blue lemon

 目の前の女は一体何のつもりでこんな買い物をしているのだろう、と岸辺露伴はふと考える。地下のスーパーでどんどん先をゆく彼女に半ば強制的にカートを引かされて、彼女が手にもつものをどんどんそのカゴに受け止めて早10分は経った。彼女はたまにうーん、だとか、あれってまだあったっけなあ、だとか、回答を求めていないふんわりとした言葉を口にする。ここ数年、彼女のそういう具体性に欠ける疑問にはだいたいの答えがいらないことなんて岸辺露伴は百も承知だったから、彼は彼でスーパーに並ぶものの形だとか、それから風景だとかばかりに目を落としていた。
 何せ岸辺露伴が一人でスーパーにぼんやりと買物に来ることなんて、ほとんど最近はないのだ。せいぜい日曜の朝に甘ったれた声に応えてたまごだとか牛乳だとか、そんな簡素な目的を持った「お使い」レベルの買い物くらいで、何にしようかだとか何が食べたいだとか、予算がどうだとか彩りがどうだなんて、もう数年考えてなどいない。
 家を出たばかりの頃は、調理する暇も惜しんで原稿を描いていた。あの頃はよっぽど作業効率も悪かったし、体の無理も随分ときいた。今は流石に生活に対して幾らかの楽しみも持っているし、十分仕事以外にかける時間を捻出するだけの効率性も技術も身につけている。それにもうそろそろそこまで無理はきかないだろうと思うだけの出来事も、年下の友人が出来て以来思うこともないわけではない。例えばこの間は海岸で熱中症になりかけた。年下の友人のかつて落ちかけた岩場の近くでスケッチをしていただけなのに。近くの砂浜で犬と戯れていた彼の友人は全くそんな片鱗もなかった。先生はいつも引きこもってるからですよ、だなんて真っ当な指摘も受けたけれど、露伴としてはそれに異論がないわけがないのだが。
「これでおわり」
 マリエはそう言って、ようやくやっと振り返って露伴の横に立つ。さ、かえろ。軽やかにあまりものの入らなかった、ただその割には重そうなカートを彼女は露伴の手に自分の手を重ねて押す。
「これで終わりィ?何をするんだよ、一体」
 カートの中身をきちんと見れば、中にはいくらかまるのままの柑橘類と、それから砂糖、炭酸水、それからクラッカーとぶどうが入っていて、まるで夕飯にも何にもあたりそうにない。朝にすらあたりそうにないと思いながら岸辺露伴はその中身を指摘した。僕はいくら寝ぼけていてもオレンジとレモンを間違えはしないぞ。
「やだな、今日はレモネード作りたいからこれで、いいの」
 露伴の家って砂糖ないんだもん、煮物の時いっつも困るわ。そう言って彼女は露伴が砂糖を指差しているのを収めてレジの方向に舵を切る。今日のお昼はもう下ごしらえ済んでるからね、だなんて悠長なコメントすら飛んできて、露伴の指摘の真意もむこうには透けていたことがわかる。そうだ、空腹なんだ。なんてったって遅く起きたにもかかわらず、それからすぐに彼女に連れられてこうも人がまばらな土曜午前のスーパーになんて連れてこられたのだから。
「なんか夏だなあと思うと、レモネード飲みたくなっちゃうんだよね」
 やってることは簡単なんだけど、何か好きなのよね。レモン水ともちょっと違うの。そう言って彼女は人もまばらなレジの前で会計を待つ。レモネードなんて、いつ飲んだっけな。ドゥマゴでそんなメニューがあったことは覚えていたけれど、大概露伴は珈琲を頼むし、そうでなければ紅茶を頼んでいた。一緒にドゥマゴに行った覚えはない。彼女がプライベートで通って飲んでいると聞いた覚えもないが。そもそも、彼女が常に人の多いあの喫茶店にいる姿も想像できない。
「シロップ作っておいておくから、いない間勝手に飲んでいいよ」
「別に僕はそんな、夏だからといってレモネードが飲みたいだなんて渇望はないんだが」
「いいのいいの、余ってたらそれはそれで、来週末の私が嬉しいし」
 マリエは週末にしかやってこない。以前は平日もひょっこり顔をだしてきていたのに、最近はめっきり土曜か日曜かどちらかだけで、露伴が呼んでも返事はふんわりしていて日付は定まらない。今日は昨日からそのまま家に留めていたから長いほうだ。
 数カ月前、春先のことだったか、土曜の朝から呼んだらその日は忙しいからだめだなんて言ってにべもなくマリエは露伴の誘いを断った。その日の午前からぽっかり空いた形になった露伴はその日にすこしだけ行動範囲外の喫茶店に遅めのモーニングを取りに行ったけれど、その純喫茶としか言えない喫茶店でマリエと遭遇することになったりなどもした。彼女の言うところの「忙しい」の定義は多様性に富みすぎていて、本当に仕事が忙しくて家にいない時もある−−勤め人でない露伴ですら、平日にこの理由で来れないことぐらい理解はしている−−し、土曜日の午前は病院に行くから、だとか行政手続があるから、だとかが含まれる時もあった。ちなみにこのときの彼女の言う忙しいは『あんまり会いすぎてしまうと好きになりすぎちゃうし、本を読まないといけないのに忙しかったから』という意味だったことをその作業を中断させて聞き出したのだった。
 そんなことがあったからこそ、露伴はただただ「来週末の私が嬉しい」だなんて言葉に少しだけ驚きを感じていた。会計後に彼女からカゴを取り上げてごろごろとした買い物の中身を袋に詰めながら、隣に立つマリエが少しばかりいつもよりずっと機嫌がいいことも露伴には不思議で、しかし不快ではない、むしろ快い事柄の一つとして放っておくことにしておいた。
「半分こしてもつ?」
「いい、そんなことしたらコケるだろ」
 そうかな?でもまあ甘えちゃおうかな、だなんて言ってマリエは伸ばしかけた手をひっこめて露伴の少し空いた隣に連れ立って歩くのだった。
 彼女は手を繋がない。それについて、思うことがないわけではない。しかしながらむこうが繋ごうとしないものを強制的に--それこそ書き込んででも--させることについて抵抗も感じれば、それが正しいとも思えなかった。かつての露伴なら、後で消せばいいとばかりに書き込んで楽しんで、その後消して何でもない風を装っただろう。しかしそれをすることはなんとなく後ろめたいと思っていた。彼女の言う半分こしてもつ、は恐らく彼女なりの譲歩だったのだろうと露伴はスーパーのガラス戸をくぐって暑い空気に晒されながらふと横を見て思った。相変わらず彼女は白い手をふらふらと不定に空気の中に晒している。あの手は露伴のインクの染みた手を持つことはないだろう。なんとなく癪なのに、強制させるのも癪だった。
「多分持つと思うんだけど、濁ってきたら捨てていいから」
マリエが作るんだろ、製造者責任で見た時に考えて捨てろよ」
「ええ……でも、せっかく露伴の家の冷蔵庫、綺麗だから……」
「それなら君がこまめに確認しに来たら良いだろ。僕は捨てないからな」
 違う、そんなことが言いたいんじゃなかった。何故かわからないけれど、よく露伴は思ってもないこと、いや、若干は思っているかもしれない…詰まるところ、どこか真意とはずれた言葉を彼女に投げかけてしまうことがあった。その度に自分に対して苛立ちが募るのだけれども、それと同時にマリエが困った顔をすることもそれを加速する要素の一つだった。かといって、それがずれていることを言語化して伝えることも少しばかり違う気がする。その度に苛立ちが募って結局黙りこむのがいつもの結末だった。今日もまたこんなに早い時間からそれが起きている。その度に彼女は困った顔をして、それから話題をがぐっと少なくなる。それについて後ろめたいことがないわけでもないし、きっとこれは昼か、それか昼寝くらいまでは続いてしまうのだろう。その度に露伴は、週末だから仕事なんてないのに仕事をするふりをして机に向かうのだ。マリエはその間、大抵はソファの上で体育座りをして本を読んでいたり、映画を見ている。帰ってほしくないんだ、と一度言ってからそういう風になった。それまでは、彼女は沈黙の中で押し黙った挙句に今日は帰るね、と言って帰ってしまったからだ。
 それについては露伴が悪いこと自体よくわかっている。上手く噛み合わないまま、数年こうして過ごしていることも悪いとは思っている。しかし何も改善されないままこうして付き合ってくれることに甘えていることも。
「この間、梶井基次郎を読みなおしたの」
「檸檬か」
「そう、それもあって飲みたくなったんだけど、読んだ時に露伴を思い出したから」
「五重塔ならわからんでもないんだがな」
 わけがわからない。そう言うことは避けた。口を突きかけて、噤むことを最近になって露伴は覚えた。彼なりの気遣いであり、社会性の萌芽とも言える。
「露伴はなんでも言えるようでいて言えないから、爆発するポイントが欲しいのかもしれないと思ったの。丸善に檸檬を置くように」
 つまりはこの軽さなんだなあ。そう言ってマリエは露伴の指先に触れる。しかし、握りはしない。それが彼女の歩み寄る限界なのかもしれないと思って触れ合っている指先から彼女の顔に視線を移せば、相変わらずどこか不安そうな顔でマリエは露伴を見上げていた。
「手を取ったら爆発するかもしれないな」
「いいよ、それでも」
 怖くないかどうか、確認もなしに露伴はマリエの触れてきた指を絡める。顔を見たままだったから、マリエが一瞬息を飲むのだって目に映っている。怖がられるのが怖いのに、何に怖がっているのかわからないのがもどかしい。それを解決する術なんて直球のものなら知っているけれど、他のやり方なんてすっかり身につけずにここまで来てしまった。帰ろ、と彼女の唇が音を立てるまで露伴だって歩きだせずにいて、逆側の手の檸檬と炭酸水の重さが指に食い込むことと、嫌に上がってゆく気温と、それからうるさいセミの鳴き声以外の感覚を何も考えられずに自分のとは全く違うつくりの指を絡めていた。ただわかることはその、自分のとは全く違う質感とつくりの指は冷たくて、すこし露伴が力を込めればそれに応えるように力が返ってくることだけで、その先に考えていることはもしかしたら自分と全く同じ事柄かも知れないという根拠の無い予想だけがその接点から染みてくるのだった。爆発するにはまだ早い。その前に幾らか熟成させるプロセスが必要だ。それにはまだ会話と接点が随分と足りないことだけがしみじみと伝わってきて、露伴はやっと家路のほうを向き直す。指は繋いだまま、手のひらがくっつくにはまだ気温が随分と高すぎる。
20160717 chloe,