたものだから玄関の鍵が開く音に驚いて無言で七海を迎えてしまう。ただいまと玄関口で告げた七海はリビングルームに入ってなお固まった私を見て不機嫌そうに再度ただいまと口にする。冷たい視線が私をまっすぐに見ていて動けなかった。こわい。どういう顔をして七海に会うか考えてなかった、と思いながらおかえりと言おうとして唇が動かない。七海が近づいてくるのが見えて、内心怯えながら起き上がってやっとの心地で声を絞り出す。
「おかえり、七海」
「……帰りました」
七海の手が頬に添えられて、むぎゅうと緩くつねられる。無視したわけじゃないのに、と文句をあげれば唇がくっつかないせいで発音が緩く宙に浮く。七海の手は熱くって、暖房もつけないままの室温ですっかり冷えた皮膚に触れられるとなんだか妙にドキドキする。近くに寄られたせいで七海の匂いが濃く感じる。昼間に感じたトムフォードの香りはラストノートだけで薄まっていて、体臭と汗の匂いと混ざって夜の七海の匂いがする。まだ明るいから不思議な気持ちだ。
「すっかりここがお気に入りですね」
「寝心地が最高なので」
「まだ籠城が続いているのかと思って不穏な気持ちになりました」
七海は荷物を床におもむろに放り、クッションを挟んで私の隣に座る。私が寝そべってぴったりの三人掛けソファに七海が座るとなると、もう残りの席はわたしとブランケット、クッションで埋まってしまう。逃げ場なんてない。コンタクトの間を開ければ開けるほど、七海の所作が荒くなることなんてとっくの昔に知っていたけれどこうして目の当たりにするのは久しぶりだった。
「家に帰ってきたんですが」
「うん?」
「キス、してくれないんですか」
ソファの足元に七海の仕事道具が散らばっているのばかりに目を向けてしまう。七海の顔を見たくないからそうしているのだけれど、結果として自分よりもずっと神経質な七海が仕事道具と上着を足元に適当に放っている状況を生んでいるということをまざまざと確認するだけになってしまって良くなかった。こんな異常な状況をみて、顔を上げたら何も答えないという答えは許されるはずもない。
「こっちを見ろ」
「あ、おかえり、なさい」
「いつもしてくれるのに、ないんですか」
こっちを見ろといわれて振り向ける人間がいるのだろうか。七海の不機嫌そうな声を家で聞くのは久々だった。いつも自分の名前を呼ぶ声は甘美に聞こえるのに、いまはどうしてか怖くてたまらない。よく身体に染み込む声をしているせいで余計に予後が悪い。
「まだ、仲直りしてないから、しない」
「家に帰ったら和解すると」
「私はそれに同意してない」
ハア、と大きいため息が頭の上で聞こえてやっぱり顔を上げるタイミングを逃す。ここからどう和解に持ち込んでいいかわからない。七海だって何も気にしていないようにいつもどおり私の唇をさっさとさらえばよかったのに。ここ数週間を思い出しても私からした覚えなんてない。それどころか、多分ここ一ヶ月は帰宅のタイミングがあまりよくなくてそういった習慣があった試しもない。
「何が、足りないんですか」
「……七海のそういうところ」
「はっきり口で言えと言っているんです」
七海と私の国境線、マリメッコのウニッコ柄のクッション。七海の身体がそれに凭れながら自分の方に来ているのはわかるけれども、身体をどう動かせばいいのかすっかりわからなくなっていた。以前の私だったらどうしたっけ、と思っても七海とここまで大きな諍いをしたことがないからわからない。これまでは多分、どちらかが早々に折れていたし、私もここまで面倒な事を言いだした記憶もない。
「どうしたら許してくれますか?」
「……わからない」
「そういうことを言われてしまうと私も困ります」
許す気がないのなら教えて下さい、と言いながら七海の長い指が自分に近づいてくるのが見えて目を閉じた。想像よりも一瞬どころか数秒遅くその指は私の頬に触れるけれど、今日触れたどのタイミングよりも一番優しくて七海も困っている事がよく分かる。さっきみたいに頬をつままれるときみたいな気安さも、昼にキスから逃げた後物欲しそうに撫でたときの私への安心感もそこにはない事がよく分かる。
「教えて下さい」
「そんなにしたいなら、七海が勝手にしたらいい」
「あなたが嫌ならしたくない」
したくないわけじゃないけれども、もうこの場でどうしたらいいのかわからないのだ。多分二人して同じことなんだと思う。七海の親指が私の下唇のふちに触れる。くすぐったい。目をつぶっているせいで余計に七海の指の気配を肌で感じとってしまう。中指が顎の骨に触れるか触れないかの距離で躊躇しているのがよく分かる。熱気が肌にぶつかって身体が勝手にそわそわしているのを私は知っている。
「嫌じゃない、けど」
「けど」
「……私がいやなこと、もうしないって約束してくれないと、しない」
「もうしません。あなたを試すこともしない」
「しないで」
もともと私は何に怒っていたんだっけ。生活のこまごましたお小言、七海のシャツを間違えて家の普通の洗濯で洗ったこと。夕ご飯はいらないと連絡を忘れたこと、連絡しても酔っ払って後輩に送ってもらったこと、私のスカートの丈とスリット、それからニットワンピースは身体のラインを拾うから云々。そういう山積した七海のお小言にいちいち言い返していたら許せなくなっていたので、きっともっと私達は顔を見て小さい諍いを起こして許し合うなり譲歩をするべきだった。まあ、今回握らせたことはそれのいずれにも出さなかった事柄ではあるけれども。
「キスしてください」
「いや」
「和解したのに」
「七海がして……どんな顔していいかわからないから」
七海の親指の腹はざらざらしている。唇のふちを左右に遊んでいるせいで唇の神経がありありとその凹凸を私に知らせてくれる。そのまま口づけてしまえば済むかしら、とすら思う。親指を介するキスなんて、子供でもしないだろうけれど。
「私も許されたいので、してくれるまでこのまま待ちます」
顔を見られたくないなら、目を閉じます。そう言って七海は急に私の顔から手を離した。ぎゅ、とスプリングが軋んで七海が姿勢を変えたことが音でわかる。いや実際には温度が離れていくのでもわかったけれど、急に熱い指が皮膚から離れる感覚が寂しさに似ていて目を開けてしまった。さっきまで七海が潰していたであろうウニッコ柄のクッションはすこし潰れたまま国境線を形成していて、国境の向こうで七海は帰ってきたときの姿勢のまま、天井に顔を向けて目を閉じていた。額と鼻梁の作る稜線は見慣れたそれで、力を入れて目を閉じているせいかわずかに眉間に皺が寄っている。鼻先の崖から唇までの距離がちょっとだけ伸びているのが七海のかわいいところだと常々思っていた。……もちろん誰にも言ったことはない。
ん、と七海は自分の膝を叩きながら声を上げる。きっと私がまだ目を閉じているとでも思っているのだ。ここに乗れ、と言わんばかりに膝を示す手を取ってソファに下ろす。国境線に手をかけて身を伸ばすのでは届かない。わかりやすい罠だと思いながら私はソファをゆっくり降りる。
「七海、ちょっと偉そう」
「……まだ罪状がありますか」
「ない……いや、あるかも」
「今ならまだ折れるので教えて下さい」
七海の膝の上に跨って肩に手を添える。薄い部屋着と七海のスーツ越しに彼の筋肉がみっしりと自分を支えているのがありありと分かってちょっと気持ちが高ぶる。それを見透かしたようにさっきソファに置いたばかりの手が私の身体を後ろから抱き寄せてきて懐かしい気持ちになった。最近こういうの全然してなかった。無遠慮な手は私の薄い部屋着越しに温度を伝えてくる。やっぱり偉そうじゃないかな、と思ってどことなく面白くなってしまって笑ったら七海の眉間の皺がさらに深くなった。
「許してほしいって言ってるのに、なんでこんなふうに抱かれてるの、私」
「焦らさないで」
「焦らしてないよ、質問してるだけ」
七海が上を向いているせいで喉仏がよく見える。急いで帰ってきたせいでか彼の身体はいつもよりも熱い。すこし寛げられたままの喉元が白くて、シャツの色とのコントラストが映える。七海はいつもみぞおちに香水を一度吹くので、体温で立ち上った香水と体臭が混ざって抱きしめられるとここからいい匂いがすることを私は知っている。他に誰が知っているかは知らないけれど。思わず思い出した嫉妬心に七海がいつもそうするようにタイを引いて緩めれば、七海はちょっとだけ嫌そうに鼻の奥から声を上げた。そんなの知らない、と摩擦係数の少ない布を引いて外して床に投げ捨てる。その奥に隠れていたボタンを一つ外して覗いた黒いアンダーシャツと肌の境目にキスをしたら、もっと不機嫌そうな声が再度頭の上からした。
「口がいいです」
「うん。わかった」
七海の肌に跡をつけるだとか、そういうことで他人を牽制する気はない。ただここから立ち上る七海の匂いについて他人が知っていたら嫌だ、と思ったからしただけだった。きっと私がそういうことをすると七海は内心歓ぶだろうことは知っていたけれど、私がそういう状態の七海を見たくないのだ。襟元に顔を寄せて胸いっぱいに温まった空気を吸い込む。安心する。七海のことを怖いと思ったのは久々だった。付き合う前はもっと怖いと思ったことが度々ある。それは彼の視線の量と目つきの悪さ故だが、ぼんやりごまかそうとしたことを聞き直したり咎められるときの視線と真剣なときの彼の視線、それから熱量はさして差があるわけでもないので仕方がないことだと思う。
膝をソファに支えさせながら身体を伸ばして七海の唇に触れる。わかりきっていた罠だった。私が肩に手をついて身を伸ばせばそれに応じて七海の手は上へ伸びて私の身体を自分に寄せる。唇に触れた瞬間に彼は姿勢を戻しながら私を身体にもたれかからせて戻す気などさらさらないのだ。一度目は私から触れたのに二度目三度目と彼が私の唇をひらく。熱望を隠すことなく彼の鼻は私の呼吸を遮るように私達の間の酸素を先に奪う。もっと清涼な空気が吸いたくて身体を起こそうとしたら今日もたくさん呪霊を殺してきただろう屈強な腕に阻まれて逃げることすらできない。一度許したら骨までしゃぶられる心地だ。
「……許してくれないかと思いました」
「なんでそんなこというの」
「五日間家で無視されていると色々限界を感じます」
七海の指が私の肋骨を強く軋ませる。この人が本気を出せば私のカーブを描くそれにノードが追加されてもおかしくない。いたい、と抗議すればその力は弱められたものの手を除く素振りなんて一切見せては来ない。
「五日分の許しが欲しい」
「五回キスしてあげる」
「延滞分もありますが、あなたのすべき約束で代えてあげます」
もう二人きりで男性と飲みに出かけないで、と七海は掠れた声で言って至近距離で私の目を覗き込む。七海が女性からの誘いを断らないから私は一人の頃のようにそういうのを止めないと言い張っていたが、七海からしてみれば私がそういうことを止めないのでわざとわかりやすくそうしていたと言う。どっちが鶏でどっちが卵かわからないのであれば、どっちも同時に止めてしまうのは正解だけれど、私としては七海がしなければこちらもしない、と言いたくはなる。それでも間近で緑の虹彩に覗き込まれると、もうしない、と舌が音を作っていたのだから驚きだ。もうしない、と言った端から七海の手はすべての許しを得たかのように私のトップスに潜り込んでキャミソールの下の下着の金具を外す。これは延滞分? と聞けば彼はちょっと考えてから通常分、と答えて私の身体を抱き直した。