夕ぐれは
じゃあ今日は先生の一番好きな人のことを話そうか。ええと、何年前だったかなぁ。先生は昔一年だけ学校を休んで旅行をしたことがあったんだけど…そうだね、留学…まあちょっと違うけど、そんなものかなあ。高校の時だったんだ。その直後に会った人で、その人にずっと僕は囚われ続けているんだよ。
私の主治医はたまにふらっと木陰に来ては自分の話をする。それは私があまりにも周囲に溶け込まないからで、反応を示さないから彼なりの自己開示、歩み寄り、なんでもいい、その類の行動なのだとおもうのだけれども、私は内心この彼の行動を楽しみにしていた。よっぽど同室のご婦人方の私を探るような話し方より気が楽だった。彼は初日にこうも言っていた。”僕はこれから独り言を言うけど気になんてしないで”。その通りに私は何も気にしないふりをしていつも連日少しずつ語られる主治医の話を聞いている。ベンチに座って読書をするのは嫌いじゃないけれど、いつだって読み直せるそれより唐突に語られる生の話のほうがよっぽど興味があった。自分のことを話さなくても気になどしない相手でもあったし。
「
マリエという名前でね、未だに街中でその音が聞こえると思いだしてしまうんだ。よくどんどん人の顔なんて忘れるっていうけれど、僕は未だに彼女の顔に掛かる睫毛の影ですら思い出せる」
それってすごい記憶力。言いかけて、やめて、いつもよりずっと夕日で伸びた、ただでさえ伸びた花京院先生の長い影を目で追い直す。反応はしないと決めていた。ページを捲る手がゆっくりになっていることなどとっくに気付かれているだろうから、それが唯一の反応と言ってもいい。それくらいは仕方がないとも思っていたし、本当に反応がないからといって止められるのも癪だった。
「さっき休学したといったけど、その1年でやりたいことも、人生でやらなきゃいけないだろうことも済んだ気がしていたときに目標をくれたのもその人でね」
ぼんやり勉強していた僕のところに家庭教師に来てくれた大学生で、僕は彼女の夢に憧れてもしかしたら医者を志したのかもしれない。地元の大学の医学部生で、よっぽど僕なんかより本も読んでいて、遊んでいて、それでいて絶望していた。
絶望していた?その恋人を表すには随分と場違いな単語に顔を上げても、花京院先生は全くこちらを気にすることなく話を続ける。きっと気付いてはいるだろうけれど、それに気付かないふりをするところだけは信頼がおける。
「その人も高校の時に留学していて、旅先で友達を亡くしていた」
その人も、いや、それはあまり正しくないな。僕はなくしかけてなくしていないから。
マリエはそのせいで、いや、あれも彼女の意志なのかな…僕にはまだわからないけれど、それで医師を志したんだって。そんな人に憧れて、同じものが見たくて、彼女の絶望を半分くらい捨ててしまいたくて僕も同じ道を取ったんだけど、あの時の彼女の年齢なんてとうに越したのに全くまだ見えている気がしないんだよ。
ああ、
マリエは死んでないからね。そう言って花京院先生は顔を上げる。逆光のせいで全く表情は見えないけれど、眇めた目と視線が合ったことだけはわかる。目元についた傷は、休学中の事故だって一昨日くらいに聞いた気がする。
「やっぱり年頃の子はこういう話だと反応がいいね」
「……」
「ああ、ごめんごめん……。
マリエは今何処にいるんだろうね。僕も知らないんだ。恋人なのに…。半年に一度くらい、葉書がきてやっと消息がわかる。これじゃいつ死んでてもおかしくないね」
ちょうど半年前にアパートに葉書が届いて、そろそろじゃないかと思ってこんな話をしているんだよ。そう言って花京院先生はポケットを叩く。きっとそこに葉書が入っているのだろう。それを見ることは、私でもなかなか言い出せない。もしかしたらそれを期待して話したのかもしれないけれど。
「僕はいつだって
マリエの背負っているものを半分持ってあげたいのに、どんどん遠くに行くんだ。他に僕は親友が、うん…親友がアメリカにいるんだけど、それも似たような人でね。何も手伝わせてなんてくれないで勝手に向こうに移住しちゃったんだ。みんなに置いて行かれるんだよ…」
彼女とは、かれこれ何年かな…僕が大学に行き始めてから今までずっと付き合っているけれど、いつだって
マリエは人生の決定を独りでするし、友達もそうなんだよね。そう言って花京院先生は肩を竦めた。
「
マリエが僕のどこが好きなのか、一度も聞いたことがない。彼女は君と違って随分お喋りなのにね」
花京院先生の前髪は、笑うと揺れる。独り身の理由をいくらも噂されているのは何度も聞いていたけれど、そんな経緯があったなんて誰が知っているだろうか。これを話したくさせるために私に話させたのだろうか。それとも、何のために。
「君にも大切な人はいるかもしれないけれど、言葉なんて言わないと通じないのにね。近くにいるのに伝えないなんて、僕には随分と贅沢に思えるよ」
「そ…ですか」
久々に使ってしまった声帯は随分と錆び付いていて、思った通りの言葉なんて出てきやしなくて、何が贅沢だ。目の前の人の思惑に嵌ってしまって眉を寄せれば、花京院先生は困ったように目を伏せて、それから贅沢だよ。と繰り返してポケットに手を突っ込んだ。ポケットの端から見えるカードは角が丸まっていて、本当に半年前の手紙かどうか見当はつかない。
20160719 chloe,”夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて 詠み人知らず 古今和歌集”
as a request of valentine 2016 "花京院で"