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単なる画学生の自分に、奨学金まで付いたスタディツアーの話が舞い込むなんて思っていなかった。その話を指導教官から受けた時の私の喜びようと言ったら!その日はるんるんで寮に帰ったし、いつもなら生活費より画材にお金を捻出するように心がけているのに、帰り道にアイスクリームなんて買ってしまった。あとは決まったばかりでまだ見ぬエキゾチックな土地に思いを馳せようと博物館へ行こうと思い、デッサンのために鉛筆を削ったはいいけれど、嬉しすぎて尖らせすぎてしまった。ともかく、私の夏休みはまだ見ぬエジプトで2ヶ月のスタディツアー、もといアルバイトに費やされることが決まったのだ。お金持ちの肖像画を描きにいくことが主目的で、また異文化に身を置いて芸の足しにして頂きたい、とのお言葉に私は胸をときめかせていた。旅行付きのアルバイトとは、なんて最高なんだ!しかも、時代遅れ気味の自分の絵を評価して指名してもらえたなんて。

マリエは夕方に目が覚める度に薄暗いロンドンの大学のアトリエを思い出していた。あの頃も随分朝は遅い方だったと思うが、ここまで、夕方まで眠ったことはなかった。今では砂漠の果ての夕方がマリエの朝であり、気温が再び上がる頃が彼女の夜だった。”依頼主”の生活時間に合わせる必要があったからである。太陽を嫌う依頼主は夜であっても早いうちはカーテンを開けることを嫌い、マリエは初めて光源がロウソクでのデッサンの練習経験が実際に活きることを知り、月がどれだけ明るいかを知った。砂漠が海のように光を照り返すこともこの時知ったが、果たしてそれが次いつ活きるのかは想像すらできなかった。
エジプトの富豪だと聞かされていた依頼主は同じイギリス人であったし、顔立ちも整っていたから何も戸惑うことはなかったが、その自由さ、造形の豊かさが自分の手に余るのではないかということばかりマリエは気にしていた。尤も、褒めこそしないが下書きやデッサンをみて依頼主は文句を言ったことはない。首元の傷だけは何も言わずとも、後で見たらクロッキー帳のそこだけ抉られていた。それ以外はどんなポーズで描けばいいのか聞いても『お前が最も似合うと思うものにしろ』などとしか言わないのだから、ある意味寛容だったのかもしれない。ポーズを取っても5分と続けてはくれないのだが。
マリエは日に2時間対面で絵を描き、その間依頼主は執務をしたり、気が向けばモデルとしてポーズを取っていたりした。起きてその時間さえ終わればマリエは主の部屋から放り出されて自由時間ということにされていたので、あてがわれていた自室で作業を進めるか、依頼主の言う所の”散歩”に付き合うか、彼の蔵書を読んでいた。彼女の日記の書き出しは『今日は何座が見えた』というのが常になったが、これは有り余る暇と、与えられた環境の良さを最も表している文だろう。

「DIO様は何故肖像画なんてクラシックなものをお選びになったんですか」
半月もの日を掛け、生活とこの”少し風変わりで時代がかった”依頼主に慣れてきたころ、やっと下書きが完成した。これからはDIO様のお部屋が汚れるかも知れないので何か布を引きたいのですが、とお願いすれば絨毯があるではないか、と言われたので以来彼の目のように赤い絨毯の上にイーゼルをかけて作業している。富豪とは恐ろしい。
「趣味だ」
「まあ、ヴィクトリア朝の貴族みたい」
貴族なのはおそらく事実だろう。しかしたまに本当に時代に取り残されたような発言をするので生まれ育ちはこちらなのかもしれない。彼は印象派のはじめこそ知っているけれど、本当にそれ以降を知らないのかピカソですら知らなかったし、唯一私が寮から持ってきていたシャガールの画集を興味深そうに眺めるばかりか取り上げて持って行ってしまったこともあった。
「お部屋の明かりもほとんどロウソクなのも、趣味の一貫でしょうか」
「どうだろうな」
「絵を描く分には良いのですけど、古典趣味だなと」
フン、と鼻を鳴らして依頼主はポーズをやめ、彼の机に戻った。万年筆ですらないつけペンを使う依頼主はやっぱり不思議な古典主義者だ……と思いながら私はロウソクの火できらきら反射する髪に色をのせる。散歩の間に返ってきた事柄を咀嚼するだけでも、本当にヴィクトリア朝に生きていたかのような内容ではあるけれど、それは多分教養人が小娘を化かしたいだけなのだろう。鏡も写真も無粋だというのが彼の矜持らしく、この部屋にはそのどちらも存在しない。部屋で作業を進める時はいつも写真がなくて残念だと思っていたけれど、対面でこうして描くのも教養深くて面白い問答だと思うようになり、塗り始めてからはあまり自室で作業をすることがなくなった。なんだかんだ作業時間が伸びても切りの良い所で追い出されるし、最近は真夜中のお茶会すらたまに顔を出してくれるのだから依頼主なりには遊んでくれているのだと思う。よく磨かれた銀のポットにはろうそくがこう映り込むのか、と感心することも多かった。いつも眠れないか早起きかした時に執事が磨きこんでいる現場を見たことがある。祖母が昔磨いているのをみたことがあるけれど、あそこまで美しく細かくしていたかどうかは定かではない。指を近づければきちんとそれが映り込んで面白いのだが、執事はいつもそれを眉だけで咎めるのでその器に触れたことはない。

肖像画の完成を控えた夏の盛り、マリエは伸びすぎた前髪を切っていた。暑さのせいなのか思ったより伸びて、何をするにも鬱陶しくなったので鏡とはさみを借りた末に客間で格闘していた。館のパブリックスペースで大きな鏡があるのはここだけだった。部屋のバスルームにもあるにはあるが、また階段を何段も上って一番奥の自室に戻って作業をしてここに戻ってくるより、ささっと切ってすぐにはさみを返したかったという横着の結果である。切った髪を落とすための新聞紙を広げ、髪をより分けて梳きながらマリエは依頼主の豊かな金髪を思い出していた。ここ数ヶ月眺めては描いていたあの髪は、自分のように伸びもせずいつも似たようにまとまって無造作に流されている。そもそもあまり出かけない依頼主も自分と同様にここで切っているのだろうか、否、富豪なのだから技術者でも呼んでいるのだろう。しかしながら不思議な人間だ、そう思ってマリエははさみをいれる。食事に同席したことはないし、屋敷の中で遭遇することもない。ただ自室にいろと執事伝いに言われる時だけは階下に人の気配がするのだから人付き合いはあるのだろう。それにしても人間味がない。人の匂いはしないがよく見知った香水の匂いはする。そういえば自分の香水は底をつきそうだ……帰りに空港で買って帰るだけの余裕はあるだろうか。
そういえば、依頼主は苗字も言わないし(これは何らかの理由があるかもしれない、亡命貴族かもしれないし、何か隠居する理由があるのかもしれない)、彼の家族の話もしない。今まで過去の肖像画を勉強のためにと見せてくれた貴族たちは揃いもそろって父親の話から更に何代も遡った先祖の話、何代も昔の、どれだけ血が薄まったかしらないくらいの先祖がいつ時の王様に食事に招かれた、だのの話をしてきたものだからその点でも不思議だった。まるで突然変異で貴族になったような人だ。それ以外はラテン語の話をしてきたりするのでほぼ似たり寄ったりなのだが。そもそも名前がラテン語的だ、神だなんて。
それにしても髪が伸びた気がする。本当は後ろも切りたいのだけど……と合わせ鏡用にもう一枚貰っていた手鏡を取ろうと体をひねると直ぐ側に依頼主、いや、DIOが近くにいることにマリエは気付く。あまりにも音もなく、鏡にも映っていないその人に驚いてマリエは鏡を取り落としそうになった。
「人の代謝とは不思議なものだ」
「ええ…あの、いらしていたのが見えなくてすみません。すぐ片付けますから」
そう言い訳して新聞紙を畳もうとマリエは手に取ったばかりの手鏡を置き直した。こんなに鏡は大きいのに映り込まないなんて。真横にいる気配はする、足元も見える、映り込まない理由はないはずだ。
「何故私が肖像画を依頼したか理解したか」
「趣味だと、お伺いした気がします」
「私は永遠を生きている、自分を保つ事以外に今を保存できないのだ」
母語で書かれた新聞を畳みながらマリエはその声の主を直視することが出来ずにいた。めずらしく科学読物ではないと思って書庫で読んだ本の一節を思い出していた。
「鏡や写真のような無粋なものには映らない」
切ったばかりの前髪に爪の伸びたDIOの指が触れる。その爪の鋭さに思わず目を瞑ればすぐ真横で持ち主が笑うのを感じた。ただただ読んだ文脈と今まで不思議に思っていた点が目の裏で結びつく。お茶会であんなに磨かれたカトラリーを使わずに無作法にものを手で取ることも、夜に寝起きすることも、鏡に映り込まないことも。
「い、いまは…いずれ過去になります」
「そうだ。しかし過去を現在に保つ方法がある。何だと思う」
絵画と死だ。そう囁かれてマリエが目を開けば普段のほの暗い廊下があった。爪が自分の首にかかっていて痛い。体温のない人間はすぐ傍にあっても人間味がない、その前に人間でないのだろうということは言われずとも感じていた。まるで彫刻のそばにいるみたいに冷たいとマリエはよく見知っている彫刻の数々を思い出していた。こんなに自分の身に危険が迫っているのに何の実感も沸かない。もしライオンに殺されるとしても体温があるだろうに、この相手にはないからかもしれない。
「お前にも永遠を生かせてやろう」
はじめてマリエと名前を呼ばれて彼女は目を瞑った。それは迫り来る痛みを予期しての行動だったが、彼女の想像するよりもそれはずっと優しく柔らかく首に訪れた。その意外さに目を開ければ、入れ違いに想像よりもずっと固い歯がマリエの首筋に刺さったが、彼女がその感触に驚く機会は同時に失われたのであった。
はさみと手鏡、それから本人のものだった髪を残してDIOはマリエを窓辺に置くと、自室に戻って眼の光のない肖像画に彼女の血を落とした。赤黒い雫は描きかけの絵の目の上で跳ね、丸く薄い膜を作ったが、これは絵の中のDIOに光を与えることとなり、マリエは永遠をそこに留めたのだった。

20151029 chloe,