no.8

 歯が痛い、かもしれない。そのことに気が付いたのはいつものようにギアッチョの案外たくましい二の腕を噛んだ時のことで、少し歯が浮いたような感覚がして私はすぐにその腕から口を離した。かちかちとかみ合わせを確認しても、やはりどこか違和感が有る気がする。そんな私に向かって真横に寝ていたギアッチョは馬鹿みてえな面してんな、だなんてひどいことを言うのだ。
「なんか、歯が変な感じ」
「歯医者だな」
「やだあ……」
 かといって虫歯になるような生活習慣なんてないような気がしているのだけれども。この男はやたらと神経質で、私は彼といるようになってから歯磨きの回数も時間も増えたのだから。朝晩だけだったのに、寝る直前もさらに磨いて、それからマウスウォッシュを持ち歩くようになって、なんでもミント味ならいいと思っていた歯磨き粉すら少しだけ気を使ったホワイトニング仕様になって、それから歯ブラシだって小さくてある程度やわらかいものに変わっていた。一緒にいれば同時に歯を磨くし、彼が足りないと思えばまるで子供みたいに膝に呼ばれて磨かれていたのだから。あのたくましい太腿に頭を乗せて歯を磨かれるのは、何とも言えず恥ずかしい気もしたけれどもやっぱりきらいじゃないというか、すこし幼い気持ちになって楽しかったことの一つだった。
「なんか浮いた感じがする」
「疲れてるだけじゃねえのか」
「そしたらギアッチョのせいだね」
 うるせえ、と隣のギアッチョは不意に起き上がったので私は顔を載せていたギアッチョの腕から滑り落ちて顔をシーツに埋める形になる。彼の動作というのはこのように、隣にいる私のことなんかお構いなしに突然におきることも慣れっこだった。シーツから起き上がった彼を見上げると、彼は脱ぎっぱなしの黒いシャツに首を通したばかりのところですこしずれたメガネ越しに視線が合う。彼は神経質だけれども、服を脱ぎっぱなしにしたりメガネのズレを気にしないところだけはがさつだと思うのだ。でもそういうところが何とも言えず好きだったことは否定できない。
「ほら」
 シャツを着終わったギアッチョはおもむろに足を組んで、そこを手で叩いて私を呼ぶ。まさか、またいつもみたいに?と思ってその膝に顎を乗せればそうじゃないとばかりに頭を掴まれて仰向けにその組んだ足の上に乗せられてしまう。いたいいたい、と感想を漏らしても彼はじっとしろ、と不興そうな声を上げるばかりだった。自分の視線からまっすぐ上にギアッチョの顔がある。ギアッチョを真下から眺めたことがあるのはきっと私だけだ、と思う度に嬉しくなって笑ってしまうけれど、やっぱり今回もそれが抑えられなくて、笑ってしまえば口をつままれてしまった。眉根を寄せるギアッチョ。やっぱりちょっと怖い顔だけど、私にとって見ればそれは照れ隠しであるからかわいいとしか言えなくなってしまう。
「口を開け」
「もっと優しく言って」
 あーんて言って。この取り組みは成功したことがない。今回もやっぱりギアッチョは眉間の皺を深くして、うるせえと言っては口を開きかけた私の顎を掴んで開くのだった。手加減を知らないな!と思うけれども、多分彼の力からいけばこれだって随分と加減して気を遣っている方なのだろう。仕方ないとばかりに協力気味に顎をきちんと開けば、彼は指を私の歯にかけながら覗き込んでくる。この段階で私はどうしても恥ずかしくなって目を閉じてしまうけれど、そうすると彼の冷たい手からひしひしと彼の脈拍を感じるのでそれはそれで神経が研ぎ澄まされて恥ずかしさが増すのだ。いっそ目を開けていてもどうせ視界は彼の黒いシャツで遮られるのだからいいのかもしれないけれど、それでもやっぱりぎゅっと目を瞑ってしまうのだけはやめられない。
「虫歯じゃねえなあ」
「ええー」
 ギアッチョが私の歯と顎から手を離してそう判断してから、私は再び目を開く。目を開いた瞬間に、目の前に自分の顔を覗き込んでくるギアッチョがいることはいつだって慣れないけれども、幸せな風景の一つだと思っている。この部屋で幸せなのはあともう一つあって、寝ぼけてメガネも掛けていないギアッチョが隣で起き上がったときにこちらも目を覚ます瞬間で、彼の比較的柔らかい視線を受けて起床する事は幸せなことでしかないと思っている。勿論彼はその数秒後に再び寝るのだけれども、滅多に一緒に朝を迎えられないのだからそこにいるだけでも嬉しいのだ。そのことを言ったらその次に一緒に朝を迎えるのが三ヶ月後になったので、二度と口にしないとは思っている。ともかく、この部屋での私にとっての幸せな風景というのは大概目を開けた瞬間に目の前にギアッチョがいることだった。いまもそれに相違ない。
マリエ、もしかして親知らず抜いてねえとか…ないよな」
「……一度も痛くなかったから抜いたことない」
「それかも知れねえなあ」
 そんなもんガキの頃に抜いとけよ、なあ。私の両頬に触れるギアッチョの手は相変わらず冷たい。もう少し眠たくて体が熱かったのでその感触が気持ちよくて返事もしないで目を再び閉じればギアッチョはまた私の不出来を並べ立てるのだった。マリエってどうもどんくせえと思ってたけどよお、普通高校くらいで抜くもんだろうがよお。
「紹介してやろうか、歯科医」
「ギャングが医療保険に入ってると思ってんの」
「何人か無免許も免許持ちもいるぞ、パッショーネにも」
「痛そう、やだ、拷問と治療の違いわかってなさそう」
 隣にいてくれないとやだ、と顔を振れば、甘ったれがよおだなんてギアッチョは私の頬をさらに強く抑えるのだった。この人の手は冷たい。私はいつまでたってもこの手の中では甘ったれでいたいと思ってしまうし、ある意味彼の手で死んでいく対象の皆さんにはすこしばかり羨ましいという気持ちも持っていた。彼に殺してもらえるなんて、どんなに惨たらしくても私だったらこれ以上ない餞だと思う。
「親知らずってよお、智歯っていうのはわかるんだが、早くに親と死に別れたらそりゃぜんぶ親知らずなんじゃねえかって思うんだよな」
「うん」
「俺が抜いた時はまだ親の庇護下で馬鹿やってたから余計違和感があるんだよな」
「発育がよかったのね」
 不思議だよなぁ。彼はそう言って視線を外して、私の頬から手を離して自分の頭を掻いた。彼の神経質さは、行動よりかは言葉に向く。そのせいで何度辞書を引いたか、それを思い出すほうが歯が痛むような気がしてならない。あとそれから発音にも結構うるさくて、出身でもないのにロマネスコをきっちり話せるようになってしまったっけ。彼の気は常人のそれよりずっと短いのを知っていたけれど、その割に面倒見は良いのだからその賜物かもしれない。
「痛み止めでも飲んでさっさと寝ろ」
「飲ませてぇ」
「甘ったれんな、クソ」
 水は持ってきてやるから、薬は探せ。そう言ってギアッチョは私の頭を自分の足の上から下ろそうとするので私は甘えて頭をギアッチョに押し付ける。クソ、と言われてもなんだっていい。もっと甘やかして欲しくてしょうがなくて、当面はギアッチョの冷たい手で冷やしてもらいながら寝ようと心に決めていた。アスピリンは飲めないから別のやつ買ってきて、だなんて甘えたことをまたシーツの上に私の頭を下ろしたギアッチョに言えば、彼はベッドから立ち上がると同時にサイドテーブルの抽斗からよく見知ったピンクの箱を私の顔に向かって投げるのだった。なあんだ、飲んでるものが一緒だったなんて。はじめて知ったそのことに少しだけ嬉しくなりながら箱を開けて、アルミの使いかけの列を彼に続いてきちんと規則正しく開けてシートをしまい直す。白くて大きな錠剤を手に持ちながら彼の出してきた抽斗に箱を戻したところでちょうどグラスを持ったギアッチョが帰ってきたので、今度ばかりは甘えて飲ませてといったけれど、珍しく本気にしてか唇にグラスを押し付けられたので、私はこぼさないようにその水を飲むことに神経を傾けた。いつもの自分の必要な量よりすこし多いその水で錠剤を流しこんだらそのまま寝るように枕を叩かれたので、やっぱり私は甘えてグラスをサイドテーブルに置くギアッチョの背に倒れこんだ。
「馬鹿、寝ろ」
「寝かしつけてほしいなあ」
「クソ甘ったれめ」
 それでも珍しくギアッチョは青筋も立てず、唇も噛まず、それから私の服を脱がすでもなく、私の方に向き直ってそのまま横に寄り添おうとしていた。その様子が珍しくておかしくて、肩を震わせてしまったらやっぱりギアッチョはいつもどおり眉間に皺を寄せて乱暴に私を掴んで一緒にシーツの中にくるまるのだった。それでも私の頬に手を添えるのをやめないので、私は嬉しくなって目を伏せてめずらしくストレートなギアッチョの優しさを享受することにきめた。明日起きたら彼の言うところのお医者さんにもアポイントメントを取ろう。それでどうにかなるまではこうして欲しいのだけど、それを言ったら彼は一体いつまでこの待遇を続けてくれるだろうか。
20160310 chloe, as a valentin request 2016. ”ギアッチョで甘め、溺愛気味のもの”