新参者へ告ぐ

露伴と喧嘩をする時というのは大概子どもじみた感情だったり、意地の張り合いで結果としてそういうことになってしまう。どう考えてもそんな幼い意地の張り合いをするのもばからしいと思っていつも自分が家から出かけて、大概カメユーに行って夕飯のおつかいをして帰って和解をするか、本屋で本を一冊買ってどこかで読んでから帰ることにしているのだが、なんとなく今日はそんな気にもなれずにぼんやりとマリエはバスに揺られていた。なんでもいいからと後先考えずに目の前に止まったバスに乗ったものの、行き先はターミナル駅行きで、とりあえず終点があるものだから降りてから次のことを考えれば良いとたかをくくっていた。何で自分はこんなところまで岸辺露伴を追いかけてきてしまったのだろうなあ。縁もゆかりもない土地で、あの芸術家だけを頼りに移住するなんて考えが足りなかったのかもしれない。そもそも私ばかりが気を使ってるんじゃあないか、なんて思い始めたらもう終わりだ。そう思えども車窓の中の馴染みのない風景にはそう思わざるを得ない心もとなさがあった。マリエはこの土地の全ての季節も、全ての表情もまだ知らないのだ。

「もうマリエもそろそろ通ってくるのも面倒くさいだろ、こっちに引っ越せよ」
岸辺露伴のいわゆるプロポーズというものはその一言だった。書き起こせばあっさりしていて、岸辺露伴らしい自分勝手さに満ちた発言であるのに、実際はこちらの目も見れずにところどころ噛みながら言ったのでまだ恋人であった時分のマリエはなんて露伴らしい口説き文句だろう!と舞い上がってそれを承諾したのだった。その緊張の仕方から彼のいうところの取材か何かではなさそうなことだけにマリエは感動していたのだと思う。実際に露伴が東京から杜王町に居を移してから互いに行き来する中で、お互いに負担は感じていたし、世間一般的にも”丁度良い”頃合いであったことには間違いない。それからいくらか過ぎてから、マリエは杜王町に移り住み、仕事を再び得た。岸辺露伴は居を移ることもなく、仕事について何も変わることはなく、生活様式すら変わることはなかった。ただ、彼にとっては、生活に関する家事が半分に減ったことくらいが変化だろう。

あの電車に乗れば家に帰れるのになあ、とターミナル駅についたマリエはぼんやり思いながら、その発着を眺めていた。一時期は回数券だって持っていたのだ。東京から数週間おきに、同じ時刻に動くあれに揺られてこの駅で降りて、改札を出たら大概探さなくともあの個性的な服装が目に入って……つまり露伴が待っていた。その後はいろいろパターンはあったけれど、だいたいそのまま彼の車に揺られてどこかに出かけていた。半分彼の取材を兼ねていたその旅行で、杜王町についてはそこまで知らずとも、S市については海も、山も、既に何度も行って知っていたはずだった。それできっと自分はここに移り住めると思ったのだ。それは楽しい日々だった。露伴の家にも何日も滞在していたし、彼の味だとか、仕上がりの趣味傾向についても自分とあまり大きな差がないと思って安心していたのも失敗だったのかもしれないと今は思っている。露伴の横着さとか、それから妙なこだわりだとか潔癖さについてなんて東京にいた時から知っていたから何も支障はないと思っていた自分は甘かったのかもしれない。尤も、いわゆる同棲なんてするのが普通の風潮でもなかったし、そんなことができるような生活様式ではなかったので仕方がないことだが。せめて自分が忙しかったり、余裕がない時に一緒に生活していけるかどうかぐらいはもう少し考えるべきだった。

「普通もうちょっとコーヒーの味の違いだとかを気にするもんなんじゃあないのかな」
今日のきっかけは露伴のこの一言だった。イタリアに取材に行って以来、彼は家でエスプレッソを淹れられるように設備投資をして、それのマニュアルだとか、マシンの癖だとかをマリエにも見せたり聞かせたりしていた。実際に露伴が自分で自分のためにいれることもあったし、朝なり夜なりにお互いのためにいれることもあった。ただ今日は筆の乗っていた露伴が横着をして、帰宅したばかりのマリエにそれを淹れることを頼み、彼ほど熟知しているわけでも、本場の味を知っているわけでもないマリエが、彼の言うところの『冗長な』カフェラテをいれたものだからつい言ったのだろう。それから彼はほかのこだわりについても述べ始めたものだからマリエはたまらず言い返したし、一段落してから今に至るように家を出ている。
「露伴のほうが上手いんだから、露伴がいれたらいいでしょう」
「きちんと君に教えただろ。もう少し練習なりしておくべきなんじゃあないのか」
「じゃあ練習だと思って飲んでほしいわ」
「ふうん、それにしても、まだ僕がはじめて淹れた時のほうが上手かった気がするなァ」
なんでも私はエスプレッソを淹れるのもうすくて、それからミルクを泡立てるのも下手なんだそうだ。確かに隣で見ていたときの露伴の手際の良さと自分の動作は違うように思えた。でも、なんて言っても彼より下手なんだからしょうがないし、それは事実に違いないと思ってその場でそれ以上の文句を飲み込んで、でも全てのタイミングの悪さだとかを飲み込めずにそのまま外に帰ってしまったのだった。

今日の夕飯は諦めてもらおう、と20時を回った時計をみてマリエは思う。駅についてからというもの、ふらふら歩いても土地勘がないせいでいつまでたっても駅ビルのなかで腰を落ち着けさせられないでいたのだった。そろそろお腹も空いているし、私はここで何か食べてしまおう。いつも大抵1時間以内に家に帰っているのに、今日はとっくにそれ以上の時間が経っている。露伴は筆も乗っていたし、きっと何も心配せずに作業に没頭しているだろう。いや、そろそろ終わった頃かもしれないが、きっと空腹を何か有り物か昼の残りで済ませているのではないだろうか。マリエが飲み会なり、残業なりで遅くなると告げている日は大抵そんなもので済ませているのをマリエは十分に知っていた。
いかにも土地の名産を扱ったレストランを尻目に、いささかデート向きじみたレストランを選んでマリエは入っていた。単に他が並んでいただけでそうしたのだが、なんとなく足が覚えていたというのが正しいところかもしれない。昔通ってきていた時に数度ランチを取ったことがあったのだ。なんだかんだ新規開拓できずに過去を思い出している自分がおかしくてどうしようもなく、笑みを抑えられないままマリエは一人なんですけど、とウェイターに告げる。露伴はこういう時にさっさと指をふたつ立てて、二人、窓際で、なんて横暴な注文をしたっけ。なんとなく昔の、外で注文をするときの不機嫌な露伴の表情を思い出すと、今日のはまだ怒ってなんていなくて、わたしの下手さを面白がっていたに違いなかったんだと確信した。せめて笑顔で帰ろう。明日は普通にやってくるから実家に帰るなんて選択は取れないと思っていたけど、学生時代みたいに飲み明かすなり、漫画喫茶で夜を明かすのもわるくないと思っていたからだ。メインディッシュを頼むと、グラスワインも勧められたものだからいいわね、だなんて言ってそれも頼んでしまった。そういえば露伴とこうして飲んだことはなかった。

「どこの停留所で降りるかも知らないくせに、どうやって帰るつもりだ?」
「そこにいると、なんだか懐かしいわね」
人もまばらになってきた時間になって外にでると、個性的な衣服のその人が懐かしい改札のそばにいた。家を出る前にみた格好のままで、顔には待ち疲れたとはっきり書いてあった。いくら待たせたかは知らないが、そういえば電車が遅れるたびにわずかであっても彼はこういう顔をしていたっけ。
「帰るぞ」
「うん」
踵を返す露伴に追いつくようにマリエは歩みを早める。ちょっと怒ってるかもしれないなあと思いながらその手を取れば、解きはしないからそこまで怒ってはいないらしい。ごめんね、とマリエが言えば珍しく嫌味も言わずに僕も怒らせるつもりはなかった、だなんて言い訳じみたことを返してきた。
「酒臭いな」
「勧められたから飲んじゃった。軽くて美味しかったよ、ひらめと良く合っていて」
「ここらへんだったら、もっといい物を出すところがあるっていうのに」
「でも私ここらへんのことなあんにもしらないんだもおん」
そのマリエの言葉に露伴は足を止める。しまった、こんな時に失言なんてと軽く言葉を紡いだ自分を責めるようにマリエは取っていた手を離す。
「……僕は君に、こっちに来て欲しかったが、強制したわけじゃあないからな」
こっちだ、いつもの所に駐めてる、そう言う露伴の声にマリエはついていくことしか出来なかった。笑顔で帰ろうと、今日のことは忘れたように振る舞おうと思っていたのに完全に失敗だった。駅からすぐの駐車場に下っていく露伴のすぐあとをついて行く中で、空虚な沈黙も一緒についてきてしまった。そうね、だななんて言えないし、かといってずっと抱えていた寂しさだとかを今話してしまうのも確実に空気をもっと悪いことにするのは明白だった。
無言で車のキーを開け、乗り込む露伴に遅れないようにマリエも助手席に乗り込み、エンジンをかける露伴に合わせるようにシートベルトをした。この車に乗るのも久しぶりだ。それこそ引っ越してきた頃の買い物なんかはこうして一緒に行ったし、それ以来あまり一緒に出かけることはなかったように思う。幸い買い物先も近いし、それぞれが用事のついでに買い物を済ませるし、露伴は最近あまり遠くに取材に行かず、庭でデッサンをしていることが多かった。
「今週末は取材に行くから開けておけよ」
「あ、うん」
「知らない街中を描く必要があるんだ。マリエが杜王町を知らないなら付き合ってもらったほうが、リアクションがリアルだからな」
それはきっと照れ隠しだったのだと思う。露伴はそのまま車を発進させながらいかにそのリアリティが重要なのかを滔々と語りだした。流れる車窓の街並みは、行きに眺めていたそれよりずっと心安く見えて、彼の言うところのリアリティに貢献できるかどうかはわからないけれど、知らない彼の街をやっと知れるということ、それから察されてしまった寂しさに対する彼なりの優しさにありがとう、と口にすれば再び露伴は口を閉ざした。その今までの彼の創作論に変わって彼のものらしい腹の音がかわりにマリエに返事をしたので、マリエはせめて家に帰ったら何か彼が好きだと言っていて、なおかついままでけちのつけていないものでも作ろうと、彼との10ヶ月を思い返していた。
20150714 chloe,