miss o!
オレンジジュースのきつかったはずの炭酸はいつのまにかぬけて、ガラスボトルの中できらきらしながらその中身を最初よりもずっと生ぬるくしていた。飲む気が起きないけれど、話に夢中のマスターに声をかけて他のものをもらう気にもなれないと思って
マリエはストローに口をつけてそれを吸う。かすかに残った炭酸が舌をピリピリと震わせたけれども、ちっとも清涼感も涼しげな気持ちもないなとそれをテーブルの端に避けて、丸く残った水跡を避けて
マリエは読みさしのペーパーバックを置いた。
耳慣れないアクセントの言葉が耳に刺さって気持ちが悪い。もしあのまま計画が実行にうつっていたら、わたしはこの中で一生を終えるところだったのかもしれないし、永遠に慣れない発音の土地を転々とする日々が待っていたのかもしれない。不安が耳から入り込んで背中を震わせるのでそれが一生続かなくてよかった、と思えたけれども喪失感の前では何もかも太刀打ちできなくて、耳慣れない発音も、慣れ親しんだ炭酸も全て物悲しくさせるきっかけにしかならないのだった。あの人は、この普通のタイプじゃなくて赤いオレンジの方が好きだったっけ。あの人の発音は、最初うまく聞き取れなかったのにカラカラしていて耳に残ったせいでこんな目に遭うようになってしまったのだっけ。
マリエは駆け落ちも同然で実家を飛び出してきたけれど、待てども待てども相手の男は電車に乗ってはこなかった。まだ学生なんだから、に加えてそろそろあなたにだってふさわしいお家の人が迎えに来るんだから、と両親はいつもネルシャツを着た彼を無視してわたしに語りかけていたけれども、そんな顔の知らない人間にも自分を縛る区分にも興味がなくてこんな事になってしまったのだ。彼はいつもの仕事帰りのペンキの落ち切らない手を空に掲げながら『俺ァどこ行ったって仕事は見つかるからよォ』と駆け落ちの算段を語っていて、今回やっとそれを計画に移して、早めのヴァカンスにしけこんだ、はずだった。もうそんなヴァカンスは終わってしまって、その因縁めいた街も離れてしまったから、いまの状態をなんと言っていいのかはわからない。
バカロレアの自己採点に揺れる先輩の群れから隠れながら待ち合わせの地方の駅までのチケットを買って、リヨン駅から初めて一人で長距離列車に乗った。あの時もきらきらした瓶に炭酸が売っていたから買ったのだ。暑くてもう飲んでしまったけれど、あの時はまだ彼にそれを手渡す気でいたのだった。待ち合わせの到着駅で降りて、キョロキョロしながらカフェを探してパリからの電車を待っていた。手持ちの本を何度も何度も読み返して、昼にサンドイッチを食べたきりだからと軽くパニーニも食べたのに、日が暮れてもどれだけたっても、夜の最後のパリからの電車が過ぎ去ってなお彼のネルシャツ姿は見えなくて、
マリエは硬貨を握りしめて彼の家の電話をコールした。普段だったらいる時間だ、と指が番号を覚えている状態で何フランもいれてかけたけれど一向にコールが止むこともなくて、彼の名前の文字数だけかけなおしたところで
マリエは虚無感で受話器を置いた。ところで今日これからもうどうしよう、とコール音が聞こえなくなってやっと現実に思い当たって、初めてアンフォルマシオンでホテルを尋ねて予約をした。それから電子レンジで温める、冗長な麺と味のするパスタを買って予約に駆け込んだけれど、まだ高校生だと言ったら全て終わってしまう気がして
マリエは無意識に彼の苗字と年齢を口にした。馬鹿みたいだ、とキーに書かれた名前をみて
マリエは虚無感に苛まれたけれど、今更どうすればいいのかもわからなくてベッドに倒れこんで、いつのまにか眠り込んでいた。
翌朝は朝から駅で読書をして彼を待ったけれど、
マリエはパリからの最後の電車を待ってもう彼を待つのをやめた。電話もやめた。それでも家に帰るにはつらいから、と翌朝数駅パリから離れる方向に移動しようと思い立ってチケットを取っていた。というのもこの思い入れも何もない駅なんかより、数駅先の街ならば少しくらいは土地勘があるからで、少し規模の大きい街ならば少しくらいは考え事をするにも街に溶け込めるのではないかと思ったからだ。
夏向きのサマードレスに身を包んで
マリエは朝からホテルを発つ。今度こそ彼の苗字を名乗ることなんてしない、と鍵を返却しながら決意をしたけれど、それを返した時点で何処と無く心細くて家出鞄の底に入れていた一番お気に入りのそのワンピースを着たことに感謝していた。それが似合うねえ似合うねえとおばあさまは似たワンピースをいくつも買ってくれたっけ。それも昔の話だ。母がいつだかにくれた大きいトートバッグを肩から下げて
マリエは電車を待って乗った。もう炭酸は買わない。代わりにミント水を買ったら子供じみた気持ちになって、いつだかのバカンスの家族旅行を思い出して少し泣いた。わたしの決断は、全部間違っていたけれど、今更どうすればいいのかもわからないし今すぐ帰るにもまだ整理がついていない。揺れ始める車窓の中には馴染みのない田園風景が広がっていて、どうせ一人で旅行をするならもっと南だとかに行きたかったな、と少しだけ思った。それをするにもパリまで戻るのは癪なのだけれども。
「ここで相席してもいいかな?」
「…ええ、どうぞ」
それにしても大きい、と
マリエは唐突な発話に戸惑うより先にその感想を得た。パラソルに半分隠れた頭からいたずらっぽい目が覗いていて、
マリエの丸いテーブルの逆側を指していた。水でびちゃびちゃの炭酸のガラスボトルをまた再び動かして半分を銀髪のその相手に明け渡す。どうもどうも、とその男はキラキラ光るビールをその水跡にぴったり合わせて置いて、あァ!と
マリエの置いていた本を指しながら向かいに座る。
「なっつかしいなァ〜!俺もこれ、高校の時に読んだな」
「そう?何年前のことなの」
「そうだな、えーと…7年かそこらかなァ」
それにしても覚えてるもんだな、と目の前の男は興味深そうにそれをながめてその本に触れた。俺ァ真面目に読んだ本ってあんまないんだけどこれは覚えてたな、なんでかっつーとその時に気になった女の子が熱心に読んでてよ、話のきっかけが欲しかったんだよなァ。そう言って彼はタイトルを撫でてビールを一口飲んでまたきっちり丸い水跡の上に置く。
「へえ、じゃああなたの口説き文句って文学青年ぽく引用でも諳んじるの」
「結局話せないまま向こうにボーイフレンドができちまったよ。それより、俺はジャン=ピエール・ポルナレフ。ジャン=ピエールとでも、ジッペとでも、ジャノでも、どう呼びたい?」
マドモワゼル・トゥルモン?と彼はさらにわたしに問う。わたしは、と一瞬躊躇いながら名前だけをぺろりと吐いて、ちょっと無遠慮にジャン=ピエールと呼んでみた。彼はまるで子供を褒めるみたいに大層な言葉でわたしのその発音を褒めて、それから机の端のわたしの手を取る。
「本のネタバレをしちゃ面白く無いだろ?」
「そうね」
「代わりにお兄さんが旅の話でもしてあげようかな、なんて」
熱い手だと思った。日差しも十分に暑いけれど、それ以上に熱い。案外乾いたその手はわたしの冷えた手を包んできて、それがくすぐったくて笑えば目の前のポルナレフはおいおいまだ話は始まってねえぞお、だなんてよく見知った発音でわたしを笑う。
「旅行先でほかの旅行の話をするのも変な話」
「素敵だろ?
マリエもちょっと早いバカンスなのかい」
「うん、駆け落ちのつもりだったんだけど失敗したの」
「やっぱりな。話し方が違う。ここの人間じゃあない」
お兄さんに全部話してご覧?そう言って手を取ったままポルナレフは青い目でわたしを捉えていた。色素の薄い彼が眩しい。思えば彼とは、夜にばかり会っていたからこんな陽の光を透かして向き合うだなんてどれくらい昔の出来事だっただろう。
「もう過去の話だわ。あなたのその本の女の子なんかよりずっとくだらない話よ」
「ばっか言え、くだらない恋愛なんてないぜ」
「じゃあ今わたしがあなたに恋をしたって言っても笑わないでくれる?」
「俺は案外純情だからそういう遊びはするもんじゃあねえ」
少し彼の指はわたしの手を詰問するように力がこもる。嘘、と笑ってみたけれど、それでもなお少しだけその頼りになる感じになびきかけたというのは嘘ではない。
「お嬢ちゃんがスレた遊びをするにはまだちょっと早いんじゃねえのかな」
「子供扱いするつもり?」
「だって、実際多分子供だろ。俺は妹がいたからな、よくわかる」
高校生か、大学生か、それくらいだろ。な、どうかな。当たってる?無邪気に手を繋いだままその手を上下させてわくわくした顔で尋ねるポルナレフがまるで同級生みたいに幼くてちょっと可愛げすら覚えてしまう。そうねえ、いくつだったかなんて、忘れちゃったわ。そう返せばつれねえなァと彼はその手を持ち上げて、机に下ろした。
「俺は正直な女の子が好みだな」
「あら、言ったじゃない。あなたのこと好きになっちゃいそうって」
「おいおい本気にしちゃうからな。ふざけてるならそこまでで終わりにするんだ、いいね」
ウィ、ムシュ。ふざけてそう返せば、彼もふざけてまた子供を褒めるみたいなきらきらした褒め言葉でわたしのことを褒める。それがくすぐったくて笑えばやっぱりガキっぽいなあ、だなんて言われてわたしは観念して自分の年齢を吐いた。そう、ご指摘通り17歳の高校生、向こう見ずな。
「駆け落ちって結婚すらできないトシじゃあねえか」
「パパもママもきっと来年になったら相手を見つけてくるってずっと言ってくるんだもん。そんなの、逃げるしかないわ」
「まったくアマちゃんだなァ」
彼はわたしの手を指先から手首までたどって、それから指の一本一本に戻って、と遊びながらわたしの話を聞いていた。青い目がまるで兄貴分か何かのようにいたずらっぽくわたしを責める。心配かけるしか仕事ができねえくせによく思い切ったもんだよなァ。
「むこうは働いていて、きっとどこでも働けるからって言葉に乗っちゃった」
「向こう見ずの自覚はあったんだな」
「昨日気づいたの」
一昨日家を出て、一昨日と昨日はずっと待ちぼうけ。それから今日ここに来て、と机の上を指で弾いて数えれば、ポルナレフの指もそれに合わせて折られるのだから少し面白いと思ってしまった。平均的家出の日数だなと彼はぽつりと言って、それからちょっと真面目な顔でわたしの手を合わせて、掴んで、包んで持ち上げた。
「家はパリか」
「うん、16区」
「悪いこたあ言わない。早く帰んな」
今までの口説いてるみたいな不真面目な顔から一転して真面目な視線で射抜かれて、わたしはすっかり背筋を伸ばしてしまった。なんで急にそんなことを言うのだろう。それに、わたしはまだ全然整理なんてついてないし、どんな顔をして帰ったらいいかなんてのもまだわかってないから帰るつもりなんてない。その証拠にこの街についてすぐアンフォルマシオンでホテルを取ったのだ。今度は、自分の名前と、担任のひっつめ髪の女教師の苗字の組み合わせで。
「いいか、俺は街ごとにわるーいわるーいネズミを駆除して周ってんだけどよ」
「フリーランスのペストコントロールの人だったの?意外」
「まあ、それはちょっと違うんだけどよお、それはいいとして」
持ち上げられた手が持ち替えられて、ポルナレフの熱い手はわたしの合わされた手をがっしりと掴んで離さない。肘をついてキスをせがむみたいに向い合っても彼はそれには応じてくれなくて、相変わらず真面目な視線でわたしの顔を穴をあけるみたいに見つめていた。
「最近この沿線には人をさらうネズミがいるんだ。それも、
マリエみたいな年格好の女の子をな」
「あなたのことじゃなくって?」
「俺は退治する側だっつの」
もう一生家に帰れなくなっちまうぞ。それに、新聞の地方欄に探し人で載ってたような気がするんだよな。どの新聞だったっけなァ…。彼は目を伏せて、ようやくやっとすこし最初の時みたいな柔らかさを取り戻していた。炭酸を喪った彼のビールの泡はしおれている。わたしの薄まったオレンジ・サイダーと一緒だ。
「ともかく、俺は早く帰ったほうがいいと思うね」
「でも、今日はもうホテルも取っちゃったの」
「そんなんキャンセルして帰ればいいだろ」
「やだぁ、怪しいじゃない」
かわりにジャン=ピエールがそばにいて、明日までわたしのことを守ってはくれないの?彼の手をすり抜けて、今度はわたしがその手を包み直して問えば、満更でもなさそうに目の前のポルナレフはったくよお!とわたしの手を解いて今度は手のひらをくっつけて指を組んできた。
「ボディーガードの料金は高いぜ」
「わたしの今日と明日をあげるわ。十分すぎるでしょう?」
「どうだか」
彼はそう言ってわたしの手に食い込むくらいかたく指を握ってくる。ヤケのつもりできた街で、何もかも嫌いだと思っていたけど、ちょっとはいいことあったみたい。明日別に帰るとしても、今日はこの先輩からたくさん言い訳のレパートリーを聞いておこう。あとそれから旅の話も聞いておきたい。今日と明日でそれが足りるのかわからないけれど、目の前の青い視線は柔らかくわたしに向けられていたのでもう少し甘えても許されるかな。わたしはきつく握られて痛いばかりのその手に対抗するように握り返して、彼がそれに吹き出してはじめて炭酸のぬけたオレンジ・サイダーに口をつけることが出来た。暑い日のこの清涼感はもう別に嫌にならないかもしれない。楽観的予測でしかないけれど、今度炭酸が抜けてもきっとわたしはそれを抵抗なく飲み干すことができるだろう。
20160129 chloe