場所柄きみに好きって言うよ

後にも先にも旅行中に岸辺露伴が最もむかついたのはこの時だけで、後数ヶ月で失効することがわかりきっている国際学生証を誇らしげに掲げたマリエばかりが長蛇の列を抜けて先に美術館に通された――しかも無料で――ときだった。漫画家という肩書はあれど、学生ではないし、そもそも教職員でもなんでもないので露伴はまだほの寒い3月のパリの路上で冷えながら入場の列を待っていた。川岸のその美術館の前は広く、元々駅として利用されていたからかがらんと入口前が開けていて寒いことこの上ない。以前来た時はこんなに待たされた記憶が無いと思えばそれは招待を受けてのことだった。なんにせよ、口車に乗せられて、大概なんとはなしに結局望みを叶える形になってしまうこの年下の彼女、マリエの言うところの卒業旅行についてこさせられたのが間違いだったのだ。美術館っていうのはこんなに並んでまでしていくものでもないし、招待されて展示されていないものを見るところだ。まあ、あれは半分仕事のようなものだったけれども。並んではいたものの、ロマも浮浪者も寄ってこなかったことだけは幸いであったことを認めておこう。杜王町のそれよりずっと寒くて乾燥した空の下、ほぼぴったり15分待って岸辺露伴がその服を半分脱がされて入場券を求め、最初の広間についた時には既にマリエはよく知られた彫刻の下で呑気にパンフレットを眺めていた。
「先生、やっときましたね」
「うるさい、僕は学生みたいなお気楽な立場じゃないからな」
それで何から観たいんだ、と露伴がマリエに問えば彼女はもう一度だけアールポンピエのところは観てきただなんて抜かす。彼女の趣味はそこで、目当てのものが展示されていた時期なのかどうかは知らない。ただ岸辺露伴の解説を聞く準備だけはできているということらしい。むこう、と彼女が指し示す部屋は陰惨に大きな画面に天使が描かれていた。その下の人間の首はない。こんなのも解説が欲しいのか、と岸辺露伴は満更でもなくゆっくり歩を進めながら彼女の求める作品の解説を諳んじた。いやあ、このモチーフにそんなにリアリティはいらないのに君が気にいるだろう、それってのは……。
進む中でちらほら画板を掛けて模写をする人の姿がある。彼らの描くそれは大概が基本的な技術を正確に要するもので、なんとも懐かしい気持ちになる。あの年代になってもあのように基礎を正しい物で学ぶ機会があるのは良い。それをみてマリエはふと私にも絵がかけたらよかったのに、という感想を漏らした。
マリエが描いた時計台だっけ、あれは世紀末美術だったと思うけど」
「上手いこと言って貶してるでしょ」
「いや、好きか嫌いかで言ったら僕はプリミティブで嫌いじゃないね」
ただ年齢と思想と技術、それから求める難易度が釣り合っていないだけだ。漫画なんかより好き嫌いで二分される分つらいよなァ、と岸辺露伴は自分の作品が売れるところを見ずに死んでいった過去の巨匠に思いを馳せる。まだ自分は自分の作品が売られるところを見て、その反応を知ることができ、さらにそれで食い扶持を稼げている分幸せなのだろう。今のところ都会の生活に絶望して南の島に希望を見出した人間の気持ちはわからないし、娼館でばかり生を求め描いた人間の気持ちもわからないのはある意味時代の違いか、分野の違いか。隣にいる人間がその背景を知ってこれが気に入っただのあっちのほうが好きだの言っているのかは知らない。ただよっぽど画集を見るよりかはいいのだろう。ぼんやり彼女が気に入ったらしい画面を眺めている間に岸辺露伴も下げているスケッチブックに模写をする。こう手を動かしたほうが何を思っていたかわかる気がすると岸辺露伴は思っているが、彼女にそれを求めはしない。マリエがどうその絵を受け取ろうが、どうそれを消化しようが露伴の作品に対する解釈には影響がないし、彼女の受け取り方と岸辺露伴の受け取り方が同じであるほうがつまらないからだ。

すっかり一巡するころには足も疲れきってしまった。三階の彫刻の並ぶ間のベンチに座ってはマリエは視点が違うと見え方が違う、だなんて子供じみたことを言うし、岸辺露伴はむしろその建物の構造に目を取られていた。彫刻ならもっと触れたほうが彼女のような人には理解が早いだろうけれど、屋外でもなし、それはできない。それに彼女は素材の味の違いも知らないだろうし、密度や、冷たさと肌触りの違いも知らないだろう。それならまだ眺め回して好き勝手な感想を持つほうがいいのだ。間口の広さに過去の人間のサイズや衣服の変遷に思いを馳せ、ここからチューブ入りの絵の具を持ってでかけた印象派の面々を考えるほうがよっぽど触れられないものよりリアリティがあると岸辺露伴は思っている。庶民の駅なんかじゃあない。あの時計を見てみろよ。
「露伴先生は彫刻をしないね」
「興味が無いんだ。自分のキャラクターの立体なんてもうきちんと頭のなかに出来上がっているし、よっぽどペンとインクで描いているほうが好きなんだ」
細かな細工のされた時計を描いている時に彼女はついに飽きたのかそういうことを口にした。ピンクダークの少年のフィギュアが出ればいいのにね、と彼女は常々言っていたのでそれもあったのかもしれない。ただしそれは岸辺露伴が提案する事柄もでないので興味が無いだけだった。彫刻の模写なら死ぬほどしてきたのだから、彫刻も、ギリシャの神々もむしろ親しい存在ではある。
「飽きたならちょっと待ってくれ、これを描いてからだ」
「うん」
マリエは吹き抜けの方を眺めながらそんな生返事を寄越す。それでいい。あともう少しで描き終わるし、流石にここまで三フロアも絵画漬けで飽きてしまうのは仕方がない。むしろ専門でもない限りリアルな行動だ。それでも、名前くらいは知っているものの実際の姿を見れたことは面白かったのだろう。彼女は幾らかの絵画の名前をきちんとメモしていた。感想については恥ずかしいのか口にしないのが面白くないが。それでも目の前でひとつひとつこぼした素朴な感想なら覚えている。案外大きいし情報量が多いのね、だなんて有名な薔薇の木を見て言ったのには驚いたが、図録で見たらさぞ小さくなにが描かれているかなんて知り得なかっただろう。彼女は一体これで何を得たのか、何の形でそれが発露されるかということについて露伴は非常に興味を持っていた。
「ここを出たら飯にでもしよう」
「そうだね」
そういえば、前に来た時はえらく伸びたパスタかサンドイッチばっかり食べていたなァと露伴は回顧しながら手を伸ばす。描き終わった事に気づいたマリエはその手をとってベンチから降りると、ショコラショーが先に飲みたいなだなんて甘ったれた事を言った。なるほどそれは賛成で、随分長い時間をかけて向き合っていたものだからお互いにすっかりお腹が空いているのだ。開放感からかずっと自然と手を伸ばしてしまったことにあとから露伴は気付くが、お祝いの代わりにと気付かないでそのままにしておくことにした。空腹で冷たくなった柔らかい手はからまって露伴の上着のポケットの中へ、それから階段では宙に浮いて、外の広場のロマの前では強く引かれた。それにつられてマリエの体も近くに寄せられたが、これに加えてありきたりな言葉を告げるのも憚られて、当然のように気をつけるんだなという言葉を飛ばしたが、いまここでだけなら外国語で言えば、リップ・サービスでもなく随分色の乗ったje pence a toi,に変換されたのかもしれない。彼女に書き込むことも一瞬考えたが、それはやめにしてもう一度その手をポケットの中に突っ込んで露伴はかすかに覚えのある道を選んで歩いた。ポケットの中で温まって湿度の生まれた指は露伴の爪の短い指先をくすぐり、それを握り返すことで言葉なんていらなかったと気付くのだった。
20151222,chloe