104F/40C
今日が7月最後の日曜日だということに気がついて、
マリエは遅く起きたにもかかわらずさっさと歯を磨いて支度をして、念入りに爪先から頭の天辺までデート仕様に仕上げて家を出た。40度近い気温が木陰を通っても身を灼く気がしたけれども仕方がない、逆にうってつけだと思って
マリエは黄色いフィアットの天窓を開けた。
適当な隙間に路上駐車をしていつものバールに飛び込む。チャオ、と挨拶を交わしながら指を一つだけ立てて普段と同じものを頼み、小銭をぱらぱらとトレイにおいて終わり。暑さでしんどそうな顔をしたおじいちゃん店主は砂糖をいつもより一本多く置いたけれども、それを返すこともなく
マリエは出てきたカップとソーサーを持って窓際の、ぎりぎり日陰になる席に身を下ろす。そこにはいつかの普段通りに金髪のプロシュートその人が座っていて、
マリエは再びチャオ、と挨拶をして彼の視線を遮った。
「遅ぇな」
「だって、暑くって昨晩寝付けなかったんだもん」
「床で寝ろ、床で」
床で寝るのは、私達の夏の習慣だった。
マリエの部屋はそれはもう古いアパルタメントで、床が石で出来ているから夏はこぞって2人でそこにタオルを引いて眠るのが常だった。ひんやりしていて気持ちが良いけれど、冬はひどく冷えるのでふわふわしたラグを買って敷いていた。春にプロシュートが寝起きにワインをこぼしてちょうどいいとばかりにそれを捨ててしまったので
マリエは今朝も足の裏でその冷たさを感じながら目を覚ましたのだ。
「早く飲め」
「いやだ、まだ熱いわ」
カチャカチャと音を立ててプロシュートは砂糖を二袋デミタスカップに空けて混ぜる。甘すぎる、それはあなたの習慣であって私のではない。そうは思えどもそれを飲みほさずには居られなくて、スプーンを引きぬかれた直後のデミタスカップに
マリエは手を掛けて口をつける。濃くてとろっとした液体が舌からするっとお腹に落ちて空腹をきっちり強調してきた。ざらざらした砂糖の溶け残りが唇についてかゆい。カップを置いて口元をペーパーナプキンで拭おうとしたら、それをするより先にプロシュートのつめたくて白い指が私の唇をぎゅっと強く拭ってきていた。家だったらそのまま砂糖のついた指を舐め取れるのに、と思いながら
マリエは唇だけで感謝の言葉を述べる。目の前の白い指はそのまま自分で砂糖を舐めとってから席を立った。
マリエもそれに続いて席を立つ。片手がポケットに入れられたほうの腕に自分の腕を巻き付けながらさんさんと降り注ぐ日差しの中に足を進めた。遠くの坂の上の空気などゆらゆらと揺れている。暑い、とごくごく自然な感想が思わずとも口から飛び出てきて、そうだな、と腕の上から声がしてすこしだけ涼しい気持ちになった。プロシュートの体温は、低い。その逆で私の体温は高いので、お前はぜってぇ俺より先に老けて死ぬ、だなんてプロシュートはよくふざけて言っていた。現実は真逆だったというのにね。
「何が食べたい」
「たこと、それから何か白ワインに合いそうなやつ」
「空腹か」
「もちろんそう」
じゃあ、あそこでいいな。プロシュートの決定は放射状に伸びる道の一つを取って私の腰に手を回してきた。ううん、最高。本当はプロシュートのあの綺麗な顔で、適当に肉を切り分けて食べる姿が好きなのだけど、澄ました顔でリゾットを食べたい気持ちだった。何よりあの大きな口で肉を切り分けて食べる姿を見たらきっと私は家にそのまま連れ帰ってしまいたくなる。久しぶりに会って話すにはすこし欲情に近すぎるのだ。
食前酒のグラスを交わしてから、私達は思うままに食べて、会話をして、それからしゃんしゃんお酒を飲んだ。手も口も大忙しで、その分飛んだ補足だとか増補だとか、それから細かいニュアンスだとか、そういうのは全部テーブルの下の足に任せてしまった。私の爪先は彼のズボンの裾をめくって、彼はそれを窘めるように両足で私の片足を捕まえる。それでも机の上では手を動かしてたことそれから貝のぎっしりはいったリゾットをスプーンに乗せては口に運んで、嚥下しては会話をワイン込みで止まらない。全く別ごとが机の上下で起きていたけれど、どちらの本心だって全部同じで、机の上下のものも、左右のものも、すべてがお互いにくっついてしまいたいというのを服とテーブルで遮っているだけだったのだ。
「仕事は、最近とてもうまく行っているわ」
「そうか、よかったなァ」
そういえば、初めて二人で夕食を食べた時もリゾットを食べた。あの時はとても寒い冬だったから、温かいものが食べたかったのだった。それから牡蠣も食べたっけ、海沿いだったからリゾットを食べたのかしら。
「
マリエは仕事が嫌いだろ」
「ええ、大嫌い」
「それで上手く行ってるだなんて冗談みてぇだな」
くっく、とプロシュートはいつもの様に面白くない事柄をさも面白そうに喉の奥で笑う。寝ている時にそれをされるのが私はひどく好きで、くだらない話をしてはその笑いを聞いて早く寝ろと彼に引き寄せられるのを至上の寝入りだと信じている。彼と私はある意味同業者であったから、気軽にその話ができたこともあるのかもしれないけれど、大嫌いな仕事のことを彼に話すと少しだけ前向きになれるのでよかったのかもしれない。
彼は暗殺チームで、私は売春チームの元締めだった。私達の共通点は多い。所属、それから出生、人を殺した経験とその年齢。彼はギャングだった父親を殺したらしいけれども、私は売春婦だった母親を殺した。まだ中学生だった私をドラッグ代の足しに売ろうとした母親とはグロッグでお別れしたし、彼は父親を彼の能力で枯らせてしまったらしい。それからお互いに同じ傘の中に潜り込んだというわけだった。奇しくもお互いに大嫌いな親と同じ仕事のチームになったことを、私達はいやというほどイタリア中のレストランでグラスとともに嘆願を交わした。それから、愛も。お互いが逆の所属であればもっと仕事が好きになれたかもしれないのに!用心棒代わりに悪い客――はじめは政治家だった、パーティーの花を遊びに殺そうとした――を始末してもらいにいったのも彼だったし、彼の任務の内偵を路上の花にさせたのも私だった。仕事が一つ終わる度に私たちはグラスを交わして、それからいくらか過ぎてからよく部屋を行き来する関係になっていた。大嫌いな仕事に乾杯。
「これすっごくおいしい」
「お前こないだもそんなこと言ってたろ、こないだのラムチョップも」
「あなたとご飯食べにいくことが一番美味しいのよ」
再び喉が鳴った。こないだのラムチョップって、そんなの何ヶ月前だと思ってるの。こっちが喉を鳴らしたいくらいだわ、と
マリエは思いながらグラスを空けた。次をつごうとする彼の手を触って止めて、私はデザートを待つことにした。プロシュートは瓶を置いて、それから大きな口でリゾットを掬っては皿を開ける。私はパンをちぎってそれに応えるように口に放る。彼の爪先が、私のふくらはぎをなぞっていることなんてとっくに知っている。ストッキングが肌に貼りつくのは、今日のこの気温のせいで汗をかいているのか、飲み過ぎなのか、それともこの足のせいなのか、どれにも心当たりがありすぎる。
私達の話は、いつでも簡単に跳躍する。天気の話から仕事の話、それから過去の話に、ベッドの中の話、それから私の下着の話と、ちょっとだけ未来の話だとか。彼は今はもう仕事の話なんかやめて懐かしい彼の昔の部屋の話をしていた。そこの天井から水が漏るので、彼は私の部屋に転がり込んできたのだった。さも自然に、不定期に。その割には彼の私物は未だにたくさん部屋に残されている。カルバンクラインの下着だとか、それから香水だとか、彼の髪留めだとかも含めたら、必ず何かの支度をする時に目に入る。未だに私は彼と一緒に住んでいるような気がしていて、今朝だってシャワーを浴びたあとに彼の香水の匂いがしたし、そのおかげで私はいつだって安心している。さっき路地を歩いている時に同じ匂いがしたのは最高だった。
もうお腹いっぱい、と
マリエはスプーンを空いたココットの中においてナプキンで口を拭う。溶けかけのジェラートが暑さと体温の上がった体に染み渡って気持ちがいい。薄めのコーヒーを貰って、さっぱりするのも最高だった。目の前のプロシュートも同じようにレモンジェラートを空にしてコーヒーカップを傾けていた。
「今日も美味しかった」
「それは何より」
「最近人とご飯食べてなかったから、よかったわ」
前より食べられなくなったわね、と
マリエはナプキンを机に置いて再びコーヒーを傾ける。
マリエはプロシュートが心底空腹だ、とばかりに勢い良く食事をする風景が好きで、そのためにへとへとになるまで遊びほうけたりすることだって多かった。そういえば、彼のビリヤードのキューはいまだに家にあるはずだ。3月から私のも含めて取り出していないのできっとどちらも埃をかぶっているだろう。今日の彼の食べ方だってその
マリエの好きなものそのままで、久々のその感覚に幸せを感じない訳がない。
「
マリエ」
カップを置いた
マリエの手に、プロシュートの冷たい手が掛かる。気持ちいい。彼の手はいつだって冷静で冷たく私を惑わせる。私の手と彼の手の体温が混ざって、どこからが彼の体温で、どこからが私のものか混じってわからなくなる感覚が好きだったことをふと思い出して泣きそうになる。こうして目の前にいる人間のために。
「お前に変わりがなくて安心した」
「あなたもね」
「ハッ、あたりめえだろ」
プロシュートは
マリエの手を取って、そのまま
マリエを立ち上がらせた。いつの間にか役目を終えたレシートだけがトレイの上に幾らかの小銭と一緒に残されていて、相変わらずだと思いながら
マリエは席を立つ。首から胸元までほとんどレースのワンピースを上から裾までプロシュートは見下ろして、そのまま
マリエの手を腕に持たせて外へと足を進めた。何をさせても様になるところだけは彼がギャングであることを惜しむ点かもしれない。尤も、口を開けばギャングでしかないのだけれど。
夏の日差しは再び私達の体を灼く。路地の向こうは日差しと温度でもう見えないのではないかというくらい眩しく揺れていた。私はそれが眩しいのもあったけれど、不意に寂しくなって酔ったふりをしてプロシュートの腕にもたれかかる。いやだ、まだこのままでいたい。急に体重がかかってか、プロシュートは立ち止まって
マリエに向かい合って肩を掴む。
「酔ってるわきゃねえな」
「暑いから、そのせいかもしれないわ」
「そうだな、今日からは石の上か、土の中で寝るといい」
じゃあな、またあとで。そう言ってプロシュートは私の額に口付けて、まっすぐ眩しく揺れる路地の方向に歩いて行ってしまった。じゃあ、またあとで!と私が大きな声で言っても、彼は振り向くことなく片手を上げて蜃気楼の中に消えてゆく。
それからなんとかして私は家に帰り、バスルームに置きっぱなしのプロシュートの香水を持ってきて石の床の寝室にこもる。ベッドサイドには数カ月前にボスの部下が持ってきた彼の部屋にあった遺品のシグが抽斗にある。私はこれで、彼が彼らによって――ボスとの何かしらの対立があって――死んだことを悟ったのだった。持ってきた南部の生まれらしい男の白々しさと言ったら。ボスからのプレゼントだ、と私の名前を呼んだ上で渡してきたのだ。誰のものとは言わなかったけれど、ある男の部屋を処分したと言って私の置き忘れたスカーフだとかも一緒に箱に入っていたので、それが彼の死を知らせるものだということくらいはもう知っていた。わざわざ黒い箱に詰めてきてくれてありがとう、と私はつっけんどんにその男に言って何も言わせずにドアをしめて、その箱の一番上に飾られたボスからの指令をみて興醒めにも程があると思ったのだった。恋人の死を告げた上で仕事を重ねてくるなんて、ボスはなんてひとでなしなのだろう。尤もこちらも真っ当な人間とは言いがたいけれども。カードにはわかりやすく類語辞典で遊んだあとみたいなお悔やみの挨拶と、それから私の管理する花々のなかで薬物中毒者を選別してケアセンターに入れろということが書かれていた。最近のボスはどうも熱心なアンチ・ドラッグ派らしいという噂は就任以来聞いていたけれども、ここにまで余波が来るだなんて思ってもいなくて、私はそれを読んでからプロシュートのライターオイルでそれを焼いて捨てた。私がそれを許して来ていると思ってか。
石の床にプロシュートの香水瓶を投げると、綺麗に高い音を立てて2つに割れて彼のよく見知った匂いがした。さっきも胸いっぱいに吸ったその匂いに包まれて、私はガラス瓶の破片を蹴って床に寝そべる。五感のうちのひとつがこれによって支配されていて心地が良い。まるで去年の夏の夜みたいだ、と思いながら
マリエはシグを装填する。
寝そべったままシグを口に咥えて、そういえば昔こんな遊びをしたことがあった、と
マリエは舌の上の金属の味を思い出していた。もっと若かった頃にプロシュートは私にこれを舐めさせたことがあった、あれはギャングっぽい遊びだと私達の中で一過性のブームだったのだ。勿論その時は充填されてもいなかったし、この銃を手にしていたのはプロシュートだったし、私を見下ろす青い視線があったけれど、今はすべてが逆だった。懐かしくなって、体の下の石の床に体温がどんどん吸い取られるのすらどこか懐かしみを覚えて、
マリエは全てはこの気温がいけなかったのだ、と壁のカレンダーを見遣って引き金を引いた。記憶の中と現実が溶け合えないから、やっぱり7月最後の日曜日は暑くないといけない。
20160215 chloe, inpression by Antonio Tabucchi"Requiem"