蝶の標本

たまに帰りにバールに寄ると、見知った同僚の姿があるときがある。大抵は少し視線を合わせてからグラスを上げるくらいの所作をするし、そうでなければたまにテーブルを共にするときもある。今日はその後者の日らしく、さらにはその中でも定期的にあるマリエがプロシュートのグラスを勝手に飲んでくる日だった。いつからこの習慣がついたのかは忘れたが、そんな日は大抵その調子で一杯で切り上げて家に上がり込んでくるのである。そして言語もロマンもなしに服を脱いではベッドの中で何度も乱れてそのまま眠る日になっている。最初のきっかけは何かの解決の手法でそうなったような気もする。そうでなければ同僚を抱くなど考えられなかっただろう。翌朝シャワーに誘ってくることもなく、隣で目覚めた彼女はいつものアジトにいる時のような気軽さでバスルームを借りては身支度をし、前日の服のまま気軽に出て行ってしまう。その日にアジトで再開すれば服だけは違うのだから家には帰っているのだろう。それについて外で述べたことはないし、そうすべきでないとも思っているが、このただただコミュニケーションというよりかはトレーニングのような行為の行方についてはわからないままだった。マリエは決してプロシュートを同僚以上の関係に扱わなかったし、プロシュートも彼女を口説くことはしなかった。そもそも同僚とセックスをすることがぴったり同僚の定義に沿っているかといえば、同僚以上ではあるだろうが。
「食事時でもないのに辛いワインなんてどうかしてるわ」
「どうかしてるのはお前だろ」
「怖いなあ」
マリエはくすくすと笑ってナッツと共にさらにそのワインを口に含んでいく。きっとこの後はあの滋味深い味のするキスが待っていると思うと何ともいえずプロシュートはただグラスを傾ける彼女を眺めるだけだった。ね、そろそろ帰ろうだなんて言い出すのには20分とかからないだろう。まるで元からそういう関係であったかのように彼女はバールを出てからさも当然と言わんばかりにプロシュートにエスコートを求め、それにプロシュートも応じてしまうのだ。腰に回した手にマリエも応じ、ふらふら毎回違う道を通っても行き着く先はプロシュートの部屋だった。何も特に感想もない部屋である。アパルタメントの中層階の奥だなんて誰も気づきはしないだろう部屋だ。気に入らないことといえば階段が急なことくらいである。
部屋の鍵が空けばすぐに大抵はキスをせがんでくるので、プロシュートは扉を閉めるけれどもその首に回された手を邪険にすることはしない。空腹を抱え過ぎて相手を食べてしまうみたいなキスばかりだ、そこにさざめきもときめきもない。ぺちゃあと瑞々しく派手なリップノイズを立てて彼女は息を継ぐし、それからほの暗い部屋の中できらきらと唾液の糸を繋げたままプロシュートの手を彼女の服の縁へ持っていくのだ。3回に1回はこうなる。その他の日はキスをしながらスカートが落ちていたりすることなんでしょっちゅうだ。
「きょうは脱がせてほしいの」
手を掛けさせてそう言って彼女は立ち尽くす。馬鹿め、といいながらプロシュートはその体をゆっくり押しながらベッドの方向へ持ってゆき、ベッドの縁に座らせてから脱がせるようにしていた。白いボタンを1つずつ外して、下着の線をたどりながらスカートを脱がせる。ガーターはそのままにストッキングだけを脱がせて一緒に彼女の仕事道具も外してサイドテーブルに置いてしまう。刃物が床に落ちている中でベッドに上がり込むことだけはしたくないからこうしているのだ。一緒にプロシュートも自分の装備品や上着を脱いでしまうが、彼女は下着姿でそれを満足そうに眺めていた。
「先にシャワーでも浴びてくるんだな」
「一緒に入らないの?」
「知っての通りうちのバスルームは一人用だ」
知ってるわ、と勝手知ったる彼女はその場でキャミソールを脱ぎ捨ててバスルームへと消えてしまう。ついその脱ぎ捨てられたキャミソールや、脱がせたシャツを集めては椅子に掛けてしまうのはもはや癖だった。彼女が適当にシャワーを浴びて出てくるまでは数分だろうし、とここで初めてプロシュートはひと息ついてグラスを出すことができる。最近はサンペレグリノを注ぐ度にこの時のことを思い出すので良くない。いつもは不精をしてボトルのまま飲んでしまうのに、こういう時だけはいちいちグラスに移して飲んでしまうのだ。それは落ち着くための動作でもある。殺しの時以外は無駄な動作があっていい。それが冷静さを保てるからだ。
毛先が濡れたままの彼女がバスルームからタオルだけを纏って返ってくるのと入れ違いにプロシュートもその既に湯気の立ったバスルームに消える。その間マリエはプロシュートの用意していたサンペレグリノを飲むし、そのうちに面倒になってタオルも椅子に掛けてしまう。一糸纏わぬ彼女はアルコールを流すようにその水を摂取して彼を待つが、一度たりとも服を着ようとしたことはなかった。理由は簡単で、これからまた着てまた脱ぐのなんてめんどくさいから、と口にしたことがある。すこし毛先の水分が飛ぶ頃にプロシュートは同様の格好で戻ってくるが、彼は大概きちんと身支度はする方だった。手馴れていると言ってもいい。
「脱ぎたがりめ」
「日中は抑圧されているの」
「もっと脱いだほうが喜ぶ奴もいるんじゃあねえのか」
「露出趣味はないのよ」
嘘をつけ、と夏の痕跡の残るマリエの肩を指で辿る。私は休みが欲しいの、と夏にうるさく言っていたことを思い出して海に行っていたことをその体の影からプロシュートは知った。薄まってきていてもまだ水着の跡はわずかに残っているし、その白い面積は小さい。一体誰とバケーションを送っていたかはは知らないが。そのままもうほぼ白くなってしまったふくらみに指を伸ばせばマリエはベッドを恋しがるようにプロシュートの名前を呼んだ。
それからのことは予定調和に過ぎない。ベッドに入るまでというのは彼女の気分で導入がまちまちだけれども、ベッドに入ってからはずっと上にいることを望むからだ。要求も同じで、何が好きで何が嫌いかなんてそこまでまめでもないプロシュートだって2度目で覚えてしまった。なんたって自分の上で一晩底がないほどに歓び果てるので一晩でそんなこと覚えてしまわなければ相当に不感症だろう。誰だっていいのだろうし、彼女の気分とプロシュートと遭遇したときが合致した結果がこういうことなのだろうからあまり気にしないことにしていた。何度だって相手をしてやると言っても彼女は一度しか気をやらせないし、完全に遊ばれていると言っても過言ではない。もしかしたらリーダーともこうしているのかもしれないし、行きずりの男とこうしているのかもしれない。脱がせたらナイフの出てくる女を相手にできる男がどれくらいいるのかなんて知らないが。そんな他所事を考えている間にも彼女はまたプロシュートの名前を呼んでは背中を反らせ、白い喉をちらちらとみせるのだった。反射的に腰から手をその首に掛けて指に力を込めれば苦しそうな声に反して体はただひたすらに求めてくる。たまらずその中に感嘆をあげれば自分の手からも力が抜けたのか上のマリエはするりと手を抜けて自分の胸の上に上半身を寄せてくるのだった。
「痛い趣味は噛まれるのだけが好きよ」
「別に趣味じゃあねえ」
うっすら汗の滲むマリエの背中に手を伸ばせば、すこし抵抗を見せたがおとなしく受け入れていた。いつもならまだまだ終わらない時間だというのに今日はもう終わり、と言わんばかりに身を離そうとするので捕らえたかったのもあっての行動だった。すこし乱れた息がプロシュートの毛先を弄ぶ。いつも彼女はするりと隣に逃げてバスルームに少し篭ってはいつの間にか戻って眠っているのが常なのだが。
「今日は仕事があったの」
「知ってんぜ、クラブのネズミの件だな」
「昼にそのまま沈めたわ。まだ報告はしてないけど」
殺した日ってどうしてもしたくなっちゃうの、とマリエは再びゆっくり息を吐いて呼吸を整えようとした。歓喜に晒される度に彼女の背中はしっとりと汗をかく。何らかの興奮状態が続いていることは薄々勘付いていたが、薬物ではなく職務だったとは気が付かなかった。それならよっぽど仕事量が多いのかもしれない。街に溶け込みやすく昼間歩いていても何の違和感もないからだろうか、それか仕事の後の”一杯”を楽しみにしているのかもしれない。
「誰でもいいわけじゃないのよ」
「ハッ、笑わせる事を言うな」
「眠るまで満足させてくれた人なんて他にいないわ」
今日は帰るわ、とマリエは息をついて立ち上がろうとする。体液が流れ出るのも厭わずにプロシュートはその体をもう一度胸の中に揺り戻して話を続けさせようとした。かなわないわ、とマリエは呟いて相変わらず息を乱したままだったが、自分の肩に熱い雫が流れだしたことに気付いてもプロシュートはその涙を止める術を知らなかった。年も経験も、職歴もさして変わらないはずなのに少女を抱いている感覚がする。果たしてニンフォマニアの少女はニンフェットであるのだろうか、ハンバート・ハンバートではないプロシュートにはそれがわからない。ただわかっていることは、アジトのソファのうえのマリエもベッドの上のマリエも、別人のような気がしていたがどちらも中身は同じであったということである。
20151223 chloe,