ふわふわ

 伸びを一回、それから爪先を上げて、指の関節が白くなるくらい伸びてその指を離して呼吸を一回。腕を元に戻してマリエは外に出る。胸いっぱいにこの都市とは思えない冷たい空気が広がって、覚悟はしていたのにそのドアノブに伸ばした手は躊躇いが生まれていた。手袋が、ないのである。去年は皮の手袋をしていたのは覚えているけれどどう探しても黒いそれは見つからなくて、仕方なしにこうしてニュースが記録的最低気温!と騒ぐ街に繰り出そうとしているのだ。どうせ朝から仕事なんてないんだし朝から出かけなくても良いじゃないかとマリエは思うのだけれども、早く出勤して給与をどうにかこうにかしてもぎ取らなければ手袋だって買えやしない。それに隙間風のはいるこのアパルタメントなんかにいるよりずっとまだあの狭っ苦しいアジトにいたほうが暖かいはずだ。なんたってあそこはセントラルヒーティングが付いているし、いっつも誰かしらがお湯を沸かすせいでどこかしら暖かいし。覚悟を決めて鍵を回して――もうこの時点で鍵が冷えきっていて最悪だ!絶対にバールでチョコラータを飲んでから行くことにした――ドアノブをつかめば、想像よりずっと冷たかったそれはマリエの肌を鳥肌立たせるのに十分だった。

 チョコラータを一杯のんで、カンノーリを手に持って、その紙袋で片手を外気から隠しながらマリエは再び覚悟を決めてアジトのドアノブを回す。ボンジョールノ、妙なアクセントをつけてドアを開けばアルコールの匂いがしてなんだ昨晩は酒盛りをしていたのか、とマリエはちょっと残念な気持ちになりながらそのドアの隙間に体を滑り込ませた。マリエの同僚に酒癖の悪くない人間なんていない。上司でさえべろべろに酔っ払ってベッドに沈没しているのが常だ。まるでカレッジボーイのような彼らのその飲み方にマリエは大概3回に1度出ればいい方だし、さっさと途中で理由をつけて帰るほうが多かった。
「うわきったない」
 入り口はまだいい。まだ理性が残っているくらいにまとめたピッツァの包みだとか、ビールの空き瓶だとかが比較的おとなしく並んでいるので。その先をどんどん進んでメインリビングルームに足を踏み入れたマリエは堪らずに感想を漏らす。一体何があったというのか、と言うくらい荒れた部屋。床に数人、長ソファに2人、一人がけに2人、それからオットマンに1人。珍しく全員揃っていることすらおかしくて、マリエは踏みかけたピンクの下着を拾って持ち主の頭に投げる。こんなの履くのなんてメローネくらいだろう、現にほとんど何も着ずに床に転がっているのだから。下着よりアイマスクが大事な理由は、よくわからない。机の上にカンノーリの袋を置いて、散らかった皿だとかを掴んで流しに積み上げ、それからこぼれないように飲みかけのビール瓶も流しにおく。ワインは適当なコルクを口に差し込んでキッチンに並べておくことにした。どうにもこうにもどこに保存すべきだとかいう美形の男のうんちくなんて右から左に聞き流しているせいでろくすっぽ覚えていないから仕方がない。確かに寒いけれどこのアルコール臭い空気よりかはマシだ、と窓を開ければやっぱり鍵は冷たくて、merda!とつい言ってしまったけれどそれもこの空間のせいだ、とマリエは寒さも自分の口の悪さも全部同僚に押し付けてしまう。
 これじゃあ早く来たって意味が無いじゃないか。もしかして片付けをすることを期待でもしていたのかしら?と長ソファで眠る上司を見れば不安になるあの目は伏せられて相も変わらず綺麗にソファに埋まって眠っていたのだから腹が立つ。ゴミの真ん中でマリエはカンノーリの袋を開けて、ぱりぱりした皮が落ちるのも躊躇わずにそれを頬張った。絶対に起きたところで誰にもやさしくしてやるもんか。このパンくずだって私は絶対に片付けないぞ!というのがマリエの主張である。それにしても、男の生尻を見ながら朝食なんて最低の体験だけれども。ティファニーで朝食を、と言うくらいにロマンスを欲しているわけではないけれど、もう少し清涼感は欲しかったかな。身じろぐその生尻を見て最悪だ、とばかりにマリエはカンノーリを口の中に押し込んで、冷蔵庫に走って牛乳をグラスに注いだ。
「さっむ」
 あーなんだこれ、俺のパンツか。そういや脱いだっけなァ。ばたんと音を立てて冷蔵庫を閉めたところでそんな声がしてさっきの白い丸い生尻の持ち主が起きたことをマリエは悟る。口の中の水分をどんどん奪って甘さで置き換えてゆくカンノーリを流し込んで振り返れば、下着を履きかけたメローネと目が合って、彼はチャオ、だなんて気軽さでその動作を続行する。
マリエ、早いね」
「給料日だからね、それよりさっさとそれ履いてくれない?」
 おっと失礼。メローネはパン!と小気味いいゴムの音を立ててそれを上げて伸びをした。手の中の牛乳をもう一口飲んで、マリエは流しにそれを起きかけて、それでもついに同僚が起きたことにちょっと罪悪感を得てそれをすすごうと蛇口をひねる。まさかとは思うけどこれに指を浸す気にはなれない。水道が凍ってない分マシだ、と思うのはマリエが北の出身だからかもしれない。
「さっみーからその窓しめてよォ」
「やだよ酒臭いもんこの部屋」
「俺はさみィの」
 服を着て!マリエは冷たい蛇口から流れる水を避けながらグラスをすすぐ。すこし跳ねる水滴が十分に冷たくてひやひやする、と思いながらもついでに積んだ皿やらフォークに水をかける。くっついたチーズやらソースの残りが抵抗を続けているのを見ながらメローネの足音を聞いていた。職業病かもしれない。こちらに近づいているのがわかる。そういえばあの服ってどうやって脱ぎ着するのだろう、と思って振り返ればバァ、というばかみたいにあかるい声と共に自分の真後ろにその人が立っていて、マリエは声を上げてそのグラスを手からシンクに落とした。
「うわ、そんなに驚くことかよ」
「びっくりするでしょ誰でも」
 じゃあじゃあと流れたままの水道が指に触れていてしまった、とマリエは後悔した。グラスは割れていないけれどすっかり自分の左手は濡れてしまっていて冷たくて痛い。メローネのばか、と感想を漏らしながら蛇口を締めれば馬鹿はないだろ真後ろの男はマリエのコートに手を這わせる。
「ちょっと、動けないんだけど」
「さみいんだよ、服見つからないし」
「ええじゃあ今何も着てないの?パンツだけ?」
「そう」
 セクシーだろ?とあろうことかメローネはマリエの耳もとを噛んでそう囁く。なんだこの状況は、とマリエは濡れた手を彼の太腿があるだろう位置に伸ばせば、それと同時に耳元でつめって!と大声が鳴ったので本当に後悔の念を募らせるしかなかった。
「もうマリエの意地悪」
「離れてよお、私はこのままさっさとリーダーを起こしてお金貰って手袋買いに行くの」
「手袋ォ?」
 去年皮のしてなかったっけ、手首にふわふわのリスだかなんだかのファーが付いたやつ、とメローネは私のコートの上から私の体をまさぐった。ふわふわ、に合わせて体を掴むのだから気に入らない。
「そう。探したけど見つからないの、気に入ってたのに」
「そりゃだって俺が持ってるもんなそれ」
「ハァ?」
 去年のミモザの日!とメローネは付け加えて私のコートの一番下のボタンを外して内側に侵入してきた。コートで守られていたはずの内側につめたい空気と手が触れてひゃんと再びマリエは声をあげる。
「去年マリエに花束やっただろ、ありゃ仕事で隠れるために買っただけだったんだけど、喜んで俺の部屋まで付いて来たじゃん」
「ああ…そんなことあったっけ」
「ひでぇな、俺は結構マリエとやるのはやぶさかじゃなかったぜ」
 あれ以来一回もしてないけどさあ、とメローネの手は私のスカートの上を覆う。お腹が冷えるからやめて欲しいと思いつつ、そう言われると去年のことを思い出してすこしばかり血が回るのは仕方がないことかもしれない。あれは仕事の帰りだったっけ、久々に花束なんて貰って嬉しかったのだ。
「翌朝めちゃくちゃ暑くていろいろ俺の部屋において行ったろ」
「そうだっけ」
「あとファーマフラーも部屋にある」
「うそ!あれお気に入りなのに!」
 それも勿論探していた。だけど今日の格好には合わないし、と諦めていたのだ。そもそもあれは目立ちすぎて仕事にはあまり向いていないというのもある。俺の部屋にあるからもうないかもしれないけどね、と耳元のメローネは笑うけれど、マリエはそれがからかいであることを十分に知っていた。彼の部屋は記憶では自分のそれよりずっと綺麗で、アジトでの汚さと真逆だという印象をはじめに覚えたことを思い出していたからだ。
「だからリーダーなんてまだまだ起こさなくていいし、仕事に行くより俺の部屋においでよ」
「やだなあ、そういうのは服着てから言って」
「どうせみんな寝てんだからいいだろ」
 それにマリエだって本当は俺のこと好きだろ?とメローネはスカートの裾に手を掛ける。ここじゃダメ、と小さく返した自分の声に思わず色が乗っていたことに気がついて、マリエは少しだけ赤面しながらメローネを振りほどこうとした。ダメ、メローネ、ダメってば。
「花束買ってくれないと部屋には行かないわ」
「じゃあ買ってやるよ、何が良い」
「ミモザ以外」
 じゃあ買いに行ってやるからコートを貸してくれ。そう言ってメローネはマリエのコートのボタンを下から外していく。寒いし服をきちんと着て!と言ってもその手は止まらなくて、それでも同業者なのだからそれに抵抗するだけ無駄なのもわかりきっていた。されるがままに一番上のボタンまで外されて、それから一瞬ニットの隙間から肌を触られて声を上げながらもマリエはそのコートを脱がされる。腕の間からやっと逃れてマリエはメローネを振り返れば、メローネは勝ち誇ったように髪をかきあげて笑っていて、それからマリエのコートを羽織ってマリエの体温がするだの気持ちの悪い事を言っていた。きゅうに身を包む寒気に耐えかねてソファの近くの誰かの上着を勝手に拝借しようと近づけば、ソファの上で黒い目が2組マリエを見上げていたので、メローネなんて大嫌い!とマリエは叫んでその静観者たちのブランケットを取り上げて肩に巻いた。
 メローネは相変わらずご機嫌で、状況を知ってか知らずかコートのボタンを全部閉めて、それでも俺は好きだぜ、だなんてきざな言葉を吐いて出てゆく。俺もきらいじゃないぜ、と黒目の片方はそれに続いて、ああ、だなんてもう片方も続くのだから最低だ。このあとお給料を貰ったら、絶対にメローネに全部新しいマフラーも、手袋も全部ぜーんぶ買わせて部屋にしけこもう。それくらいしないとやってられない、とばかりにマリエはテーブルの上に座って、その場に置きっぱなしの同僚の煙草を一本拝借した。
20160131 chloe,