まぼろしの歯型

マリエは安直に素敵な髪ね、と言ってギアッチョの髪を指で梳いて不興を買った。この時間はギアッチョが買ったものだから、目に機嫌が現れた時点でマリエはそれ以上言うのをやめる。じゃあ何を褒めればいいのかしら、と思いながら几帳面に片付けられた部屋の入口でマリエは靴を脱いだ。まったく実用的でない、座るか、たまに立つかするためだけの靴。磨かれていたしそれは随分と高いようなことを買ってくれた男は言っていたがそんなことはどうでも良かった。私に見合う価値だったらそれでいいし、それにそのような値段がついているだけのことだ。その男だって言い値で自分の時間を買った。それがその男にとっての私の価値で、この男にとってもこれからの数時間に数千ユーロなんて値段を付けたのだ。マリエは自分の持ち物は自分の身体しかない、と思っていた。靴を脱いで下から仏頂面の男を見上げれば、ずっと視線を向けられていたのかすぐに視線が合う。珍しくそれを反らされることもなく、私は挑戦的に自分の手を爪先からドレスの裾に引っ掛けてそれをめくってみるけれど、目の前の相手は――ギアッチョは、それに視線を向けることなくただただマリエの目だけを見ていた。
「脱いで欲しい、それとも脱がせてみたい?」
「好きにしろ」
「あなたに決める権利があるわ」
裸足で距離を詰めては位置の高いギアッチョの首に手を回す。こうしたほうが脱がしやすいでしょう、と囁やけばいかにもイライラした、という体の表情ばかりが返される。頬にキスをすれば拒否はしないくせに、ずっと言葉も行動もなくただされるままに不機嫌さを撒き散らしていた。殺気だけで相手を殺せるのではないかしら。
贈り物扱いには慣れているし、それだけの報酬をすでに貰っているのだから好きにすればいいのに、とマリエは思うし、ただ何もせず部屋に招いては突っ立ったままのギアッチョは”ちょろい”客だとも思っていた。どうせそれだけ出してくる客なのだから遊びほうけた客だと思っていたのに、そうでないことが拍子抜けだったというのもある。もしかしたら体験がないのかもしれないけれど。
「もしかして、服を着たままのほうが好きだったのかしら」
「好きにしろ」
ギアッチョはマリエの手を解いて靴も脱がずにソファに座る。なんともやりにくい客だ。マリエはその膝の前に膝をついて座り、ギアッチョの膝に手をかけながら甘えるように擦り寄った。開かれた足の間に座ってはいつものとおりにズボンの生地を辿り、デザイン性の高すぎるズボンの金具を外しては脱がせ、下着を口で引っ張ってしまう。気難し屋さんにはここまでサービスするのも致し方無い。
目に眩しい下着を辿ってすることはひとつしかない。眼鏡の奥の目に一挙手一投足を見られているのは知っていたけれどそんなことを気にする風でもなくマリエはプロの矜持で仕事を進めていた。どれだけ着飾っても、どれだけ気に入ったリップを塗っても台無し。口に含んだまま視線を上に上げればまた視線が合った。こんな状況でも表情を変えない人なんてはじめてだ。優越感も周知もない。氷みたいな顔、と思いながらマリエは舌でそれに文句をつけた。噛んだら殺されかねない気がしてそれだけはやめたのだ。
緩慢な動作が続いていればギアッチョは何の躊躇いもなくマリエの頭を掴んで動かした。はじめて能動的な行動をしたのでそれに複雑な思いはあれど文句は言えない。いっそそっちの方が何を考えているか把握ができるので楽だとも思う。かといって、果てる前に何の躊躇いも、特別な動作も、声も何もなく口の中に出されたのでやりにくいことには違いないのだが。仕事と割りきってべろりとそれを見せて飲み込めば眼鏡の奥の目はやっと焦ったような色を見せマリエの首を手で掴んだ。
「そんなことはしなくてもいいっ」
「えっ、あ、苦しい」
「ああ……」
抗議でやっと自分の行動に気付いてかギアッチョは手をマリエの首から離す。そんなことと言われてもそれが仕事で、あなたもそうしたいからそうしたのだと思ったのに、と思いながらマリエは手で唇を拭って水を要求する。目の前にマリエがいるのを忘れたように慌てて目の前のギアッチョは立ち上がり、ズボンを上げて直しながらキッチンに行ってしまった。勝手がわからないのでこちらも戸惑ってしまう。マリエは別に童貞を相手にすることはきらいじゃないけれど、得意というわけではない。
「そんなこともうするな」
「好きでやってるだけよ」
好きなんかじゃないしやりたくもないけど。与えられたグラスの水に口を付けてマリエはそう思いながらニッコリと笑う。お仕事だもの、あなたは客で、今の私の全て。水を飲み干して目の前に再び座るギアッチョの膝の上に乗れば、最初とは大違いの物言う目をレンズに通していて、うっかりかわいいだなんて言いかけて単語を消すように半分隠れていた額にキスをしてしまった。怒っているかどうかわからない仏頂面よりずっと戸惑った顔でもされていたほうがいい。
「こんなことするのは」
「はじめてなんでしょ」
「るせぇ」
ドレスの裾をあげて膝立ちでギアッチョの上に乗る。せっかくズボンを脱がしかけたのにまた履いちゃって。困った子だと思いながらその顔をマリエは愛おしさばかりを表して眺めていた。最初からそう言ってくれたらよかったのに。
「はじめてで私を選ぶなんて、苦労するわよ」
「……」
ギアッチョの手は音もなくマリエの背中にくっついて、それから背中にまっすぐに伸びるジッパーに触れる。それを引っ張って下ろすだけだから何の心配もない、と思いながらマリエはギアッチョの両肩に手をついてそれが降ろされるのを待つ。許可ならもうとっくに出しているんだからと思って目で促せば低いかみ合わせの音を立てながらゆっくりドレスの張りは失われていった。
もう一度床に立ってマリエは体に引っ掛かる気もなくしたドレスを床に落として下着姿のまま元の姿勢に戻る。所在なさげに空を掴むギアッチョの手を自分の下着の上に置いて微笑みかければ、困ったような目をしたので嗜虐的な気持ちになってしまう。何をしてもいいのに、と思いながらマリエはすきなようにしなだれかかって、それから適切に息を首にふきかけて、上着のボタンに指をかけた。
「オレはお前が、パッショーネのパーティーに来ているのを知ってる」
「ああ、そういう関係の人だったんだ」
首まであるボタンをひとつ、ふたつを外していけば白い首筋が見えた。見かけよりずっと鍛えている。若いのにあの値段を出してくるのは只者じゃないとは思っていたけれど、なるほど合点がいく。
「大丈夫、口は堅いわ」
神経質か、はてまた恥ずかしがり屋か。数だけは多く丈も長いギアッチョの上着のボタンを外してはその頬にキスをした。ぽつりぽつりと経緯を漏らすこのかわいい顧客は上司のプレゼントでこういうことになったらしい。かわいいひと、表にいたらどれだけでも普通の女の子と機会があったろうに。もしそうだったら私とこうして会う機会もなかっただろうけど。下着のまま彼の膝の上で焦らせば若さかきちんと応えてくれるのだからかわいい以外に表現があるのだろうか。人を寄せ付けないような上着をきたまま中は黒いシャツだけでなんとも無防備なのがさらに初心じみていて上司の判断は正しかったのではないかと思う。こんな初心に自分の生活が守られてるだなんて思ったらきっと笑ってしまうから、もっとスレてもらわないと困る。もっともっと女をものみたいに金で買い叩くような男になって、二度と指名なんてしてこないようにしてもらわないと困ってしまう。本気になったらこの仕事は終わりだから二度と会いたくなんてない。こんな反応をみたのは仕事ではじめてだ……とマリエは思いながら黒いシャツをめくり、筋肉のついた腹部を撫でる。
「私がはじめてでうれしいわ」
手を置いたはいいが胸すら揉めないひと。その手に自分の手を重ねればゆっくりと揉んできて、力の入ってないそれに笑いそうになるのを嬌声でごまかして彼の肩に顔を埋める。私の仕事はこういうこと、願わくばもう二度と会わないんだから楽しませてあげる。私以外の女がいくらここに来ようが思い出させてあげる。腰を浮かせてズボンのボタンを再び外し、中途半端に脱がせて反応をみていた。嗜虐的な気持ちで首を噛んでみたら肩を噛まれたが、案外その力が強くてびっくりして本気の声を出してしまう。それを機にぐっと腰を掴まれて引き寄せられたのでびっくりして小娘のように首にしがみついてしまったのは想定外の結果だった。嫌だ、と言っても力強くその手はマリエを離してはくれない。別にすることが目的じゃあねえんだ、と顔の見えないギアッチョはきざなことを言い、それから両手で私の背を抱いてがじがじと肩を甘噛みしてきた。
「一度でいいから会いたかったんだ」
「本気で言ってるなら向いてないわよ」
所在なくなったのはこっちのほうだ。これ以上情にも訴えかけられたら本気になってしまう。マリエはギアッチョの渦巻く髪を手に再び取りながら腰を動かして誘うが一向にギアッチョは幼獣めいた甘噛みをやめない。
「去年の幹部のパーティーで見た時からだ」
「パッショーネはお得意様だわ」
「知ってんだよそんなことは」
噛んでは舐めを繰り返されて、まるで獣みたいだとマリエは思っていた。獣みたいにするのがお好み?それともずっと理想のままでいて欲しい?そう問えばどちらでもないと言ってギアッチョは不器用に下着の金具を取ろうとするから、マリエはその指に自分の手を重ねて自分で下着を外し、彼のするがままにされていた。彼の指はものを知らないから不躾にマリエの体を探ったし、その指に痛さを覚えることも少なくなかったが、私は努めてその痛みで正気を保とうとしていた。きっと手慣れて優しく気遣いを感じてしまっていたら、正気を失ってすっかり本気になっていただろう。不躾に彼はマリエの下着を全て外し、性急に体を求めてはまた腕を噛み、手荒な動きで精を吐いて熱い吐息を首筋に落とすのだった。その手荒さに小娘みたいにマリエは余裕なくやめてと声を上げても彼はやめてくれなかったが、それがプライベートでは好みだった。まさか知っているわけがないと思いながら、マリエは精一杯の余裕を見せてひと息をつくギアッチョの胸の上に居直り、もうパッショーネの仕事はしない、と心に決める。次の身請けの話が来たら絶対に受けてしまおう。本気になったらこの仕事は終わりだ。二度とこんな部屋には来ない。この男が二度と私以外の女を抱けないようになればいいのに。そう思いながらマリエはギアッチョの太い首にくちづけて、それから一度仕返しのように噛んでから唇に一度だけキスをした。あなたの最初は私の最後であるという印である。マリエが客の立場の人間の唇に自分から口付けたのはこれがはじめてで、最後だった。それを知らないままギアッチョは眼鏡の奥で疲れの色を浮かべながら、する前に戻ったようにまたとりとめもない過去の話を紡いでいた。

20151218 chloe