アーリーバードはおなかがすく

 岸辺露伴に約束を守らせることがどれだけ難しくて簡単か、というのは常人的な感覚で測ってはいけない。それが時間と他人が関わるならば、彼は喜んでそれを厳守するだろう。それか彼のプライドに関わる事柄だとかについても守る傾向がある。その典型例が彼の至上の喜びである原稿を間に合わせることだったり、家を焼くに至った矜持を掛けた賭け事であったりする。では逆に守らないことは何かと言われれば先述の条件に当てはまらないものであって、主にマリエとの間の些細なことであったりする。例えば露伴は日曜のブランチ”くらい”は作ると言ったが、それが達成された週というのは月に一度あるかないかである。月に4度週末があったら、そのうち1度はだいたい外にでかけているので不達成。残りの3回のうち1回でも先に起き上がって作ればいいほうだ、と今週で通算6回目の不達成がきまりそうな中でマリエは毛布と露伴の腕の中で考えていた。随分前から起きていることはお互いに知っている。これで露伴の腹の音が鳴ってもきっと彼は先にベッドを降りないし、なあ…だなんてまた調子のいい声で甘えて私をキッチンに立たせるだろう。マリエの飯のほうが好きなんだよ、いいだろ。その声に嬉しくなってしまって大抵私は先にベッドを降りるのだ。ひんやりしたフローリングのせいで爪先から首まで鳥肌が立って、まだ暖かい毛布の中の露伴は私の分まで毛布を寄せて集めて目だけだして、寒いなだなんて事を大抵言う。マリエはそれを眺めながら床に落ちて冷えきったパジャマのワンピースを着直して部屋を出る。
 でも、今日はそのつもりがなかった。ぐる、と肌越しに露伴のお腹から空腹を告げる音がして、機嫌を取るかのようにマリエの髪を露伴は撫でる。それとほぼ同時にマリエは露伴の方を向いてその胸元に顔を押し付けて眠さをアピールする。
「なあ、マリエ…」
「ごはんはまだ早いよお」
「そうか?でももう結構いい時間なんだがなァ」
「そうかなぁ」
 まだお腹すいてないよ、とマリエは鼻を露伴に押し付けながら漏らす。おいおい、風邪か?と岸辺露伴はその顔を持ち上げては自分に向け、マリエの額に触れながら違うみたいだな、と言ってその姿勢を腕の中に収め直した。マリエは天井に向かい合う姿勢になって、その心臓に一番近いところに露伴の手が置かれることを享受していた。今更何を言っても始まらないというのもある。普段の睡眠時の姿勢もそうであるけれども、この男は何故か自分の胸に手を置いたまま眠るのが好きだった。寝起きの時ですら、同じ方向を向いているのはこの男が手の中にそれを収めたいからというのがあるのをマリエはもうここ数年諦めて受け入れている。どうにもこうにも、眠っている時の顔は起きている時の不機嫌そうな顔からは一転して穏やかで幼気に見えるし、こういうストレートな好意を向けてくることだけは嫌いになれない。
「でも僕はお腹が空いた」
「早起きさんはそうね」
「朝からご機嫌斜めだな」
 露伴は真横からマリエの顔を覗き込んで言う。彼とてその原因に心あたりがないわけではなかったけれど、こうして煽るのは彼の常だった。
「今週はすごく疲れたから露伴のご飯が食べたい」
「理由が非論理的だな」
「甘やかされたいだけなの、それもすっごい。あと普通に久しぶりに露伴のマッシュルームオムレツが食べたくなった」
 いつだったか、ものすごく露伴はマッシュルームを観察しに行っていた時期があって、その度に買って帰るものだからこの家に来るたびに何かしらの料理にそれが入っていたのだ。そのブームが終焉してやっと週刊誌でマッシュルームがトリックだったか死因だったかで出てきて彼の職業病を悟って笑ってしまったことがある。それでも、あの時に度々食卓に上がったマッシュルームの入ったオムレツはマリエも気に入っていて、当時まだ露伴のほうがキッチンに立つ事が多かった記憶と合わせても甘美な思い出の味である。
「マッシュルームは家にないだろ」
「水煮缶があった」
「……仕方ないなァ」
 随分作ってないから、きっと焦がすかもしれないけどいいんだな。彼はそう言って、私のまぶたに少しだけ触れて身を起こした。温かい指先が薄いまぶたを伝って気持ちがいい。そのまま目を伏せたら、毛布がふくらんで冷たい空気が一瞬身を掬ってすぐ開くはめになってしまったけれど。露伴は寒いなぁだなんて独り言を漏らしながらいすの背に掛けてあったセーターに首を通して部屋を出て行ってしまう。マリエはその出て行った扉が完全に閉まらないことに笑いながら、昨日彼が床に落としたシャツを拾って温かなシーツの中に取り込んで、その中でそれを着てもう一度目を伏せた。どこもかしこも露伴の匂いがするというのは最高でしかなくて、久々にどこか庇護されたような気持ちで睡魔は再びマリエの意識を途切れさせた。おおい、だなんて階下から声がしていたけれど、今日ばかりは甘えたいとマリエはそれを意図的に無視していた。本当に困っているなら露伴は確実にマリエのことを起こしに来るだろうし、本当は、もし他に女なり、お手伝いさんなりが来ていないかぎりは彼だって週に5回はキッチンに立っているわけで、彼があのキッチンについて知らないわけがないのだから。……勿論週末にまとめて一緒に買物に行くので、食材については何があって何がないのか週が明けるまで知らないことのほうが多いかもしれないけれど。

「起きろねぼすけ」
 圧倒的な冷気で起きたのは久しぶりだった。心地の良い温かな毛布が突然身から離れて冷たい空気が布越しに体を侵食してきてマリエは目を開く。ちょっとばつの悪そうな露伴が視界に写って、この現象が露伴によって引き起こされたことに気が付いてマリエは彼の名前を小さく呼んだ。
「何度呼んでも起きてこないから起こしに来たんだ」
「二度寝って最高ね、すっかり熟睡してた」
 でも半時間も眠っていなかったらしい。起きろ、と露伴が腕を差し出してきて、マリエはそれに応えずに露伴の枕に顔を寄せる。まるで腕の中で眠っているかのように落ち着く。こんど自分の部屋の枕と交換してもらおうかしら、だなんてマリエは思っていたけれど、本心はそこではなくて単に甘えたかったということである。焦れて露伴は次の瞬間にはマリエの肩に手を掛けるだろう。ほら、それみたことか。露伴はマリエの予想通りベッドに膝をついてマリエの肩に手を掛けてその身を起こす。
「とんだ困ったガキだな」
 マリエはそのまま露伴の首に手を回して柔らかい彼のセーターに顔を埋める。だいたい同じ匂いがする。素肌にこれを着てかゆくないのかしら、と思いながら顔を離せば、少し困った顔をした露伴がマリエの顔をずっと見つめていた。
「その格好で甘えられると少し困る」
「そう?これ、柔らかいから好き」
 あとあなたの匂いもするからもっと好き。それは言わなかったけれど、普段の行動からバレているかもしれない。それは別にいいけれど、珍しく露伴が視線を逸らしたので面白くなくなってマリエは露伴の首に回していた手を解いて姿勢を直す。
「なあに、どうしたの」
「……僕はマリエが僕の服を着ていると興奮するんだよ」
 だから早く脱いで、冷めないうちにブランチをしよう。珍しく眉を下げて彼が提案してきたので、マリエはそれがおかしくて自分の着ている露伴のシャツの襟元を引っ張ってわざとらしく目の前の露伴に見せつける。わざとらしいなァ、と彼は笑ってベッドから立ち上がって、床に落としていたマリエのワンピースをマリエに放り投げてカーテンを開けた。二階だからいいとはいえ、デリカシーがないんだから。マリエはシャツの裾に手を掛けて柔らかくて大きい露伴のシャツを脱いで身を寒気に晒しながら、ずっと冷えた自分のパジャマのワンピースに腕を通して、それから3歩で露伴に追いついて再びその背中の匂いを胸いっぱいに吸った。実はオムレツが崩れてしまったんだ、とそのタイミングで露伴が漏らしたので、マリエは笑ってその呼気をすぐに手放してしまうけれど、何よりの久々のこんな朝が嬉しくなってしまう。
「それは露伴が毎週作ってくれなくなったからでしょ」
「覚えていたのか」
「忘れるわけ無いでしょ」
 だって約束したもんね、とマリエが顔を上げれば、露伴は相変わらず困った顔をしていたけれど、それよりなにより彼の空腹を告げる音が間に割って入ったので、ともかく階下に降りようとマリエは提案する。彼の言い訳が階段のあいだずっと後ろから降ってきたけれど、それが彼なりの甘え方だというのは十分知っていて、マリエは来週はそれに応えてあげなくもないと再び意志を融かしかけるのだった。
20160222 chloe, as a valentin's request 2016"露伴で甘めのもの"