指先に降る
今年の冬はあったかいねえなんて笑っていたら急に冷え込む日がやっときた。冷えたと思ってセーラー服の上にこっそり学校指定のじゃない、おねえちゃんからもらった薄いカシミアのセーターを着て外に出たら予想外の雨で、私はしょうがなく一番お気に入りのピンクの傘を差して学校に行くことにした。もうすぐ学期末テストという時期である。この地域ならこの月に降るものといえば雪以外にないはずなのに季節はずれの雨だった。少し高くしたローファーで雪道を歩くなんてS市生まれS市育ちの
マリエにはお手のものなのだけど、なんとなく水たまりでは落ち着かないから嫌いだった。なにより湿気るので。
「
島原さんでも校則って破るんスねえ」
まだ雨は雪に変わらない昼休みだった。私は窓際の席が寒いので大抵司書が一日中ストーブをつけている図書室の奥の準備室でお昼を摂って、それから委員の仕事の当番にカウンターに座っているのが常だったのだけれども、昼は大概暇なそのカウンターにめずらしい人が来たのだった。まっさらの個人カードには学年クラスと名前しか判をおされていない。東方仗助、一生話すことはないと思っていたクラスメイトの名前だった。
「わかるの」
「わかるよ、セーター綺麗だもん」
私は事務的に日付のはんこをスタンプ台の上で慣らしてから東方くんの持ってきた本の後ろを開く。儀式的にぽんと日付を押して、それから個人カードにももう一つ。タイトルを書いてそれから返却期限を告げて手渡しても東方くんは立ち去らない。人も殆どいないから、別に困りはしないけれども。
「何かまだ借りるの?」
「いいや、これしか借りないけど…隣の椅子に座ってもいっすか」
「ううん、ホントは図書委員だけだけど、いいよ」
面倒だな、と私は思っていたけれど否定する理由もないのだ。本当は図書委員だけしか入っちゃいけないはずのカウンターの中だってそうじゃない人がたくさん座っているのを知っている。私だってたまに友達を隣に呼ぶ時だってあるし、それに咎める人もいない。
「へえ、なんか不思議な視点」
「普段図書室に来てるなんて知らなかった」
「いや、まあ、初めてきたんスけどね」
「だと思った」
変形学ランの彼が隣に来た時に、教室でたまに香る匂いがした。インクと紙と、それからガスストーブの匂いの中できちんと把握されたその匂いに不思議な感傷を覚えた。ワルだと思ってたのに案外さわやかな香水をするんだなあ……。じゃああの甘い匂いは別の人だったのか。なんとなくワルそうだからとひとくくりにしていたのは悪かったなあ。それにしても外の雨は止まないのかな、飽きてしまった。せめて雪にでも変われば会話の糸口になりそうなのに、と思いながら
マリエはただただ書架の向こうで机に向かう上級生の髪型を見つめていた。
「えっとォー……何か、意外だったんだよな、
島原さんがさ、校則破ってんの」
「そう?まあ、そんなに破ったことってないけど」
ていうか破ろうとして破るもんでもないでしょ、と
マリエは返してしまう。確かに東方くんに比べたら随分模範的な格好してるかもしれないけれど、スカートだってちょっと上げている。それに結構さぼって保健室で寝てることも多いのだけれども、クラスメイトには真面目に見られているみたいでよかった。
「これ、おねえちゃんが在学してた時にも着てたからバレないと思ってたんだけどな」
「お姉さんのなんすか」
「うん、入れ違いだからもらっちゃった」
「よかったァ」
何が?と聞く前に東方くんはヘヘッと笑って、その理由についてはすっかりごまかされてしまった。まあいいや、何がよくても、生活指導の先生に告げ口をするタイプの人じゃあない。そんなことしたら彼のほうが先に注意の山を食らわされるだろうからだ。
東方くんは相変わらず長い足をカウンターの中に押し込めて、それから長い腕をああだこうだもぞもぞしながら手の中の本をひらいたり閉じたりしていた。遠巻きに見ていた時から思っていたけれど大きい人だ、と思う。カウンター越しから大きさは感じていたけれど、隣に来たらなおさらだ。
「東方くんが文庫持ってると、なんかいつもより本が小さく見えるね」
「あ、手が大きいってよく言われるんスよ。まあ図体もでけえんすけどね」
大きいでしょ、と東方くんは子供みたいに手を広げて私のほうに向けた。ワルっぽい人のその仕草がなんだかちぐはぐで面白くて私はついその手に自分の手を重ねてみたら、ちいせえなあ〜だなんて素直な感想がさらに飛んできて面白くてつい笑ってしまった。きっと子供のころも同じことをしていたんだろうことは想像に難くない。手が温かいこともなんだか思ったより幼い印象を持ってしまう。ワルっぽい人が子供っぽい可愛いところを持っていると親しみがわくというのは本当だ。
「あ、雪になってる」
「えっ」
東方くんの肩越しに見える窓の向こうがさらさら流れるみたいな雨から速度をずっと落としてちらちら動く雪に変わっていた。気持ちとしては嬉しいけれど、帰りは滑りそうで怖いな。半身をひねって窓の向こうを眺める東方くんは雪っすねえ、だなんて繰り返してなお私の手から自分の手を離さない。
「セーターもいっすけど、こんな冷たい手なら手袋忘れちゃダメっすよ」
差のひらいた指先が折り返されて私の指先に当たる。手袋は苦手だから持っていなかった。知ってか知らずかのその発言に私は驚きながらその手を離す。
「あ、うん、そうだね」
「その、ああお節介だったッスね、ごめんな」
これやっから許してくれよな、と東方くんは学ランのポケットからカイロをカウンターの上に置いて、じゃ、とさわやかに去っていってしまった。借りた本も忘れて、それからあのさわやかな匂いもとどめて。カイロのやわらかい包装には東方くんの香水の匂いが染みていた。私は昼休みの終わりにはこの本を届けなくてはいけないという気持ちと、それから教室で話しかけるのはすこし勇気がいるということと、なんとなくこのカイロは持っていたいという気持ちをないまぜにしてカイロを指先で握り直した。
20151227 chloe,