青い夏
セクシャルかつバイオレンスなのでご注意
好きだという単語だけでは自分の思いが伝えきらないような気がして、そのむず痒さが手という具体的な形で出てしまうことに後悔するのは大概全て終わった後だった。
どんなに言葉を尽くして、いかに君の目が、今日の衣服が、髪型が美しいか、似合っているか、不機嫌そうな顔もかわいいと、喜ぶ顔も美しいと告げても、美しい君のために全てを捧げよう、と休日を捧げても
マリエの口から出てくるのはSi,か間の伸びたgrazie,それからanche a te,なんて言葉の組み合わせだった。そうでなければ淑女然とプロシュート、私甘いものが食べたい、だとか、潮風が吸いたいわ、なんて言い始めるものだから、プロシュートはそれに対して過剰すぎる言葉で対応するのだ。ああそれなら隣街までジェラートでも食べに行こうか、それともこの前のローマのジェラテリアまで行くかい?君はレモンのジェラートが好きだったな、そういえばピンクペッパーのはいったジェラートを置いているところを聞いたんだ。潮風を吸いたいのだったらアマルフィまで車を飛ばすのも悪くない、それともシラクーザかジェノヴァがいいか?彼女はそんなプロシュートの答えに、じゃあそれにしてだの、一番遠いとこがいいわ、だの困らせるような返事を寄越すのだ。事実、プロシュートの運転時間は任務中よりこうした休日のほうが長い。
「困った子ね」
口の端に滲む血を
マリエは指で掬って、その指をプロシュートの口元に付ける。その指を舐め取りながらプロシュートは彼女を見上げて、それから少しその指を噛むのだった。
「優男がだいなしよ」
「……すまない」
マリエはプロシュートに殴られた頬を少し手で気にしてからその手を彼の頬に持って行き、普通の恋人同士が慈しむようにその顔に自分の顔を寄せた。柔らかい唇は血の味がしたし、それはここ最近常にあるものだ。それは自分のせいであるのだが、彼女がこうして事後にキスをしてくることでその自責の念は膨らむばかりで、今度こそもう二度としないと誓うのだった。毎度そう思えども、今日だってこうして
マリエに手を上げてしまった。
今日の予定は何だっただろうか。彼女が甘い声で二人きりでバカンスがしたいの、なんて約束の前日に電話をしてきたものだから、車で迎えに行って、用意なんて何もしてないわなんて返事が返ってきたものだからブティックでバカンス向けのワンピースや水着を見繕って、そのままはるばる車を飛ばしてこの海辺のコテージにきたのだった。彼女のはしゃぎ様はいつもよりすごいものだった。みて、ウミネコが飛んでる!だとか、ラジオにかかる歌に懐かしいわ、だなんていって一緒に歌っていたりだとか、普段の様子よりずっと嬉しそうに、バカンスらしい可愛らしい反応をしていた。しかしその反応の中でプロシュートに関するものは何一つなかった。それが今日の彼の苛立ちの、それから手を上げた根本的原因だった。この歌懐かしいわ、高校時代によく聞いていたの、当時のボーイフレンドが聞いていてね。ミャアミャア鳴くのがウミネコなんですって。こないだバールでそんな話をしていた人が居たのよ。
「可愛い子」
ゼロ距離で
マリエはプロシュートの前髪を手で梳いてそう言い聞かせる。これももう習慣になりつつある行動だった。何も着ないままで罪悪感の塊のプロシュートを宥めるように彼女は彼の顔に、体に触れる。それは普段表では絶対にしない優しさで、それを求めて今日もまたこんなことをしてしまったのかもしれない。
「怒ってないわ。大丈夫よ」
コテージについた時も
マリエは実に楽しそうに笑っていた。なんて懐かしい雰囲気でかわいいお家なの!窓からの景色も最高ね。なんて素敵なバカンスなのかしら!そう笑いながら彼女はプロシュートの首に手を回して、間延びしたgrazieを言うのだった。その一言が聞きたかったはずなのに、現実は今みたいにそのまま窓辺のソファに押し倒して、首を噛んでは跡を付け、先程買ったばかりのワンピースを破いては腕をそれで縛り上げた。
マリエは決してやめてなんて言わない。どうして、とは言う。どうしても何も君が俺のことを見てくれないからなんだと思いながらプロシュートは彼女にかじりついていた。夏向きの下着も手荒く床に落ち、ストッキングも破けてその役目を終えた。ああもう、そんな、乱暴にしないでなんて、自分のことには何も言及しない彼女にイライラしてつい今日も手をあげてしまった。べち、と鈍い音が数度して、それから彼女は何も言わず、ただ嬌声と吐息だけをこぼしてプロシュートの下から彼を見つめていた。
体の白い稜線をたどる中で、そこかしこに赤や紫のまだらが残っていることに少なからずプロシュートは後ろめたさを感じていた。と同時に、これならばきっと彼女も他の男に素肌なんて晒すことはないだろうとも安心していた。これらは確かに自分がつけたもので、いつかは消えるとしても当分は残り続けるものだという確信があってつい手を下してしまったものだった。いつからこんなことになってしまったのだろう。彼女の体に指を、それから舌を這わせながらプロシュートは思い出そうと努力していた。手を上げだす以前はもっと笑いがさざめくようなセックスをしていたはずだった。自分もそこまで慣れていないわけでもないのにどこか初めてのような気持ちの愉しさがあるような。今のような一方的なものもある意味では初めてのような気持ちであるには変わりがないのだけれどもだ。それでも彼女が好む場所も、感じ方も変わらないので、結果は何も変わらず、ただ愉しさではなく虚無感と罪悪感を吐き出す行為になっていた。胸を潰すような触り方をするのが好きで、鎖骨を噛むのが好き。舌を這わせるなら下腹部と、それから小さく普段は下着に隠れている腰の黒子の辺りが正しい。達しそうな時にキスをせがんでいたのに、こういう風に一方的な行為になってからはそれを求めなくなったことも記憶に新しかった。プロシュートが気配を感じてキスしようとも避けることには少なからずやショックを受けたし、それでまた一発殴った覚えもあった。
そうだ、爪が最初のきっかけだった。プロシュートのまぶたをなぞるひんやりした
マリエの指先で彼は事の始まりを思い出す。数ヶ月前に
マリエが現れたとき、その手には真っ赤で、少しばかり色味の浮いたネイルが施されていた。いつものようにプロシュートは
マリエの気を引きたくてあれやこれやを褒めそやす。その中にその赤い爪も含まれていた。君の爪の形は最高だ、小さな貝殻みたいで揃っていて、果実みたいだ。今すぐにでも食べてしまいたいくらいだよ。それに対して
マリエはこう笑って告げたのだ。ね、素敵でしょう。昨日カフェにいたら、ネイリストの人に誘われて塗ってもらったの。
それからその晩が全ての分岐点だった。その時点でプロシュートは
マリエの指を全て切り落としてしまいたかったし、彼女の爪を塗った男もこの手で殺してしまいたかった。足の付かない方法なんていくらでもある。その晩プロシュートは彼女の爪を齧っては、上に塗られたネイルラッカーを剥いだ。罪人のように手足を縛って自由を奪ってからの行為だった。除光液という存在は知っていたものの、彼女の指が何かもう既に自分の見知ったものではないような気がしてそんな原始的な方法を取ってしまったのである。男は後日殺したが、きっと彼女も元々二度と会うことはなかっただろうし、完全に自己満足として手を下した結果であった。殺し屋としてその時はまだ歴の浅い時分であったけれども、それは難なく”不慮の事故”として扱われ、日常の中に消えた出来事の一つになった。
「怖がらないで」
「いつも後悔するんだ。今もな」
「今のことはしようがないわ。いいのよ」
「本当は好きなんだ、こんな時に言ってもしょうがないんじゃあないかと思われるに違いないんだが」
私だって大好きだわ、痛くないほうが嬉しいけど。解いた腕をプロシュートの首に絡めては
マリエはそう囁く。可愛い私のマンモーニ、なんて言われてきまりが悪くて、プロシュートはそのまま幼児のように
マリエの頬にキスを返した。窓からは波の音がガラス越しにも伝わってきて、彼らの青い夏のはじまりを告げていた。
20150712 chloe