感覚の鮮度

それは奇妙な仕草だった。マリエはうつ伏せで寝転がったまま、腕をベッドの脇に垂らして見ずにシャツを拾う。そしてそのまま拾い上げたシャツを顔の横において、顔を隠すように姿勢を変えた。プロシュートはミネラルウォーターを飲みながらその姿を観察していた。奇妙だったが、暗殺者の可能性もあると踏んでの行動だった。事実女性による暗殺はこのような無防備なときに多々行われるという。このような関係になる前から、マリエが同業者であるとは判断していなかったが、自分の立場上いつ何時寝首を欠かれても仕方がない。
すぅーーーッ、と深呼吸をする音だけが静かな室内に響く。その呼吸と連動してマリエの胸も膨らみ、また元に戻る。明かりを落とした室内でそれは白くぼんやりと動いていた。
「さみしい」
「何だ」
「すぐどっか行っちゃうからさみしいって言ってるの」
シャツに顔を隠したまま、マリエはベッドの隣を手で叩いてそう言った。事実プロシュートはいつも事後すぐに今のようにベッドを離れ、水を飲んでいた。それは他用もあったが、何より彼の習慣と化していた行動様式だった。これが仕事であればこのまま支度してすぐに席を立つだろうし、今は私用なのだからそのうち彼女の手のある横に戻るだろうし、一服して先にシャワーを浴びることもあるだろう。いずれにせよすぐ立ち去るというわけではなく、今まで幸運にも立ち去らなくては行けない用事が入ったこともないのだからさみしいと言われる覚えは、なかった。
「最近この匂いが恋しくて」
だからさみしいの。そう彼女はシャツから顔の上半分だけを覗かせた。プロシュートはその視線を感じながらベッドに戻る。途中幾つか自分が脱ぎ、脱がした衣服を踏んだが何も気にせず、彼女が手を置いていた方に潜り込む。マリエは依然シャツを手放さず、視線だけをプロシュートに向けていた。
「寂しいのにこっちに来ないのか」
「このまま抱きしめてほしい」
プロシュートはそのリクエスト通りに彼女を抱き寄せる。今まで受けたことのない注文だった。いつもマリエの注文といえば、明かりを消して、と私にもカフェを淹れて、位のものだったからだ。キスなんてねだらずに向こうからしてくるし、こちらもそうで、この感じの良い彼女の家の中ならば体に触れることですら言葉よりも体のほうが先に動いていたからである。思えばはじめからしてそうだったような気がして、プロシュートも彼女がシャツに顔を埋めるように彼女の髪に顔を埋めた。ある時期の雨の日だけ、ゆく先々のバールで遭遇した女だった。指に素っ気ない色のネイルカラーを塗っていて、いつも一人で新聞を読んでいた。大抵カフェと、その隣に2つセットの砂糖の塊が片方だけ残されていたものだが、今も家で淹れる時に甘め、と言われる時はそれくらいの量を求められているのだからそれは変わらない彼女の嗜好だったのだろう。それが何のきっかけか、その素っ気ない色のネイルに触れて以来、手を取る関係になり、いつの間にかこうして部屋に上がり込むようになった。彼女はプロシュートの表の顔も、裏の顔もじきに知り、それについては何も驚かずに、ただこうして部屋を中心に会うことに抵抗を見せなかった。尤も彼女も日中は家にいないし、プロシュートの休日について不定休みたいなものね、なんて軽口を叩く位だったから、よくある酒場で出会う女とは違うような気がしてどこか居心地が良かったのである。何より、プロシュートの本業について興味も、嫌悪も持たない、単なる、見方によっては一風変わった、一般人だった。よくあるギャングの情婦になることを憧れているような香水臭くて、丈の短いスカートを着るタイプではないことは明らかで、そのせいか関係も一晩二晩で終わりなどしなかった。
「最近あんまり会えなかったからさみしかったわ」
「そういえば、久しぶりだったな」
「私の事忘れたかと思ってた」
彼女は決して自分から連絡をしない。急に連絡が一ヶ月無かったら、死んだと思って自分のことを忘れてくれとプロシュートは常に言っていた。尤も、プロシュートがマリエに教えている連絡先なんて表用のものではあるのだが、彼女はそれですら何か支障になるのではないかと思っているらしい。
「匂いがすると安心するの」
「バンビーナか、お前は」
それでもこの部屋に、プロシュートがいつも使っている香水の小瓶なりは置いていたはずで、それを開ければ解決するのではないかと思いながらプロシュートはマリエの額にキスを落とす。着てたあとの匂いじゃないとだめなの、なんて言う彼女はいつかのバールで新聞を読んでいたときよりずっと幼い顔で、そういう普段との落差にプロシュートは愛着を覚えてしまう。その傾向に対する自覚はぼんやりとあったが、目の当たりにするとそれはそれでくすぐったい感覚だった。それを飲み下すようにマリエを抱く腕に力がこもる。
「匂いにも温度があると思うの。鮮度も」
「まあ体温が違えば、同じ香水でも違うだろうな」
「プロシュートはそれからちょっと煙草の匂いもするけど、だからやっぱり着たものじゃないと嫌だわ」
今度着替えを置いていって。そう言ってマリエはシャツを床に戻すとプロシュートに向きあうように姿勢を直した。着替えを持ってくるなんて、大概着の身着のまま来るプロシュートにはハードルが高いなあと思いつつ、分かったと生返事をするのだった。きっと彼女のいうところの鮮度と温度を保つ工夫をすれば、彼女の身は今より危険になるだろうが、その覚悟を決めさせるにはもう一段階が必要だろう。マリエの左手に手を重ねながら、彼女に問われる覚悟だけではなく、彼女を日陰に引きずり込む覚悟についてプロシュート自身も思案していた。病めるときも健やかなる時も、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、支えあって……なんていう一般的な誓いより重いそれを交わして、共に地獄に行き着く切符を買うまでにあと何回彼女を泣かせてしまうのだろう。
20150711 chloe