七海が離婚に応じてくれない話

 役所が配る紙はどうして薄くても書き心地が良いのだろう。私は二桁枚数目の紙のますの空白を自分の分だけ埋めながらため息をつく。この紙の中で共通するところは意外にも多い。名字、住所、本籍地、それから右下部の共通項として設けられた同居の期間と別居前の住所、世帯の仕事と夫妻の職業。薄手の緑のふちどりの中に私は七海からいつだか与えられたボールペンで同じ内容を記入する。妻の姓、七海。住所、東京都千代田区何某、本籍地と別居前の住居も同上。世帯の仕事、一から四に当てはまらないその他の仕事をしている者のいる世帯。妻の仕事、団体職員。数年前によく似た別の紙を書く時に恩師に聞いた書き方だった。

 当時その横に並んだ夫の職業は一文字少なく、会社員と記載があった記憶がある。妻の欄に署名と捺印、欄外に捨て印。はんこを捺しすぎていつのまにかはんこを真っ直ぐに捺すのが得意になっていた。紙の真ん中部分だけ埋められた紙は構成要素が少なくて頼りなく見える。それはそうだ。七海が、夫が隣を埋めてくれないのだからいつまで経ってもこの紙は必要条件を満たせず頼りないままで、頼りないその姿のまま彼の指に裂かれてゴミ箱入りしてしまう。

 私は離婚をしようとしている。しかし夫であるところの七海は――私も戸籍の上では七海だが――一向に話を聞かず紙を無為に資源に戻しては毎週火曜と金曜に袋に詰めて外に捨ててしまう。彼が与えたこのマンションは二十四時間いつだってゴミが捨てられるというのに行政のスケジュールに基本的に則ってゴミ捨てをする彼のそういうところはこの期に及んでも可愛らしいと思える。そのせいで私は月曜と、それから水曜木曜にリビングルームのゴミ箱に緑のふちが印字されたそれらを見かけることになる。

「……帰りました」
「お帰りなさい」

 予定よりも早い帰宅に驚いたせいで、手元の紙を仕事用の書類ケースに入れ損なった。まだ乾き切ってない印影が指に触れて右手の人差し指が赤く染まる。また書き直さなきゃ、と思った時には指先を七海に掴まれていた。無遠慮な力加減に昔を思い出して胸の奥がむず痒くなる。

「痛いよ」
「……すみません。怪我をしているのかと思った」

 インクか、と低い声がさらに低く私と彼の間に落ちる。彼は私の指から手を離さなずに書類ケースからしまったばかりの薄紙を取り出して、それから指を離してそれを二つに割いた。二つが四つに、八、それ以上に、小気味良い音を立てて紙が千切られていくのを私は目の前で見守ることしかできない。いいよ別に、また書けばいいんだから。

「またくだらないものを書いていますね」
「今度から代筆してあげようか。はんこだけ押してくれればいいよ」
「書くなと言っているんです。指を折りましょうか。そうしたら書けないでしょう」

 彼の大きな手から私の目の前にぱらぱらと薄紙だったものが落とされる。彼らしからぬ行為だと思って見上げればよく見知った緑のレンズに私の顔が映っていた。七海はいつだって怒っているように見える。学生の時も、会社員の時も、呪術師の時も、それから家でも。次にどう詰められるのだろうと思うとさっきの胸のむず痒さがそのまま締め付けになるようで居心地が悪かった。思えばこうして向かい合ったのはいつぶりだろうか。わざとスケジュールをずらしていたり夜に仕事が入るように調整していることなど、彼はとっくに認識しているだろう。それが私が家で顔を合わせないためだというのも彼はきっと理解している。

「どうして」
「……」
「どうしてこういうことをするんですか」
「……必要だと思って」
「何故ですか」

 七海はスーツのまま私の前に膝立ちになる。ダイニングチェアに座ったままの私は七海に出口を塞がれる形になってしまってつい時計に目を向けた。私たちが婚姻関係にあることを知る数少ない知り合いが結婚当初にくれた壁掛け時計はいつだってこの冷え切った家庭を見守っていた。五時二十分を示している二つの針を見て、後十分で家を出ないと仕事に間に合わないことを悟る。

「七海、私仕事行かなきゃ」
「あなたの仕事はありません」
「なんでそんな酷いこと言うの?」
「私が調整したからです。もう片付けた」

 七海は膝立ちのまま私の膝に手をかける。仕事着にしていたタイトスカートから出た薄手のストッキングの上に七海の手が置かれてその温度に肌が粟立つ。

「明日からもありません。私が、片付けたので」
「……仕事は他にもあるよ」
「いえ、ありません。休暇取得をしました」
「勝手に有給申請したってこと」
「はい。あなたが数年前に……その、まだ、結婚休暇を取得していないと知ったので」

 薄い化学繊維を七海の少し毛羽だった手のひらが撫でて、小さな引っ掛かりにそわそわしてしまう。七海は片手で眼鏡を外して紙吹雪の散った机の上に置いていた。レンズがなくなったせいで焼けるような視線を直に感じて顔の皮膚が溶けそうだった。この人は自分がどれだけ圧を生むか、どれだけ魅力的なのか知らない節がある。特に半年前にセックスができなくなった時からひどく視線を感じるようになった気がするが、何故かなんて問うことは私たちの関係ではできない。私たちは恋愛で結婚したわけでもなければ家の都合というわけでもない。ただ単にできたから紙を出した。同居義務とコストを元に住まいを一つにした。嫌ではなかったからセックスをした。それだけだった。

「なんで七海が申請できるの」
「あなたの夫だと言ったら代理申請できました」
「なんで……」
「事実でしょう」

 私が既婚であることは、おおよそ東京の関係者なら誰しもが知っている。七海が会社員の時に結婚したから非術師と結婚した、と言っていたら詮索も特になかったし、職場では旧姓のまま働いていたから七海と結婚しているなんて誰も知らないだろう。税金に関わる書類の上ではきっちり七海と書き換えられた私の書類を見て気づく人間はいるかもしれないけれど、後年来た中途入職の人間のそれと紐付けられる人間がどれだけいるだろう。

 一方で七海は特にそういう話をするタイプでもないし、指輪も歪むからと言って術師になってから外してしまった。彼はプライベートのことを滅多に話さないので、おそらく誰も知らないだろう。彼が口を割れば私に照会が来ることなんてあの小さい社会では目に見えている。

「こんな紙を書く前に使い切ったら良かったのに」
「……」

 こんな紙、と七海は床に落ちた紙吹雪を摘んで机の上に置いた。膝から熱源が離れたせいで妙に冷えた心地がして私はついスカートの裾を握ってしまう。七海の片手が机から離れて私の裾を握る手に重ねられて驚いて七海の顔を見てしまった。七海は私の視線などお構いなしに私の指先を見つめていた。濃金色の睫毛が綺麗に揃ってカーブしている。端の短い睫毛が少し不揃いなのを眺めるのが昔は好きだった。同じタイミングでベッドにいることなんて最近はなかったのでそんなことを思い出すのも久々だ。

 机に置いた端末が震えて音を立てる。七海の睫毛から意識を離して、それからスカートの裾からも手を離してその端末を手に取れば相手は見知った補助監督を示していて、その呼び出しに出れば確かに今日の仕事がなくなったことを告げられ、うれしそうに休暇を祝われてしまった。ありがとう、と衝撃のせいで失われつつある社会性を振り絞って答えながら隣の男の表情を窺う。この男はハッタリではなく本当に職場で関係を告げたのだ。電話を切って机に端末を置き直せば、もう逃げられない心地がして手のひらに汗をかいていた。

「別れるのに結婚休暇だなんて」
「祝われたばかりで離婚するなんて、貴方なら言えないでしょう」
「ひどい」

 きちんと話し合いましょう、と七海は私に躙り寄る。もう逃げられない。観念して七海の手に自分の手を乗せたら七海は私の手を掴みなおして、顔に寄せて指先にキスをした。中指の爪先に、人差し指に、そして薬指に。手のひらを開かせて今は指輪のない薬指の根本を啄まれる。それから七海は片手で私の左手を掴んだまま右手でスーツの内側を探り、最初に置き手紙をした時に外して置いておいた彼からの最初のプレゼント、結婚指輪を取り出して不器用に私の手につけようとする。こんなことされるのは初めてだ。最初に贈られた時だってこんなことはされずに私はそれを一人でつけたのだ。私たちの関係においてはそれは愛の証明でもなんでもなくて、現代における既婚という名の免罪符に違いなかった。

「忘れ物です」
「外したの」
「あなたのものです。これはここにあるべきだ」

 七海は見た目に反してどんな王子様よりも格好悪く私の指に指輪を捩じ込んだ。これが演劇だったら、即刻演出家の檄が飛んだだろう。内側の当たりが良くて気持ちいいね、と言って選んだそれは半月前と同じように私の手に戻る。隣の指に当たる感触すら懐かしい。表面の細かな傷がこの生活の年数を物語っていて昔それがもっとつるつると輝いていた時のことを思い出して鼻の奥がつんとした。私はあの時、少なからず嬉しかったのだ。少なからずではない。とても嬉しかった。

 七海が会社員になって半月くらい経った頃につい寂しくなって連絡をした。両親は呪霊事故で身罷っていて天涯孤独、術式持ち、二十歳そこそこの女、という便利な条件だけで嫌というほど見合いの紹介やら下心しかない誘いが来て職場の人間とは誰とも喋りたくない時期だった。望まない場に出たくなくて家と職場の単純往復をしている中でつい昔の同期に電話をかけてしまった。

 こういう時に同期という肩書きはあまりにも便利で、そのまま七海に呼び出されても久々の再会の嬉しさしかない。学生の時よりも洗練された彼が呼びつけた先のイタリアンで状況への文句を述べていたら、初恋の相手である七海はしれっとじゃあ私と結婚すればいい、と告げたのだ。私も相手がいるとなれば職場での無用な出来事を躱せるので有難いんですよね。シャカイテキシンヨウにもなりますし。七海は平然と赤ワインを傾けながら皿を平らげていて、アルコールのせいでそれに対して無責任にいいねえ、だなんて返事をしたらその足で銀座のブティックに行き指輪を二つ買われてしまった。受け取り日までに埋めておいてください、と七海は平然とそのまま近くの本屋でゼクシィを買い、この世で一番似合わなそうなピンクのふちどりの書類に猛烈な勢いで記入をしてはんこを捺して私に寄越したのだった。金融機関勤務だとはんこが身近なのだろうか、とあの時にちょっと思ったけれど、七海の手元の雑誌の見出しがその時の状況とまったく一致していなくておかしかったことを覚えている。結婚準備ダンドリ、マナー。ダントリもクソもなく全て場当たり的な出来事だった。

 なんとか埋めて書類を集めて片方の承認欄を記入して七海に一週間後の昼に手渡した時、七海は一瞬会社に戻って承認欄を埋めてきてそのまま私をタクシーに詰め込んだ上役所に駆け込んで紙を出した。おめでとうございます、と言われてフォトコーナーに呼ばれるには私たちはあまりにもお互いに仕事着すぎて、役所で一番場にそぐわない存在だっただろう。あの時に役所の職員に撮ってもらった写真に映る七海と私の固い表情が、私たちの唯一の結婚の外的証明だった。それから七海は指輪を受け取りに、私は名前の変更の手続きにそのまま役所に留め置かれ、落ち合った先のカフェで私は一人で薬指に勢いの結果を通した。それから私は快適に職場で過ごしていたけれど、七海がどうかは知らない。彼はその翌年にあっさり仕事を辞めて呪術師に戻って、それから指輪を外した。

「ソファで話しましょう」
「ん……」

 七海がそう言って私の頬に触れて涙を強く拭った時に私は初めて泣いていたのを自覚した。「それから」について考えるといつもこうだったけれど、まさか七海の前で泣くとは思っていなかった。泣いても泣いても涙が尽きないのは理不尽だと思う。何度も同じネタで泣くなんてあまりにも涙のコストパフォーマンスが良すぎる。自傷だとしても何度も考えれば麻痺できると思ったのに、状況は悪くなるばかりだ。

 七海は私の手を引いてソファに座らせた。隣に座ろうとしたのでいやだと声をあげても彼は止めずに隣に座って私の肩を抱く。その手の熱さを感じると涙が止まらなさそうになったので、お役御免になった仕事着のシャツの袖口で雑に目元を擦ったら七海にその手すら引き戻された。吐息が近い。身体で七海の体温を感じるのが嬉しいような、苦しいような気持ちでいっぱいになる。基本的に私たちはこうして触れ合うことをしてきていない。だって結婚していても七海は家族ではない。他人なのだ。この家庭には友情と一方方向の恋心の残渣しかない。私は確かに高専時代から彼のことが好きだった。それは彼が進路を変えてもそうで、お互いに社会人になったあの日に告げられたことは一番嬉しくて悲しい出来事だったとも言える。私の好きな人は好意がない相手とも社会契約を交わせる人間で、その相手の私には好意がない。そのことを社会的に証明しているのがこの関係だと認識していた。

「教えてください。なぜ最近こういうことをするのですか」

 この結婚の役目はもう終わったからだ。そう告げれば七海の体温が上がるのがわかる。間近にいてそれを感じるのは少し怖かったけれど、意外に表情に感情が出やすい彼のその顔を間近でみるよりかは幾らかマシだった。

「七海はもうすぐ昇級するでしょう。その前に終わらせたほうがいいと思って」
「誰がそう判断したんですか」
「私がそう判断した。もう七海は会社員じゃないから、別に結婚している必要もないでしょ」
「やはり同意できない。なぜそうなるんです」

 どうせまだ紙があるんでしょう、と七海は私に余り紙のありかを吐かせる。契約書類をまとめて仕舞っている彼の書斎の棚にある、と言えば彼は私を置いて荒々しく立ち上がり書斎に消えた。ドアと引き出しの開閉音が大きすぎる。紙をめくる音がいくらかつづいて、ファイルが机か床に叩きつけられる音の後に彼は戻ってきた。ドアも閉めずに大股で近づいてきて、彼は机の上の紙吹雪と一緒にクリアファイルごとそれをゴミ箱に捨てる。仕事の合間に取りに行ったのに、残り三枚ほど残っていたはずのそれは彼の衝動にそのまま従って歪んでしまった。実は印刷もできるのを知っているけれど、紙に見合うサイズの印刷機などこの家にはない。関係を始める時の紙は雑誌のおまけでも記念品でもいくらでもどこでも入手ができるのに、その逆はあまりにも入手性が低い。

「これでもうくだらないことはできないでしょう」
「役所に行けば何度でも貰えるよ。区のホームページにも掲載されてる」
「そんなことする必要はない。私が結婚していようがいまいが呪術師をやる上で影響があるとでも」
「だって七海、呪術師してる間は結婚しないって学生の時からずっと言ってたじゃん」

 はあ、と七海はダイニングテーブルの横で大きなため息をつく。それから机の上に残っていたグラスの水を飲み干して、それから黙った。それが彼のアンガーマネジメントの一環だと言うのは知っている。とはいえ、彼が怒るところなんて学生以来ほとんど見ていない。今までの動作の真逆のようにゆっくりグラスを置いて彼は口を開く。

「あなたがそういうのを気にすると思って、会社員のうちにしたんですが」
「でも今は呪術師でしょ。呪術師なんて老い先短いんだから、今度は好きな子としたほうがいいよ」
「わからない人だな」

 七海は大股でソファに座り直す。今度はさっきみたいな気遣いも何もなく当然のように間合いを詰めてきた。重ねて申し上げてもいいが、私たちは結婚して二年と少しになる。その中でこうして距離が近づいたことなんてほとんどなくて、例外は疲れ切った時になんとなくしてしまってから僅かな習慣になった性行為くらいだ。休日に買い物に出かけるからと連れ出されても手を繋ぐことすらしたことがない。学生の時とほとんど変わらない。性行為があって、洗濯物を一緒にまわし、食事を一緒に摂ることのあるルームメイト、それが一番しっくりくる呼称だ。同棲という甘い響きすら似つかわない。

「私はあなたと暮らしたいので、この関係を終わらせる気がない。そうはっきり言ったほうが理解できますか」
「そんなこと、今まで言ったことある?」
「……当然、言ったと思います。最初に……」
「聞いたことない」

 膝を抱えて丸まりたかったけれど、仕事着のそれは窮屈でできるわけもない。好きだった仕事着のタイトスカートがこんな時に邪魔になるなんて、と思いながらクッションを抱えようにも、七海の大きな身体で潰されたそれを奪い取る余力はない。

「七海と話し合いたくない。あなたの同意がなくても調停を起こせば離婚はできる」
「他に好きな男でもいるんですか」
「いない。学生の時から七海のことが好きだったのに、いるわけない。それに、既婚の術師に手を出す人なんているわけないでしょ」
「じゃあ別れる必要はないでしょう。なぜそんなに躍起になるんですか」
「私だけが好意を抱いている関係に疲れた。それに、七海がモテてる話を聞くと申し訳なくなってきて堪らないの」
「勝手に疲れないでください。独りよがりにも程がある」
「どっちがよ」

 七海と机を並べていたころから軽い諍い、言い争い、そんなものは何度でもしたが大人になってからは初めてだった。あの時は仲裁する人がいくらでもいたのに、と存命の知人と故人を思い出す。大人になってしまったからもう仲裁してくれる人はいない。それどころか、この関係を知っている人なんて今までの仲裁者にいるわけもない。どうしよう、と思って浮かぶのは故人の顔ばかりで、具体的な解決策が思いつかない。学生時代から言葉尻や表現の違いでちょっと喧嘩して、嗜められて、翌日には元通り。そんな形式が今回も適用されるかはわからない。

「私は、好きな人が、誰かに不本意に娶られるなら自分で攫ったほうがいいと思ったのでそうしたんです」

 七海はイライラと髪を掻き上げていた。朝に整えられていただろう前髪がぱらぱら落ちて彼の額に掛かる。ここ数年で一度も聞いたことのない話が耳に飛び込んできて返事も何もできない。七海は勝手に、息を吐く暇もなく言葉を継ぐ。

「あなたが心から同意していないことなんてどうでも良かった。それは謝ります。勢いで流したのはあなたの気が変わるかもしれないと思ったからだ。それでも曲がりなりにも快諾してくれたのでいつか一緒に暮らしているうちに好きになってくれたらいい、そうでなくても情でも湧いて一緒にいてくれればいいと思っていた」

 そんな言葉は聞いたことがなかった。私が聞いていなかったのか、彼が言い忘れていたのかは告げられた今もう問題ではない。

「それなのに過ごせば過ごすほどあなたは全然嬉しくなさそうだ。私が転職してからは如実に表情が硬くなった。終いには離婚届なんて書いてわざと家で会わないように仕事を調整するようになった。問い詰めれば私のためだという。何が私のためだ」
「七海」
「あなただって七海だ。名前を呼ばれたこともない」
「怒ってるの」
「最初から言えば良かったんです。あなたが好きだと。困っているところに付け込んで独占したんだと。それなのに何ですか。あなただけが好意を抱いている関係に疲れた? 聞いたら私も疲れました。何も伝わってなかった」

 だって聞いたことなかった、と興奮気味の七海の前でぽつりと漏らしてしまった。七海の話を聞きながらこの数年を思い返していたけれど、七海はいつも澄ました顔をしていたし、家にいる時だってほとんど嬉しそうな顔をしているところを見たことがない。今だって眉の間にくっきりと皺が刻まれている。職場で無茶を聞いた時と似た表情だ。七海はいつだってむっつり怒った顔をしている。困った時も怒っている時もそう。学生時代も、会社員の時も、職場でも、家でも。

「だから、言えばよかった、と言っているんです。好きな人の弱みに付け込んだなんて言いたくなかった」

 知っている中で一番困ったような顔をしていた。知らない表情と内容に困惑しながら七海の薄い唇を見つめる。また食いしばっている。ぴんと横に張られた唇はやっぱり口角が上がることがない。

「最初からやり直しましょう」
「最初から?」
「……交際するところから」

 私たちはお互いにずっと片想いなので、と七海は付け足した。かたおもい、だなんて可愛い単語を言うにはあまりにも辛そうな顔で、私はそのちぐはぐさにすらくらくらしている。

「私たち、一度も付き合ってないんだから、やり直しじゃないでしょ」
「……それはそうですけど」
「私いままで彼氏いたことないんだ。最初くらい、ちゃんと聞いてみたいな」

 それから七海ははじめて、私に触れていいかどうかを問うた。うん、と答えればまた再び彼は私の肩を抱いて、私だけに聞こえるような小さな声で愛しています、と告げた。私も、と告げるまで七海は表情を見せてくれなくて、七海の手が震えているのに驚いて顔を上げれば、やっと眉の下がった夫の表情を見ることになる。確かにそれは昔見たことがあって、七海がいつだかのイタリアンで言った言葉にいいねえと返事をした時と同じだった。なあんだ、私、七海が怒っていない顔も知っていたんだ。

「付き合って、何する?」
「……休みなので、一緒に出かけるとか。一緒になにかするとか……でも」
「でも?」
「今日は疲れたので、このまま一緒に昼寝したいです」

 そうだね、と返事をすれば、七海は間近でゆっくり息を吐いた。脱力した男が私の肩の上で重みを増す。そのせいで私の頭に凭れ掛かる彼の頭が遠慮がちだということがありありと分かっていじらしい気持ちがいや増す。

「キスしてもいい」
「いくらでも」

 首を伸ばして七海が浮かせた頭に顔を近づける。私からキスをするのは初めてだった。七海の眉頭にひとつ、鼻先にひとつ、唇にしようとしたら薄く目が開けられて視線が合う。いいや、とおもってそのままキスしたら、七海の口角がちょっと上がっていて、お返しのように数回続けてキスを受けることになる。もっと表情が見たいと思って身体を引いたら寂しそうに眉が下がる。意外と表情が豊かだ。もしかしたら私は彼の怒った顔だけをわざわざ見出していたのかもしれない。そう感想を抱いた瞬間に不意に口から飛び出ていたのはごめんねの四文字で、彼はそれに対して傷つきましたと言いながらも面白そうに口角を上げる。

「傷ついたので、大事にしてください」
「大事に」
「恋人にするように大事にしてください」

 それから、私は長年そうしたかったとおりに彼の首に手を回してすこし身を寄せた。私はずっと七海に触れたかったし、抱きしめられたかった。遅まきながらに受け入れられた安堵感が込み上げてきて、私は顔を上げてもう一度七海にキスをする。七海はまた眉を寄せていたけれど、今の私にはそれが照れ隠しだということがわかってきていた。私が見ていたのは怒った顔じゃなくて、恐らくおおよそは照れ隠しで、きちんと見ればわかるかも知れない。でもそれよりも私達に足りなかったのは言葉で、反省もなく私はまた言葉もなしに七海の唇に口づけた。