花ざかりの校舎影
『わがためにくる秋にしもあらなくに虫の音きけばまづぞかなしき』(詠み人知らず)
"私のためにくる秋だというわけではけっしてないのに、虫の音を聞くとすぐに悲しい気持ちになる。"
高田祐彦訳注 『新版 古今和歌集 現代語訳付き』 KADOKAWA 2009年 より
盆の中日に出勤した夕方だった。別段帰省をする気もなく、生徒たちがまばらになる今週はこうして朝に出勤して園芸部の植物の面倒を見、陽の盛りには理科準備室に戻って作業をするルーティンができていた。夕方になればもう一度花壇と畑に出て、様子を見て片付けをして帰宅する。園芸部の当番も、今週は自分がすべて代わりに引き受けているから日誌を読む楽しみはない。ただ、生徒たちは楽しみにするだろうから詳細に書くのだけれど。
日中のBGMは運動部の掛け声、体育館からのシューズの擦れる音、吹奏楽部のパート練習と合奏の音だった。朝一番から聞こえてくるのは大抵校庭の運動部の声と階上の吹奏楽部の合奏の音で、大抵それが途切れてくるころに御影も室内に戻る。陽がくっきりと葉のかたちに影を染める中で、自分の身近に生徒が居ない状態で聞くそれは驚くほど耳に届く。いつもは近くで作業する生徒たちの話し声であまり気にしていなかったのだろうと気付くのは、いつもこうして長期休暇の時だった。
今日もそうだ。不意にぱ、ぱ、ぱあーと柔らかい楽器の音が聞こえて御影はつい窓の外に目を向ける。今日は吹奏楽部の活動はないはずで――氷室教頭が来ない日は把握している――そもそも今朝だって練習の音は聞こえなかった。陽はもう傾いてきていて、片付けのときに見回ってみるか、と御影は窓を開けて音の方向を探る。冷房の効いた室内に生暖かい外の風が流れ込んできて御影の髪を揺らし、温まった草の匂いとグラウンドの運動部の声、それから当該の金管楽器の音が御影の五感をさらう。試すような音がいくつか続いて、音階の練習のような長い音が続き――ふと音の出処に検討がついた気がした。
窓を開けても姿は見えないが、理科準備室からほど近いところで練習しているのは自分のクラスの
マリエに違いない。いつだったか、平日の放課後にも理科準備室の近くの校舎の影で一心不乱に練習していたのを思い出す。あのときは去年度の学年末テストの直後だったか、楽譜に何かを書き込んでは練習を再開する姿に声をかけられずに居たら逆に声をかけられたのだった。
「もうすぐお花、咲きそうですね」
「もう春だからなあ」
わたし、お花が見えるからここで練習するの好きなんです。そう言って
マリエは視線を楽譜に戻して何かを書き込んでいた。その直後にせんせえ、と園芸部員の呼ぶ声がして場を離れたが、その用事の後に戻ってみれば既に彼女の姿はなかった。椅子を置いていた地面に少しだけ跡があって、教室棟の高いところからいくつかの楽器のチューニングの音が響いている。もう少しだけ話をしたかった。少し前にあった事故のようなふたりきりの課外授業のあと、何度か出かけたことがあってもあまり彼女は自分の話をしない。そんな彼女が自発的にそんな彼女が花壇に興味を示していたのが気になって、なんならなにか気にいる花でも植えてやろうかとすら思ったのだ。
部活終了の時間になり、園芸部の面々を帰るよう促しながらつい
マリエの姿を探してしまう。小さい背に背負った楽器ケースが特徴的で、御影の視点からであれば容易く見つけられる。そもそもいつも教室の後ろに置かれている楽器ケースだ、1年見ていて見間違うことはない。声を掛けようか逡巡していたら彼女の派手な友人たちがマリィ、と
マリエを呼び止めてしまったので御影はそのまま目で
マリエを追うだけに留めたのだった。マリィ、部活お疲れ様!いつも体育館で合奏の音、聞いてるよ〜。もうお腹ペコペコ、お茶して帰らない?いいね!わたしホットケーキ食べたい。そんな可愛らしい応酬に自分が挟まったら気味悪がられるだろうか。存在しない学生時代を一瞬思い出して滅入りかけた瞬間、振り向いた
マリエと視線が合って彼女の口角が上がるのが見えた。
「御影先生、さようなら!」
「おう、気をつけて帰れよー」
みかげっちさよならあ、と彼女の周りの学生からも声が上がり、御影はその場を離れるように帰路につく。視線があった瞬間に、きゅっと口角があがった彼女の顔はそれからも何度か思い出す風景の一つであった。
***
音程の是非は、わからない。それでも金管楽器の柔らかい音が旋律を奏でているということは十分わかる。何度かおなじフレーズを繰り返したり、そこがうまくいけば少し前のフレーズから通して練習しているというのはわかる。ただ、御影にはその曲名はわからない。練習の主が
マリエだったとして、聞いたら教えてくれるだろうか。
御影は干していた軍手を掴んで準備室を出る。このまま草木の様子をみて、練習の主を確かめに行こう。もしそれが
マリエであってもそうでなくても、きっといくらか立ち話をして帰宅を促すだろう。人気のない廊下を歩きながら、単一の旋律が、先程の準備室で聞くよりも少し遠く聞こえるのが物悲しく感じる。じわじわと鳴くセミの声も気がついたら変わっていて、季節の変わり目が少しずつ近づいているようだった。
外廊下に通じる出入り口からそのまま外に出、花壇に目を向ければ盛りの向日葵はおしなべて傾いた陽の方を向いている。水を足してやろう、と思って資材倉庫にそのまま足を向け、がらがらと戸を引けば練習の音が一度途切れた。すぐに再開されたけれども、向こうはあまり人がいることを想定していなかったのかもしれない。
水栓に散水ホースを繋げて栓を開け、持ち手のトリガーを引けば涼やかな音と共に花壇に水が出てゆき、乾いた地面を濡らしていく。乾いた土の匂いに安堵感を覚えながら、御影は花壇に分け入り水を撒いていく。畑にも同様に。朝収穫をしたときよりもずっと乾燥していて、御影は明日の朝の収穫対象を検分しながら水を撒くが、きっと明日の朝には今朝のようにすっかり乾いているのだろう。明日の天気予報も、今日と同様に晴れだった。
「よう、真面目ちゃん」
御影が最初の花壇と、それから畑のエリアを経て、水栓の位置を何度か変えたあと、いつだか会った花壇の横に目当ての人物はいた。屋外用のパイプ椅子と譜面台を花壇の横に据えていて、楽器の金色は夕日を照り返している。肩に乗せられた楽器を下ろしながら
マリエは御影先生、と自分を見上げながら名前を口にしていた。御影は
マリエにかからないように散水ホースを花壇に向けながら距離を詰める。いつだって休日は名前を呼んでしまうのに、真面目ちゃん、だなんて声かけをしたのは自制のつもりだった。
「部活、今日はないんじゃねえのか」
「部活はないんですけど、ちょっと集まりがあって学校来たので」
氷室先生居ないから、音楽室の鍵借りれなくって。集まりにも楽器を持ってくるのは確かに真面目ちゃんの真面目ちゃんらしい側面だと思う。譜面台にはスケッチブックに貼られた楽譜と、その前にチューナーが置かれていて、まるでこの間見たときと同じだった。譜面台に吊るされた巾着だけは、前回までの色あせたキャラクターのものからこの間牧場に出かけたときについ買い与えてしまったものに変わっていたが。
「思ったより時間かかっちゃったんですけど、楽器持ってきたし、影練して帰ろうかなって思って来たんです。園芸部の人居ないから、先生も居ないかと思ってました」
「水やりがあるからな、俺はほぼ毎日来てるよ」
ほらな、と御影は手に持った散水ホースを
マリエに見せる。
マリエは眩しそうに御影を見上げ、なるほどですねえ、と返事をする。その顔は確かに出かけたときも見た顔だった。植物園の温室で、彼女は自分と目線を合わせようと上ばかり見るものだからちょっと眩しそうに目を細める事が多い。教室以外で見慣れた彼女の表情の一つだ。
「そしたら、生物室開けてもらえばよかったかもですね」
「ああ……いつでも来いよ。でもな、今日はもうおしまいだ」
もう遅いからな。御影はそう告げ
マリエの頭に手を伸ばしかける。おっと、汚れてるからいけねえな。本当はもう触れられないような気がして――自分の中で、もう無邪気に彼女に触れるのは別の意味合いが含まれてしまう――手を引っ込めようとすれば、自分の腕が影になって
マリエが目を開くのが見えた。
きらきらした瞳が自分を見上げているのを見ると、どうも自分が肯定されている気がしてしまう。きっと触れたとしても彼女はいいですよ、だなんて言って許してくれるのだろう。そして自分は次第に道を踏み間違えていく。歯止めが効かなくなって彼女の本当の意思すらきっと無視して触れてしまう。彼女の青春を自分のために奪い、更には怪しく思った第三者に通報されて、一巻の終わり。そう思って彼女に触れたくなる度に目線を外すのが癖になってきていた。知ってか知らずか、距離の近くなった
マリエは真っ直ぐ御影を見上げるけれど。焼けるような眩しさの視線を感じながら、御影は既に水を撒いた畑の方に目を向ける。
「じゃあ先生、一緒に帰りませんか」
「いいな。早く帰り支度してこい」
「絶対待っててくださいね。わたし、理科準備室まで行きますから」
マリエは立ち上がってスカートのしわを手で払い、近くに置いていたケースに手を伸ばす。バネの効いたロックを外す音を聞きながら御影は花壇の水やりを再開し、楽器をしまい込む
マリエの背中を眺めていた。彼女は丁寧に楽器を所定の位置に収め、蓋を閉じると今度は譜面台に手を伸ばす。ふわふわしたポーチにチューナーをしまい、譜面を閉じると通学カバンにそれらをしまい込む。御影も御影で十分に水やりを終え、ホースを手で手繰りながら来た道を戻ろうとするのだった。
***
西日の差す中で御影は通勤用のスーツに着替え、理科準備室のドアを開ける。廊下には同じように西日に照らされた
マリエがいて、壁にもたれ掛かりながらイヤホンで音楽を聞いていたようだった。手元の端末から目を上げた彼女は同時にイヤホンに手をかけて取り外しながら、あ、先生。と声を上げる。
「さあ帰るぞお」
「帰りましょ帰りましょ」
スカートのポケットにケースにしまったイヤホンと端末を突っ込んで
マリエは御影の横を歩き出す。重たそうな楽器ケースを背中に背負って、片方の肩には鞄も掛けられている。この楽器ケースをいつも下校中の生徒の群れの中から探すのは、御影にとってはもう慣れっこだった。たまに複数似た形のものが並んでいるときもあるが、大抵彼女はクラスメイトであったり部活外の友達――双子の片割れ、ないし男子学生と――と帰宅しているのも知っている。それに対して声を掛けるかどうか御影が逡巡していることを彼女は知るはずもない。
「今日は部活でもないのに打ち合わせだったんだっけ?」
「あ、そうなんです。結構三年生、受験だからってやめちゃったので……」
私のパートも、私と1年生だけになっちゃって。彼女は夕日の中で寂しそうに笑う。だから怖くて、練習したくなっちゃって……。
「来月一週間修学旅行に行くのも、本当は結構怖いんです」
「そんな、高校の修学旅行なんだ。楽しめよ」
「楽しみなんですけど、それより文化祭のことが気になっちゃって……」
去年は2年生がいない間3年生と練習できたのに、今年の子はそれができないからなあ……。彼女は渡り廊下の真ん中で中庭を伺いながらそう呟く。中庭で育つ植物は傾いた陽で大きな影を作っていて、先程撒いた水がまだ葉の上で光を乱反射させていた。彼女の中できっと去年の秋は良い体験だったのだろう。心配を寄せられている後輩が羨ましい、と御影は思う。
もちろん1年生の授業も受け持っているから、その相手が誰かなんて把握しているのだけれど、彼女の心配と気遣いを向けられている事実だけで嫉妬しそうだった。きっとそれは彼女とクラスメイトになったとしても享受できないもので、いつも切実に彼女のクラスメイトになれたらよかったのに、と思う御影はきっと夢の中でも体験することはできない。
「誰と回るとか、夏休み前からみんな話してたからなあ。そんな話で持ちきりかと思ってたよ」
「あはは、私まだ誰とも何も決めてないですよ」
「そうかあ?修学旅行も授業の一環なんだからな」
夏休み前にクラスの後方黒板に張っていた、部屋割の調査票は即日で埋まっていた。あれくらいの頃のホームルームでは彼女はもう少し気楽に笑っていたような気がして、今の寂しそうな顔と比べると手を差し伸べたくなる。もしかしたら自分以外もそう思って既に手を差し伸べている人間はいるのかもしれないが、影練をするような彼女が他人の前でそんな顔をすることはないのだろう。
「……思い詰める前に、いつでも理科準備室に来ていいぞ」
つい伸ばしてしまった手が彼女の頭頂部に触れる。もう仕方ない、と思ってその手に力を込めてわしわしと数往復すると、髪を乱されて怒るかと思えばやっぱり彼女は怒らずに、いつだか前に同じセリフを言ったときのようにありがとうございます、だなんて言葉を返してくるのだった。そのまま靴箱の手前で別れて、小走りに靴を取りに行く後ろ姿を見ながら御影は自分の右手に残る感触を思い出す。今までかろうじて自制していたはずが、触れてしまった。想像通り拒否されることなく受け入れられてしまった。きっと自分はいつか道を踏み外すに違いないと思いながら御影も校内用の靴から通勤用のそれに履き替える。
せんせえー、と玄関口で彼女が手を振りながらこっちを見ていて、御影は靴べらを使うふりをして足元を見ながら表情を隠すので精一杯だった。彼女は自分の行いをどこまで赦してくれるのだろう。自分の我儘で彼女の高校時代の中心に相乗りさせてもらったとしても、彼女はやっぱり笑いながら楽しかったです、だなんて休日の別れ際のように言ってくれるのだろうか。
彼女の高校時代は彼女のもので、自分には二度とこないというのに。彼女が平日に、休日に同級生の男子学生と出かけているのも知っている。きっとあいつは彼女を修学旅行で誘うだろうななんて想像も、バイトが一緒の後輩に修学旅行の話をするんだろうな、とも想像はついている。それでも今日の弱った表情だけは自分に向けられていてほしい――あまつさえそれを保護できるのは自分だけであってほしいと思うのは我儘だろうか。今自分にだけ向けられている彼女の視線が眩しいのは夕暮れによるものだけではないと信じたい。
御影は数回瞬きをして、おう、待たせたな真面目ちゃん、と自制の呼称を思い出すように引き出しから取り出すのだった。
20211214 chloe first post in pixiv and reprint in 20220601.