七海さん家のねこ曰く

 ハイ、ゼア。ねこです。名前は実はいっぱいあるの。ママがつけてくれた名前、ママの飼い主の、ケンちゃんのママが呼ぶ名前、それから今の飼い主のケンちゃんが呼ぶ名前とか、あとは窓の向こうで私を指差す街ゆく人の子たちからの呼ばれ方とか、ねこって実は大変なのよね。ケンちゃんのママは私のことをかわいいちゃん、とばっかり呼んでたから、私はそれが一番好きかな。

 私は七海さんちで生まれたけどケンちゃんのママが私だけは手放したくないって言ったせいで、兄弟がもらわれていく中お家に残っていたの。でももうそろそろ先のことを考えると、とか私のママとの二匹はちょっと夫婦二人には多すぎたわ、とか色々悩みの種にもなっていた。その時に仕事をやめたばっかりのケンちゃんが実家に帰ってきたこともあって、晴れて私はケンちゃんのおうちにすむことになったってわけ。このおうちは最高よ。実家になかったみたいな大きなキャットタワーも、部屋ごとに噴水もあるし、それから何より飼い主が一番イケてるんだから。ケンちゃんは大きいけど動きはゆっくりにしてくれるし、毎晩遊んでからブラッシングもしてくれるし、一日お家にいる日はなんかおいしいおやつもくれるの。たまにママのいるお家に帰ることもあって、そのときって致せり尽くせりなのよね。ジッカを出た娘だもん、いいよね、とその時はおもうけれど、ケンちゃんとの暮らしがやっぱり私は一番好きだな。

「かわいくしましょうね」
なゃーん はあい

 かわいくしましょうね、というのはケンちゃんがお風呂に入る前に私と遊んで、それからつかれたしフローリングでブラッシングをしましょう、というときの合図なの。だいたいフローリングの上にごろんと寝ていたらゆっくり好きなところから細かくブラシをを掛けてくれるのでつい喉がなってしまう。だってねこだもん。ケンちゃんの大きい指で撫でられるのも大好き。お腹を最後に吸われるのはちょっといやなんだけど、まあ膝の上にものせてくれるし、気になってた毛もだいたいブラシで取ってくれて自分の足先もピカピカ光るので許してあげなくもないかな、と思っています。ケンちゃんとおそろいの金色の毛が私は大好き。ちなみに爪切りもいやなんだけど、だいたいケンちゃんがやったあとにしましょうか、と言われるのでもうそういうものだとおもって諦めることにしている。

 ケンちゃんは不定期に家をあける時があるから、長くなければ一人でお留守番も出来るけれど、そうじゃない時はよくわかんない人たちがケンちゃんの代わりにお世話をしに家に来がちなのはちょっといやなことだった。若い子のときはシツレイだし、顔色が悪い人は私がありがとうっていうとびっくりして叫ぶし、黄色い髪の女の子が一番好き。あの子は必要最低限だけやって、ちょっとだけカシャカシャブンブンで遊んでくれるから。カシャカシャブンブンて知ってる? ケンちゃんと私が一番好きなおもちゃなの。あの子はケンちゃんの次くらいにうまいわ。

 だから今日もお家にいてよお、ておしゃべりをしていたらケンちゃんはいい子にしていてください、だなんて神妙な顔をして、それから私をズボンに近寄らないようにして出かけていった。今日も仕事なの? とケンちゃんがいない間に見ていたテレビのなかのヒトが喋っていたセリフをまねしてしまいそうになっちゃった。仕事の日はため息をつかれるのがわかっているからスーツには近寄らないようにしているの。実家にいたとき、ケンちゃんのパパはもっと困った顔でママに私を預けてからお説教をするから、子供のときだってしなかったわ。ねこだってそれくらい理解できるんだから。

 それにしても、あのカッコで仕事に行くなんてめずらしーい。いつもよりラフで柔らかいセーターはめったに私にも近づけてくれないやつだった。あれを着ている日に抱っこしてもらうのだあいすき。そう振り返るとなんとなく居心地が悪くてキャットタワーに登って昼寝することにした。ケンちゃんのばあか。ねこをおいていくな。ぴょんと数段飛ばしでタワーに乗って、一番上のバスケットの上で丸まった。バスケットの底に毛があつまってまるいコインができているの、ケンちゃん知らないだろうなあ、と思いながら目を閉じる。いつもと違う香水の匂いがしていやだなあ。早く帰ってきてほしいな。読書している足元で昼寝したいなあ。そんなことばかりを考えて昼寝するに限る。そう思っていたのに、さっき出ていったばっかりの革靴の足音がまたして全然眠れないままタワーの上で手をぐぱぐぱと開き閉じするしかできない。別の足音もする! 仕事じゃないってこと? 誰の足音なの? ぜったい出迎えにいかないんだから。

「こちらです」
「わ、おじゃまします」
「……あれ、寝てるかな」

 ただいま、という呼び掛けと一緒に私の名前も呼ばれたけれど、それよりも私は一緒に聞こえた足音の主? 女の人の声がしたから本当にケンちゃんかどうかも疑わしい、と私は思っている。それでもリビングにきた足音も、私を呼ぶ声もケンちゃんのそれだった。

「お昼寝してたんですね」

 するところだったの! 私はしっぽだけで返事をして、説明してよという思いを言わないでいた。あ、ねこちゃんそこにいるんですね、とか言っている、その人は誰なの? 事前にちゃんと説明して欲しいと思います。ねこだからといって軽視しないところがケンちゃんとケンちゃんパパとママの好きなところでした。

「起きてるんですね。こっちにおいで」 
んやん なんなの

 ほらこっち、とケンちゃんがキャットタワーの真横で手を伸ばしていたのをちらっと薄目で見てしまった。私とおんなじ色の目がこっちを見ていて、仕方ないから乗ってあげよう。バスケットの真横の段に降りてからひと伸びして、柔らかいセーターにダイブ・イン。肩に前足をかけておかえりなさいのチュウをほっぺにした。私の腰をケンちゃんはしっかり肘で固定してくれるから、抱っこされるのは大好き!

「紹介しますね、彼女は恋人の」
「はじめまして」
「それからこれが私の家族の可愛い子です」
「よろしくね、かわいいちゃん」

 ねこです。かわいいちゃんです。七海かわいいちゃんです。ケンちゃんが紹介してくれた女の人はこの家に来る人にしては珍しく、ケンちゃんも紹介してくれたし本人も丁寧に私に挨拶をしてくれた。へえ、ホネあるじゃん。私のことをかわいいちゃんって呼ぶなんて、ケンちゃんママと一緒じゃん。なまえのある来訪者のことはそれだけで嫌いじゃない枠に入りそうだった。ふうん。ケンちゃんの腕から抜けてフローリングに降りて、お客さんの足元にすり寄ってみる。ふうん、知らない匂いがするけど、ケンちゃんの匂いも結構する。仲いいんだ。ねえもっと教えてよ、と足の間を八の字に回ったら、ケンちゃんはこら、と私を捕まえ直した。パンツみたわよ。おしゃれなのはいてるじゃない。

「こら。気になったんですか?」
「かわいいちゃん、ほんと?」

 気になったのは本当よ。それからこのタイミングで、許してないタイミングでさわってこないのも気に入ったわ。お家に入るの許してあげる。ケンちゃんは彼女をソファに座らせて、お茶でも入れますね、と私を彼女の隣に下ろしてキッチンに立った。ちょっと、ねこだからといって急に場に置き去りにしないでよ! と思ったけれど、ケンちゃんと私と、ケンちゃんの家族以外がこの部屋にいるのがなんとなく落ち着かなくて私も昼寝を再開する気にはなれなかった。真横にいるのに触れてこないのも、目を合わせもしない女の人は威圧感がなくてケンちゃんと真逆だ、と思う。最初に会ったときのケンちゃんはパパとママと似た匂いがするのに大きいし目が鋭くてこわくて、子猫の私は、抱っこされるのに爪を出して抵抗したのだった。

「かわいいちゃん、ねこちゃんって、最初は視線合わないほうがこわくないからいいんだってね」

 調べましたよ、とその女の人は言って膝の上から手を外すことはなかった。ふうん、優しいじゃん。気が利くってやつ? ケンちゃんも気が利くけど、そういう調べごとは一切しているところを見たことがないわ。それどころかお家でのケンちゃんなんてぐうたらなんだから。しってた? なんとなく伝えて上げたい気になった。そんなにかしこまらなくってもいいのに、とはじめてこの家の来訪者に対して思う。お世話にたまに来る若いシツレイな黒い服の人に爪一本ぶんくらいこの理解を刻んであげてもいいくらいだ。ケンちゃんは私達の会話に気づくことなくほうろうのヤカンに水を注いで火に掛けていた。

「きょうは急におうちに来てごめんね、許してくれたら遊んでね」

 いいわよ、と私は女の人のももに寄る。あなた、この服は上に乗ってもいいのかしら? いやじゃなければ、私の首のリボンがケンちゃんとおそろいなのも見せてあげるんだけど。前足をスカートにかければ、わ、と小さい歓声が上から振ってきた。いいのね? 乗るから。ケンちゃんとはまるで違うやわらかい腿でケンちゃんママのお膝を思い出す。子猫時代以来だわ、と思ってなんどか踏みしめたらおずおずと耳の付け根に指が添えられて、ねこ的には完全に甘えたくなってきてしまう。なつかしい。もっと毛並みも撫でてほしい。

「おや、もう仲良しですか」
「い、今乗ってくれた」
「私でさえしてもらったことのないことをしてもらっている。役得ですね」

 太い指が私の後頭部から背中を撫でて思わずゴロゴロと喉が鳴る。思ったよりも早く鳴らしてしまったじゃないか。ありがとね、と女の人がおずおずとぎこちなく私の毛並みを撫でるのも気持ちいい。私もうここから動きたくない、と思いながら本格的に丸まろうとしたら指が止まって、何かと思って見上げたら二人が口でチューしていた。今更ご挨拶なんて、と思ったけれど、ねこのそれと人間のそれの意味が違うことを思い出して、かわいい弟のために私は彼女の膝から出て退散することにした。やれやれ。勝手にベッドで昼寝しよおっと。

 数時間後にうとうとしながらベッドの真ん中からキャットタワーに移されて、それからはじめて寝室を締め出されることになるのを、このねこはまだ知らない。