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きらきらひかる


 親の習慣がこうして子供にまで遺伝するというのは不思議なものだ。そうマリエは隣で日本酒に口をつけている仗助の指先を見て思った。わたしの両親は、季節が変わる度にわたしを置いて二人きりでデートと称して寿司を食べに行っていた。その習慣は実家を出た今娘の自分に遺伝している。ちょっと背伸びしてみてえな、と仗助が言ってからマリエが提案して、何故か今までこの習慣が続いている。季節ごとにデートをする両親の話を仗助にしたことはないのに、彼はこの習慣が気に入ったのか約三ヶ月おきに夜のデートで寿司を提案する。
 彼も私も出身が北の港町であったから、いくらか魚にはうるさい気でいた。実際お互いに大学で上京したはいいけれど、スーパーで買った魚の切り身が美味しくないと実家にこぼしたこともある。あれからいくらかは慣れたけれど、マリエは未だに鮮度については信用しきれていない。それでか、なぜかはわからないけれど、仗助は普段のデートより少しだけ饒舌であることが多かった。もともと口数が少ない男というわけではないのだけれど。
 きっかけはなんだったっけ。仗助が置いたおちょこの底の渦を眺めながらマリエはふとこの行事の始まりに思いを馳せる。何度きたのかも忘れてしまったけれど、最初はもうすこし敷居の低いカジュアルなカウンターだった。あれは二十歳のころだったっけ。ああそうだ、はじめたばかりのアルバイトの初任給でちょっといいデートがしたいと言ってきたのだった。夏前のことだったかしら、鯵の握りが美味しかったっけ。あれは暖かい海の魚だからかもしれない。上の生姜の良さと、適温の寿司飯の上で鯵の脂が溶けて……それから、はじめて日本酒を飲んだような気がする。だからきっと記憶から行けばあれは二十歳の頃なのだ 。何故か隣にいる同級生のはずの仗助が大人びて見えて少し気後れした覚えがある。
「最近食が細えな」
「そうかな」
 渦につられて記憶の渦に絡められていて忘れていたとばかりにマリエは目の前の帆立に手を伸ばす。冬のものは冬に食べるのが一番美味しい。それでも単純に火を入れた、地元で食べたものも結構好きだったけれど、あれも随分と記憶の中で美化されているのかもしれない。そういえば冬に実家に全然帰った記憶がない。雪のない冬を随分と過ごしている。それは多分隣の仗助も同じだ。記憶の中のものは美化されると言ったけれど、そういえば仗助に関しては美化する記憶が殆ど無い。中高大学、それから社会人と、ずっと一緒だからかもしれないけれど。強いて言うなら仗助はいきなりゾッとするくらいきれいになったときがあったくらいか。高校に入って少ししたくらいで、彼は少年から青年になった気がする。その時はそばで見ていることしかしていなかったし、今よりも距離が遠かったから、会う度に少しだけたじろいでしまった。あれは思春期特有の何かだと思っていたけれど、彼がわたしについてそんなことを思ったことが有るだろうか。きっとないはずだ。仗助はいつもわたしにマリエは”いつも”かわいいね、というのだから。昔も今もいつも、と。
「やっぱり貝は美味しい」
「わかるなァ」
 彼の箸は透明に光る烏賊を摘んでいた。新鮮な烏賊なんて久々だ。仕事が忙しくなって、スーパーの鮮魚売り場について文句を言わなくなったことをふいに思い出す。言う暇などないのだ。冷凍してしまうそれについて別段感想なんて特にない。彼も忙しい、わたしも忙しい。仕方がない。週末に一緒に出かけて買い物をして、食事を作ることだけは社会人になって一緒に住むようになって楽しくなった出来事では有るけれど。
 学生の頃は泊まりこそ度々したけれど、物件すら同じ駅には借りなかった。なんだかまだ気恥ずかしくて、大学の帰りに待ち合わせるのすら場所をずらしていた時期もあった。片方の家から自分の家に帰るまでの時間は大概電話をしていた覚えがある。今そんなことをする暇はきっとない。それでも仗助は駅から家までの間にたまに電話を掛けてきてくれるっけ。だいたいそういう日っていうのはわたしも帰りが早かったりして、先に家についているか、一本後の電車で追いかけていたりするのだ。
マリエ最近忙しそうだよなあ」
「そうかな」
「帰り俺のほうが早いときのほうが多いじゃん」
「大概仗助も遅いじゃん」
「まあまあ」
 わたしの帰りが遅くとも、同居しているせいであまり不自由は感じていない。それどころか、仗助がおかずを作っているときに遭遇するのでわたしとしては嬉しいときもあるのだけれど。確かに余裕はないし、そのせいでこの間も八つ当たりのように仗助に物を言った覚えは有る。仗助が先に帰宅してお風呂に入っていて、わたしのとっておきの入浴剤を使っていたからだけれども。あれについてはもう和解をしたし、あそこまで苛立つこともなかったとは思う。
「まあでも仕事が楽しいしそれの結果こんな美味しいご飯が食べられるから良いじゃない」
マリエに余裕がなくなると、俺がだいたい困るんだけどなあ」
「わたしが八つ当たりした分だけ当たってきてもいいよ」
 きれいに幅も揃って切られた烏賊にマリエも箸を伸ばす。そういえば、最近仗助はあまりお酒を飲まないことを思い出した。彼の酒のあては大概烏賊の塩辛であったし、最近家の冷蔵庫にはそれもない。ビールもないけれど。
「そんなこと言ってると、累計分使い切る前に俺が寿命で死んじゃいそうだなァ」
「だめ。使い切ってからにして」
 累計分、という単語に少し胸が痛む。いままでも随分長いこと一緒にいたものだ。付き合って何年だったっけ、そもそも知り合ってからが長すぎる。すっかりわたしの杜王町と東京の風景には仗助がいなかったためしがない。働く会社が違うことではじめて所属が別れたのだから。
「じゃあ使い切ってもいいって約束してくれよ」
「いいって言ってるじゃない。それはこないだも言ったしさっきも言った」
「俺忘れっぽいからなあ」
 紙にでも書かないと忘れちゃうかも。そう言って仗助は昔より少し落ち着いたけれど未だに印象的な頭をかく。忘れっぽいのなんて小さいときから知っている。そのせいでわたしは小さい頃からじょうすけ!と言って怒ったことがたくさんあるのだから。その積み重ねがあるからこそ、彼が死んでしまうまでに返しきれないというのもわかるのだけど。
「忘れないうちに書いておこう」
 そう言って、彼はスーツのポケットから紙を取り出す。薄紙で、茶色の罫が引かれている彼の言うところのメモ。
「約束したってここに書いてくれよ」
 マリエの名前をさ。知っている。その意味合いくらい、もうこの年齢になったら嫌というほど理解している。友人のためにその右に名前を書いたことだって有る。
「だめかな」
「まさか」
 わたしが嫌って言うとでも思った?そうマリエは返して、あまりに可愛げがないことに少し笑ってしまったけれど、本心はひどく嬉しくて、なおかつ隣の相手には照れ隠しであることが伝わっているという実感すらあった。ポケットを探ってもボールペンがないので、隣のいつになく真剣な目をした仗助に視線だけで筆記用具の有無を尋ねれば、彼もやっぱり筆記用具を持たずに来ていて――それはそうだ、彼はほとんど手ぶらでデートにくる――詰めの甘さにお互い笑ってしまった。きらきら光る烏賊で、醤油をインクに書くくらいやっても良いかもしれないけれど、そんなもの帰ってからでいい。堂々としている、紙の上の東方仗助の字がひどく愛おしくて、少し恥ずかしそうに紙をたたみ直す仗助の手をマリエは止めて、代わりにたたみ直して自分の鞄にしまう。
「家で書いてから返すわ」
「返さなくていいよ」
「それもそっか」
 この約束を公的にするときも、別に一緒に行けばいいのだった。それにしても、イルミネーションのきらきら光るこんな日に、わざわざこんな形で人生が動くなんて思ってもいなかった。こういうところの意表を突くところだけは一生勝てっこないなと思いながら、マリエはせわしなくおちょこを口に運ぶ仗助の指先を再び眺めていた。
 あの指はわたしの機嫌を直す指だ。それは小さい頃からそうで、多分これからもそうなのだろう。わたしはそれになにが出来るのか自分ではまだわかっていない。彼の中ではきっとあるのだろうけれど、あの紙に名前を書くまでにもう少しだけそれを自覚していたい、とだけ思った。仗助に何が出来るかなんて、わたしは今まで一度も考えたことがなかった。何かをしてもらうことのほうがよっぽど多くて、でもそれはきっとこれからも変わらないのではないかと思う。


20161225 chloe, as a valentine request 2016 "仗助くんで"