Ten years,tender years
今日だったのか、とふと目が覚めた瞬間に十年前の今日のことを思い出した。昨日の晩に睦み合ったまま下着と長袖のシャツ一枚で彼の腕の中で寝ていたはずなのに、起きたらあの太い腕は筋肉質ながらも細く、実は彼の腕を覆っている産毛もどっと薄くなっていた。その腕の持ち主を起こさないように身を離せば、相手はぴくりと睫毛で縁取られた目を開けた。いまのその人だったら、もっとゆっくり開けただろう。
「……え」
今よりもちょっと高い声が戸惑った声を上げて、やんわりと私から手を離す。視線が合ってぎょっとした顔のまま、あたりを見回す姿は確かに昔の彼そのものでちょっと懐かしい気持ちになる。
「おはよう、七海」
「あなたは……えっ」
もしかして、と推測で私の名前を呼ぶ彼はまさしく七海その人で、正しく十七歳のときの七海だった。まだ付き合っていない、高専生のころの七海。まだ長かった髪をかきあげながら自分がラフな格好なのに驚いていた。きちんと覚えていたならば、昨日はなんとしても服を着せて眠らせたのに。隣の男子高専生は身を起こして自分の身を確認していた。君はそのままだよ、と思いながら私も外気に晒されつつあるので起き上がって床に落ちたままのパジャマを取って足を通した。下着姿の私をみて七海がカーテン側を向いたのを感じる。ごめんね七海。
「ごめんね、もう服着たから。とりあえず朝ごはん食べよっか? 作るから寝てていいよ」
「あの、これは……」
「朝ごはん食べながらお話ししよう。ああ……洗面所は一番玄関に近いとこにあるから、勝手に使ってね」
歯ブラシも新しく出していいからね、と言いながらフローリングに足をつける。つめたい。季節は冬に変わりつつあると思いながら伸びて、それから寝室の入口の照明スイッチを押してぽやぽやした状態の七海をもう一回伺い見た。二十七歳の七海を見慣れているとどうも幼くてかわいい。あの時と縦の寸法は変わらないはずなのに、幼く見えるのは身体の薄さのせいか、表情のせいか。今ではほとんど見られない恥ずかしそうな顔が懐かしくてたまらない。
「きみ、こないだ任務で干支の置物を壊したでしょ」
「……はい。なんで」
「あ、聞いたの。あなたからね」
食パンを齧りながら、彼はきょとんとした顔で疑問を投げる。男の子ってどれくらい食べるんだろう、と思ったけれどなんだかんだ二十代後半の彼に準拠して作ってしまった。足りなければ言うだろう、と思いつつ既に食パンが一枚彼の胃の中に消えていることを思うとそれについても聞いておけばよかった、と後悔した。これ美味しいからつけなよ、と勧めたジャムの瓶を開けてくれるところだとか、手伝わなくていいと言っても手伝ってくれるところだとか、トーストを齧る口が無遠慮に大きいところだとか、そういうところは七海は七海でいつになっても変わらない。勧めたイチジクのジャムは十年後の君が気に入って毎年出張を作っては買ってくる島根のものだよ、とはまだ教えてはあげない。一度気に入ったあと、通信販売していないからって毎年季節になると出張を探しては捕まえてくる、君はそういう大人になるんだ。それを思うとちょっと一方的に答えを知っているクイズをしているみたいで意地悪い気持ちになった。
「……壊した干支を思い出せる?あなたのいた年と、その十年後のやつなんだけど、そのせいであなた、十年後に来てるの」
「……十年後も、生きてるんですか。あなたも私も」
「今の所はね。だから十年後の七海はこの日、十年前に行ってて……そうだな、今日ってデートの予定だったでしょ。私はその時に会ってるんだ」
あ、という顔をして七海は部屋着のポケットを探っていた。携帯を探しているに違いない。ないことがわかって彼はおとなしくカフェオレを口にした。
「気にしなくていいよ、十年後の七海が全部教えてくれたから」
「すみません」
「それは明日、十年前の私に言ってあげてね」
私も私でサラダを口に運びながらトーストを齧る。塩の効いた発酵バターを合わせるのが好きなのは十年後の私の趣味で、十年前の私はまだそこまでハマっていない。サラダにバルサミコ酢を掛けるのも十年後の私達の趣味だ。
「明日、戻るんですか」
「うん。寝たら……今日の夕方には元通り」
スープカップにいれたつくりおきのキノコのスープを啜る。これも七海の趣味で、私は冷凍保存しているのを温めただけ。どういう気持ちで彼はこれを作ったんだろう。あのときに年上になった恋人ーーあのときはまだ付き合ったーーに食べさせられたのと同じ味だ、とか思うのかな。私からしてみたら、七海がよく作る秋の味にほかならないけれど。
「そういうことだから、今日は一日ここでゆっくりしててね。あんまり将来のことを知っても良くないので、外出は禁止でーす」
その時に対応してるの担任なので、それだけは伝えるね、と告げてカップを置く。七海は難しい顔をしながら目玉焼きを咀嚼していて、そんなところもやっぱり今の七海と似ている。ちょっと考え事をして自分の中で回答が堂々巡りをしているときの顔だ。何を言われるのだろう、と楽しみに思いながらトーストを齧り直し、残りのサラダをフォークで皿の端に寄せた。
「あの」
「なあに?」
「あなたは今、何が起きたか全部知ってるんですよね」
「うん。今に至るまでのことなら、だいたいね」
「それを聞くのも駄目ですか」
「うん」
聞きたいことはわかる。誰が次に死にますか。このあとどうなるんですか。十七歳の秋は過酷な季節だった。同期は死んで先輩は消えて、その一つ前の季節までの日常が非日常になった。昔エリオットは四月はいちばん残酷な月だ、と言ったけれど、あのときの在校生全員が何かをなくして、それがはっきりした九月がいちばん私達にとって残酷極まる月だった。夏にはみんなびっくりした、どころではない。それから数ヶ月しか経っていないのだ。
「……あなたと私が、いつから付き合っているのかも聞いてはいけませんか」
「それなんて一番ダメだよ。全部あなたが始めたんだから」
噛んだばかりのパプリカが口の中で繊維の抵抗を強く残すのを感じる。しゃく、しゃくと耳に響く抵抗を感じながら目の前の七海に視線を合わせないように嚥下して、コーヒーを口に運ぶ。今のも駄目だったかな、とちょっと前の自分の言動を思い返してはアウトのラインがわからなくてどぎまぎする。七海はこんなことを考えなくていいな、そういえば、十年前もそうだった。
***
気晴らしに買い物にでも行きませんか、と声をかけてきたのは七海の方なのに時間になっても待ち合わせの食堂には来なくて、寝坊をしたかと思って電話をかければいつもより低い声の相手は謝ってから私を医務室に一番近い東屋に呼び出した。待っていた間にした化粧が崩れていないか確かめて、それから巻いた毛先が崩れていないのも鏡で見てから呼び出された先に出向いたらそこにいたのはスウェット姿の男性で、七海と同じ色の短い髪をして、それから七海と同じ色の瞳で私のことを射抜いていた。
「すみません、急に」
「誰……? あの、お迷いですか」
「七海です。ああ……十年後の、七海建人です」
目の前の男性の言っていることがにわかに信じられなくて、七海のお父さんがきているか、それとも姿を巧妙に真似た呪詛師か誰かだと思って私はつい校舎に走り出す。慣れないヒールで走ったせいで校舎の古いフローリングをぶち抜くかと思った。歩いていた担任を見つけて失礼を承知で背中に回り込んで追いかけてくる男性との間の盾にする。ふくよかな担任は私に驚きつつも、それから追いかけてきた男性を見て私を背後から引きずり出して男性との間に立たせる。ひどい、と言いかけた瞬間に彼はこう告げた。
「落ち着け、七海だ」
「夜蛾先生、七海じゃない」
「本当に七海なんだ。こないだの任務の影響で未来の七海と入れ替わってるらしい。悟が見ても俺が見ても術式も同じだ。安心しろ」
「じゃあ2年生の七海は」
「知らん! 七海に聞け」
はい、七海です。そう言って背後から男性は再び自己紹介を告げた。じゃあな、と告げて担任は廊下の先に消え、気まずい雰囲気の中私は振り返って男性の顔を再び見上げる。黒いスウェット姿の男性は七海より数センチばかり背が高くて、それから七海よりずっと体格が良くてちょっとどぎまぎした。
「驚かせてすみません。……外で珈琲でも飲みましょうか」
「……はい」
差し出された手をとる他なかった。このまま七海を称するこの人にさらわれたらどうしよう、と思いながら手を引かれていたけれど、手は見に覚えのある形で、でもそれよりよっぽど慣れていて大人であることを感じてこちらばかりが気まずい。七海とはよくわからない関係のまま今に至る。二人で出かけることは、まあまあある。二人だとちょっと優しい。たまに夜、出かけた帰りだとかコンビニに連れ立つときだとかに手をつないでくれる。夏より前までは夏油さんと同じことをしたら、射殺されるような目で見られたことがあったし、それは灰原としても同じだった。今はふたりともいない。
「このときのあなたはまだカフェオレしか飲めませんでしたね」
東屋のベンチに座らせて、七海さんは私に温かいカフェオレを買った。彼は同じものをもう一つ買って、プルタブを起こして私に手渡してきたのでお礼を言って一口飲む。ココアより何よりこっちのほうが好きだった。五条さん向けの黄色い缶の激甘カフェオレではなくて白い缶の微糖カフェオレの方をよく飲んでいたのをこの人は知っていた。
「いきなりこんな格好で、呼び出してすみません」
「……はい」
「うっかり私もいつ起きるか忘れていて……あの、その時に下着で寝ていたので、服を勝手にこちらの自分の部屋から借りてこういう格好です」
「知ってます。そのスウェット、よく着ているのを見てます」
「……そうか、私達はまだこの時付き合ってないんですね」
大きな両手を缶で温めながら隣に座った男性はとんでもないことを口にした。私と七海は付き合っていない。ただ残されて、よくわからない感情の下、お互いに持っている執着が行動に化けているのだと思っていた。
「十年前の今日、デートだったのも思い出しました。すっぽかすことになってすみません」
そもそも、と彼は理由を告げる。一昨日に七海が任務先での出来事を語ってくれた出来事と原因は同じで、それが理由で十年後の自分と入れ替わってしまったこと、あのときちゃんと置物を修復したので夕方には元通りなこと、今日の十七歳の七海は十年後の自分と会っているだろうこと、それらが告げられて頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。それからいくつかの出来事が線でつながる。
「あれ……七海が十年後に私と過ごしていて、あなたが下着姿でここに来て……あの、それって」
「一緒に暮らしています」
「はあ……」
七海が生きていてよかった、と思った。私も生きていてよかった。でも付き合っているどころか一緒に暮らしているって、何? 理解が追いつかない、と思って私はカフェオレを七海さんと違う側のベンチに置く。今は手も冷たくして頭を冷やして状況を認識したい。
「……いつから?」
「そういうのは知ったら楽しみが半減しますよ」
「そうかも知れないですけど……あの、私達、いまはそういうんじゃなくて」
私の外出用のパンプスと並ぶ七海の寮履き。ああ、つま先だけ見ると今と同じだ。匂いも一緒だ、と思ってしまってどうも混乱する。今のことを喋ったとしても、十年後の七海というのが本当ならば明日の七海はこの話を知らないまま過ごすのかと思うと不思議だった。
「でも私のこと、好きでしょう」
「それはまあ……」
「私がそれを理解した時、とだけ教えてあげます」
珈琲で温まった七海さんの手が私の手に触れて、身体がつい反応する。キスしてもいいですか、と躊躇いがちな声がして大人の顔を見上げたら、缶を手放したほうの手が私の頬にかかる髪を耳に掛け、そのまま顔が近づいてきて目を閉じた。唇に触れるだろうと思った感触は額に降りて、それから目を開けたら目の前で茶緑の瞳孔が私を映し出していた。今の七海とおんなじ色をしているせいで、むしろこのほうが恥ずかしい気持ちになってくる。
「あなたのこういう顔はいつ見てもいいな」
「……十年後もこういうことをしているんですか」
「今は恋人ですから」
「ヒッ……」
「そういえばファーストキスはもらえなかったな」
出遅れたのかもしれません、と七海さんは独り言を言いながら、私から手を離してもう一度珈琲を口にした。私も思い出したように珈琲に手を伸ばして冷め始めた缶の中身を口にする。
「あの、十年後の私って、どういうことが……好きなんですか」
「知りたいですか?」
「はい。あの……おんなじように、してほしいです」
そういうことか、と目の前の男性は謎の納得をして、缶を置いて、それから私に向き直って小さく同意を伺った。いいです、と答えたら、そのまま大きな手が頬に添えられて音を立てて上唇の山に唇が触れた。びっくりして遅れて目を閉じればもう一度唇がくっついて、それから熱い粘膜が唇の先からぬるりと侵入してくる。
「力を抜いて」
されるがままに片手を掴まれて、目の前の男性に口の中をみっちりと探索されている。知らない人のはずなのに、知っている人の匂いがして、酸素が足りなくて頭がふわふわする。頭の奥が痺れる感じがして、気持ちいい。目を開けたら間近で目付きの悪い視線が私を窘めていてさらにそれすらどきどきしてしまう。助けて欲しい、と思った瞬間に唇が離されて、唾液が糸状につながっているのが恥ずかしくて思わず口を拭ってしまった。
「十年後のあなたは、こういうことを……せがんできます」
「私からですか」
「付き合ってからはずっとそうです。いまので教えてしまったのかも知れません」
いけないことを教えたかも知れませんね、と言いながら七海さんは缶を飲み干して、目の前のゴミ箱に空き缶を投げ捨てた。指先がふわふわして中身をこぼしてしまいそうで、私は両手でカフェオレの缶を掴んで、それから七海さんの真似をして一気に飲み干して缶を投げる。手の震えが収まらなくて、それを見透かされてもう一度手を掴まれてから何度か教育的にキスをされた。むしろ十年後の七海さんに唆されて私はそうなってしまったんじゃないのだろうか。抗議をしようにも、彼の記憶の中の私と、それから今の私と、どっちがはじまりなのか、どっちが鶏でどっちか卵かなんてもう考えられないほどに彼は執拗にキスをして止まらない。もういいや、と諦めたときにふと、私が将来の自分が好きなことを知りたいと言ったのだから私のせいかも知れないと思って身を預けてしまった。十年後の七海さんは私の背中に手を伸ばしてから、明日の私にも優しくしてくださいねと囁いて、それから身を離した。
「ずっとデートをすっぽかしたことを謝らせてもらえなかったんです」
「七海さんがこういうことをしたからじゃないですか」
「そうかも知れないですけど、十七歳の私は結構気にしていました」
「自業自得です」
二十七歳の七海さんはそれから懐かしそうに目を細めて、それでは、だなんてにべもなく席を立った。
「その服、可愛いですよ」
「ありがとうございます」
「当時は多分言えなかったと思います」
「言ってほしかったです」
「それも明日伝えてください」
七海さんは全部知っていてずるい。私は明日、教室でどうやって七海と顔を合わせたらいいか今からわからない。同じ面影の同じ匂いの人に優しく触れられて、キスをされていたのに、翌日同じ面影の同じ匂いの同級生のツンと澄ました顔を見たら多分びっくりしてしまう。十年かけて口説きに来るなんてどうかしている、と思いながら私は東屋のベンチから立ち上がれずにいた。
***
「これだけは教えてほしいです。あの時、どうして一緒にでかけてくれたんですか」
「……好きだったから?」
朝食の皿を平らげながら青年はそう疑問を口にする。よく食べてくれて嬉しい限りだけれど、物足りなさはあるだろう。そのときは七海の飲んでいるプロテインでもだしてあげよう。
「でももっと優しくしてほしいと思ってたんだから」
ごちそうさまでした、と私は先に席を立つ。七海はそれに連れ立って皿を持って私の横に立った。
「洗い物は私がするから、シンクに置いてくれたらいいよ」
「違います……あの」
それでもシンクに皿を置いて七海は私の真横から動こうとしない。
「優しく、どうしたらいいんですか」
「七海の思う優しいをしてあげてね」
考えてね、と言いながら私はテーブルから皿を回収して、シンクに積み上げる。この家ももともと七海が契約していた家だし、この皿は一緒に暮らす時に選んだものだった。北欧のカラフルな食器を色違いで使っている。青とグレーが七海、赤と黒が私。白は来客用。
「あ、でも……」
七海に使わせたのは七海の青い皿だった。来客用と迷って、それでも七海だもんな、と思ってそうしたのだ。高専時代によく着ていた黒いパーカー姿の若い七海にもよく似合う、と知らない面を今更発見してしまう。そういえば、当時のケータイも彼の端末は青かった。
「当時の七海のキス、優しくて好きだった」
初めて七海としたキスは不器用だった。どちらが先と言っていいかはわからないけれど、記憶の中に刻まれた最初の、大きな七海とのキスは衝撃ばかりを残して今に至る。同い年の七海と初めてキスしたのはいつだっけ。あれよりあとでもっと寒かった気がする、と思いながらマグカップを掴む青年の顔を見上げると、白い顔が赤くなっていてちょっと嗜虐的な気持ちになった。あのときの七海も似たような気持ちだったんだろうなあ。やっぱり七海はずるい、と今夜帰ってきたら文句を言わなくてはいけない。そう思いながら七海少年の背中を擦る。優しくしてあげてね、と繰り返せば、小さくはいと返事の声がして私はちょっと嬉しくなる。