en bateau

 目の前の人はどこか不思議な気持ちにさせるのが上手だとマリエは常に思っていた。ここ数年のことを考えてみよう。例えば誕生日だとか記念日だとか、他の友達の話を聞いて何をしようか、はてまたされるのか少しドキドキしていたら彼は白と黄色でまとまった花束を恥らうでも無く普通に持ってきて、昼休みに予定を取り付けてはマリエにそれを手渡した。人の往来の多い大学の昼休みの中庭で、嬉しかったけれどもマリエは注目を浴びたことにひどくうろたえてしまう。その彼にとっては想定外の様子からマリエが喜んでなどいないという不幸な誤解を解くのにその後一週間は要したことは彼らのごくごく身近な人間ですら知らないことかもしれない。花京院としては、彼女の好きな花を一番早いときに渡して喜んで欲しかっただけであって、マリエとしてもひどく嬉しいことであったのにそのタイミングが想定外の時間と場所で対応しきれなかっただけであったというのに。何が私と彼の間で足りないのかという答えは対話に尽きる、というのがマリエの解答である。
 思えば、何が好きで、何についてどう思うか、何を見てきたのかなんて一緒にいて14ヶ月経ってなお知らなかったし、せいぜいその期間とその前の数ヶ月くらいしか同じ場所にもいなかった。会話が滑っていく気がするという焦燥感は全てここから来ているのかもしれない。
どう思う?と聞けばマリエが好きならそうしていいよ、だなんて言うことを友達の誰しもが心が広くて素敵と評したけれど、マリエは内心もっと花京院のことが知りたくて問いを投げたのにと思わなくもない。薄く度の入ったメガネを外そうとしたら嫌がられたことと、メロンフロートの上の缶詰のさくらんぼが好きなことと、それから英語が達者で、有象無造の大学生が嫌いでサークルに入っていなくて、緑色が好きなことくらいしかはっきりと好き嫌いを知らない。味の好みを聞いてもなんでも好きだなんて返ってくるし、かといって失敗しても不味いとも言わずに彼は次頑張ればいい、これだって形は、味は、都度変わるそれはいいのだからと褒めてくれるばかりだった。
 何が決定的に気にくわないということでもなく、何をされたというわけでもなく、喧嘩をしたわけでもないけれど…いやそうであったからかもしれないけれど、マリエは一年前よりかはずっと彼について興味と関心と、それから執着を失っていたのかも知れない。同じクラスであったから半分くらいは同じ時間割であったけれど、彼の与り知らない時間に知り合った他学部の男子学生達と校舎の陰で、それから半地下の階段下でキスまでをしたりランチに出かけたりなど普通にしていた。それは新学期からはじめて、この間の期末テストまでで止めたけれど、その間すら花京院は普段通りにマリエを扱い、さらに先述のびっくりするような花束の出来事をも起こした。それでマリエが火遊びを止めたと言っても過言ではないのだけれども。
 かといって、花京院は普段通りで他に何を示してくるでもなかった。ただ週に2度約束をして、それから同じ授業を受ける。約束をした日はそのままどちらかの家で夕飯を取るなり、出かけるなりする。彼は常に手を繋いでくれたけれど、夏になっても止めなどしなかった。週に一度はどちらかの家で体を重ねもした。興味の量が去年と今で変わってしまっても快感の量は変わらないということをマリエはぼんやり思っていたけれど、それを口にするわけにもいかずただ花京院の横でぐったりと眠ることだけを毎週繰り返していた。彼の言葉も毎週繰り返されていて、彼はマリエに「いい子だね」と言って頭を撫でて眠りに就くのが常である。

「釣りに行こう」
 彼がそう言って夏のまだどこか暑い空気を纏いながらマリエの家にやってきたのはあと半月と少し経てば授業が再開する頃で、この頃にはすっかりお互いアルバイトで日中を費やすこともなくなっていた。
「いいけど、いつ行くの」
「そうだね、明日の朝とかどうかな」
 突然すぎたかな。花京院がそう言って少しだけ汗で湿ったシャツの裾に空気を入れると同時にマリエは彼を家に上げていた。ワンルームのその部屋はさっきまで音楽をかけながら作業をしていたのがありありと見て取れる。
「ううん、いいよ明日で」
 マリエはグラスに掬った氷を落として冷蔵庫のカラフから水を注ぐ。それについてきちんと挨拶をしてから手をつけるところはマリエの彼の好きなところの一つであって、いつだって礼儀正しくて紳士的なところだけは誰よりも素敵だと思っている。……紳士的すぎてつまらないと先々月までは思っていたけれど。
「でも私釣りなんて行ったことがないから何を準備したらいいかわからない」
「いや、何もいらないよ。僕の私物が幾らかはあるし…そうだね、きっと日に焼けてしまうからそれの対策くらいかな。あとは向こうで足りないものは借りてしまえるし」
 あとは明日の朝早く出かけるだけだよ。グラスを空けた花京院はそう言ってキッチンの台に氷の入った、空いたグラスを置いて口を拭いた。ボートに乗ろう。ボートから釣りをしたら、それだけでも楽しいだろ。その誘いは唐突だったけれど、彼の行動のなかで唐突なことなどあまりなかったものだから嬉しくなってしまって、マリエは再びそのグラスに水を注ぎながらじゃあ朝までここにいてくれる?と答えも明らかな質問を投げかけるのだった。彼の答えはいつだって「マリエがそうしてほしいなら」だ。勿論今回だってそうである。

 眠ってはいけないことなど重々承知はしているのだけど、慣れない早起きと長距離移動、それから隠れる木陰もない日差しの中ではどうしても自分の体力は保たないということをマリエは悟る。日の出る前に家を出たことなどはじめてだった、それからボートを漕ぐなんて。最初は面白かったし−−今も面白くないわけではないが−−目が爛々と冴えていたのに、ぼんやりかかったりかからなかったり、波に揺れたのだか魚がつついたのだかわからない手元の感覚にどこか酔ってしまったのかもしれない。真横の花京院の視線は海の向こうで、普段より少し饒舌に話したかと思えばまたこうして空白ばかりがそこにはあった。
「典明くんが釣りをするって知らなかった」
「たまに父親と行ったんだ。僕は昔友達がいなくて、それを心配していたのかもしれないけど、父はよく外に僕を連れだしたんだよ」
「そうなんだ、ちょっと意外」
 友達があまりいないことくらい知っていた。彼の中に親友はいる。だけれども同じクラスの中で典明くんから話しかけている人なんて数えるほどしかいないし、クラスのコンパですら来ないのだから。だから、私は初めて彼に声をかけられた時に−−これも中庭だった。初夏の中庭で、白いオックスフォードシャツが眩しくてたまらなかった−−同じクラスとして認識されていて、なおかつ名前まで把握されていたことに非常に驚いたのだった。
「海の上って何もないから、何でもぽろっと父に話してしまってね。だからといって友達が出来るわけじゃあなかったけど、それでも父と釣りに行くのも、ぼんやり釣りをするのも好きだったんだ」
「典明くんが何かを好きっていうの、久々に聞いたかも」
「…いつもマリエには言っているだろ」
 そうじゃあなくって、趣味嗜好のことで。これは失言だったかも知れない、とマリエは水面を凝視するふりをする。いけない、やはりここは彼の幼少期と同じでぽろっと言ってしまう性質の場所なのかもしれない。彼にこうしてはっきりとものを指摘したのははじめてだ。もしこの場で喧嘩でもしたらどうしよう、という気持ちばかりが先行して指先が震えて、それが糸に伝わって少しだけ海水面も同心円状にひだを打った。
「趣味嗜好か、でもマリエは僕の好きな色だって知っているし、好きな食べ物だって知っているし、絵を描くことだって知ってるだろう」
「ううん、知らない」
「…そうだったかな」
「絵を描いていて、緑が好きなことは知ってる。ほかは殆ど知らないよ」
 短い影が、典明くんがこちらを向いていることを示してきていた。自分のつばの広い帽子はその視線を遮ってくれているだろうか。私の表情はきっとひどいとこだけはわかっているし、それから何よりも口は止まらないで彼のテンポに飲まれていることだけは自覚していた。
「…毎週一緒にご飯作ってるじゃないか」
「なんでも好きって言うから、特に何が好きだなんて知らないもの」
「それは事実だからしょうがないなあ。…マリエの料理で嫌いだったものがないからね」
 彼は幾らか失敗した料理の数々を忘れているのかもしれない。失敗というのは大抵、したほうが覚えていて、されたほうは覚えていないのが常だからそれだったら仕方がない。だけれどもこれは私の感情に対する正しい解答には程遠い。花京院にしてはなんと珍しいことか!と思いながらマリエは相変わらず水面に視線を向けていた。サングラスも持ってくればよかった。目の怪我を過去にしたという彼は大抵夏に屋外に出かけるときはしていたけれど、これは怪我の経験のない私であってもなかなかに厳しい。眩しくて目を眇めているから余計に眠くなるのだ。暑いし、それからゆらゆらと広く浅く揺られるから。
「最近のマリエはそういうことで不機嫌だったのかい」
「そう見える?」
「そうだね、春からずっとそう見えているよ」
「うん、私ばっかりものを決めている気がしてつまらなかったの」
 だから今日のお誘いは嬉しかったけれど。けれど、と言葉を切ってマリエはふと気付く。けれどなんだって言うのだろう。嬉しかったのは確かだ。それからつまらないと思ってここ最近を過ごしていたのも正しい。
「典明くんは何も教えてもくれないし聞いても答えてくれないから、私が何も知れなくて寂しくてもどうでもいいみたいな感想を抱くだけ」
「寂しかったのかい」
「ただ単に会ってるだけみたいな気持ちに良くなったわ」
 魚が掛かってくれればいいのに。あまりにも風向きが悪い。このまま喧嘩に発展させたいなんて気持ちはさらさらなかったのに、いやそれを見越してここに連れてこられたのかもしれないけれど。眩しくて限界まで絞られた瞳孔には未だに糸が作る波紋は映らない。
「嫌いというわけではないの」
「難しいね」
「難しいかしら」
マリエは意地っ張りなところがあるからね、少し難しいと思うときは有るよ。こうしてね」
 でもそれは僕じゃないと御せないだろう。自信満々な、それでいて穏やかな声がそれに続いて流れてきたのでついマリエは視線を海面から上げてその声の方向を見てしまう。色の薄いレンズの奥の目は自分と同じように海面ではなくてこちらを見ていた。今までの表情も、見られていたのかもしれない。変な表情はした覚えはないけれど、唇を噛んだことは見られていただろう。やめなさいとここ一年に渡って言われ続けてきた癖だ。
「どうかな」
「素直じゃないところが好きだよ、僕はね」
「典明くんは変な人ね」
「普段のマリエがそんなだから、たまに素直になるのを見て嬉しくなるんだよ」
 これ以上僕を喜ばせる気かい。まっすぐこちらを向いてそんなことを言ってくる典明くんの目は、もうこれ以上、レンズ越しでも見つめ返すことなんて出来なくて、マリエはつい手元に視線を戻してしまう。相変わらず変化なんてなくて、ただただ照り返しばかりがマリエの瞳孔に飛び込んで弾ける。彼には勝てないと悟るにはもう十分だった。私の小さなキャンパスの影の非行の数々、それから今日のこの場の発言、彼はすべてを分かった上で手のひらの中に私を放し飼いにしているという事を知るには十分すぎた。
「来月からはもうおとなしくするって約束できるね」
「…うん」
「僕も気をつけるから」
 マリエは再び水面から顔を上げて花京院の方を向く。相変わらず彼はマリエの方を向いていて、幾らか穏やかになった視線は相変わらずマリエの表情を捉えていた。うん、という必要最低限の、それでいてそれ以外に答えられなどしない回答を得た彼は満足気に唇を上げてから海から糸を引く。そろそろ場所を変えてみようか、と提案してマリエの手を取って、その手元の糸を手繰るのを手伝ったけれども、マリエはもうどうしようもない気持ちになってその手の中に収まって眠りたい以外の感想がなかった。唯一の接点の手がひどく暑いのはきっと環境だけが要因ではない。典明くん、とマリエが花京院を呼べば、彼は穏やかにそれに応える。海の上でただこのボートのほかに居場所なんてなくて、マリエは思ったよりも手のひらの容積は狭いらしいことを知るのだった。
「いい子だね」
 物をしまって、オールを持つ前に彼はそう言って帽子の上からマリエの頭を撫でた。その感触と声にすっかりマリエは眠くなってしまって、それからどこか庇護されているような気持ちになって鼻を鳴らす。涙を流すには水分が足りていなかった。今夜家に居て欲しいと言ったら、彼は果たしていつものように「マリエがそうしてほしいなら」と言ってそばに居てくれるのだろうか。自覚できるくらい不安な気持ちのままマリエが花京院を見上げれば、彼は相変わらず涼し気な視線を投げながらオールを漕いでいた。彼は答えの代わりにもう少しだけ彼の昔話をあの大きな唇から少しだけ漏らしてくれたけれど、お願いしたとおりに心理的距離を縮めようとしてくれるより、今はすぐにでも抱きしめて欲しいと思うのはあまりにも身勝手すぎる希望なのかもしれない。これで14ヶ月も一緒にいることになっているけれど、私は未だに彼にどう甘えていいのかすら知らないのだった。それはこれから知れたら良いのかもしれない。ただ隣にいて欲しいだけなのに、なんと言えば良いのか知らないなんてひどく滑稽な話だとも思う。知らないことを知るにはすこし遅すぎた。
「私も漕いでいい」
「勿論。おいで」
 僕の足の間においでと言われて、マリエは招かれたままにそこに収まる。少しだけこのままで居させて、とマリエはその花京院の胸の中で身を預けたけれど、そうしたいならずっとそのままでもいいんだよ、と頭の上から普段みたいな言葉が降ってくることだけには耐えられずに涙を零すのだった。素直じゃない子がこういうことを言うのが僕は大好きなんだよと花京院は言う。せめて泣いたことがバレないといい、と思いながらマリエは落ちた涙をこすらなかったけれど、きっと彼にはもうバレているのだろうと思うとおかしくなって、泣き笑いの形相になってしまうのだった。マリエの中で、花京院はどこか自分を不思議な気持ちにさせるのが上手だという印象だけは今も昔も変わらない。
20160305 chloe, as a valentin request 2016.