朝は夜と地続き
とてもとてもせつない話だけれど実際起こってしまったことだからこればっかりは仕方がない。
卒論のために実験、計算、それから入力をしていたらいつのまにか眠っていたらしい。ふと目が覚めて目の前がさっきまで自分が読んでいた文献でとてもはびっくりした。いつから眠っていたんだろう。そもそもずっと作業していたと思っていたのに。すこし切なくなっては椅子の上でくっと背を伸ばした。
「やれ、寝子よ」
「起こしてよ」
めずらしく寝ている人間を起こす道理はなかろ、そんな風に笑ってとなりのデスクの研究員はコーヒーを啜った。大谷くんまだコーヒーある?ときけば頷かれたのではそのまま立ち上がって自分のカップを手にとる。ああ、体が痛い。最近机で寝ることが多くて体がばきばきだ。やることが山積みでつい作業をしたまま眠って、起きてまた再開するような生活になってきている。これではいけない。女子大生なら体感すべきだとおもうどきどきもわくわくも、それから胸がきゅんとするような体験も、これでは未経験のままそのまま次のステップに進みそうだ。
「時によ」
「なあに、そんなに勿体ぶって。私火曜のレポートもう出しちゃったから写させてあげれない」
「ぬしは電車通学だったであろ?時間はどうだ」
コーヒーメーカーからカップにコーヒーを注いで壁の時計に目をやる。その時間は私が今日ここについた時間と同じ時刻を示していた。1時過ぎ。正直な話とっくに終電は無くなっている。
「やだ、どうしよう」
これじゃあ帰れないわ。そうが呟いた声に大谷は不気味に笑うのみだった。
「我は近所だからよいもののなあ」
「ホント、起こしてよね」
仕方ないから今日は夜通し作業をして始発で帰ろう。幸い今日は…いやもう土曜日だし、問題はないはずだ。着替えならTシャツがあったはずだし、近くの漫喫にシャワーでも借りに行けばいいだろう。
「人の不幸は面白き哉」
「全然面白くないよ」
どうしようかな。そう言っては一口コーヒーを飲んだ。ん、まだあったかい。いれたばかりのようだった。そういえばいつも大谷くんはコーヒーを入れていたっけ。
「私、今日は徹夜で作業して帰ろうかな」
「なら我も居てやろうか」
「あはは、妙なとこ優しいよね」
コーヒーとかもそうだけど。そういってはデスクに戻る。さらさらと隣の大谷がノートをまとめ直している音だけが静寂のなかで響く。大谷は基本的にアナログなノートの取り方をしていた。テスト前はいつもきれいなそれを見つつ勉強会を開いていた覚えがある。どうしてあんなに短時間できれいにノートが取れるのか、はずっと不思議でならなかった。おまけにその字も綺麗だった。三成もノート派だったがあまり綺麗とは言いがたい。に至っては基本的にPCでノートを取る人間だったのでレイアウトも何もなかった。ぬしの字は見覚えがないな、だなんてからかわれるのもしょっちゅうあることだ。
「あと10分したら1時間くらい出かけるわ」
「この状況でか」
「漫喫でシャワー浴びて漫画よんで帰ってくる」
「ならば」
うちに来やれ。ノートをまとめ直す手も止めずに、それからではなくノートを見たまま大谷はさらっとそう言った。え、とが呟くと同時にもう一度うちに来やれと大谷は繰り返す。
「客用のふとん位は用意してやろう」
「や、でも」
「机で寝るのは体が痛かろうて」
おまけにこの4年間ぬしのすっぴんなど見飽きておる。そう言われてにはもう何も言い返す余地はなかった。流石にゼミ旅行やら何やらで素顔は晒してしまっている。そして机ではなく、ノートではなく、ふとんと枕が恋しいのは確かだった。
「いまなら風呂上りにビールも付けてやろうて」
「おおたにくんだいすき」
そこまでの条件を出されたら行くほかない。なんでそんなに優しいの?何か企んでる?そう聞けば大谷はひひひ、と笑ってコーヒーを口に含むだけだった。
「大谷くん、でもいいの」
「ヨイ、ヨイ。明朝ぬしははよう帰るがよかろ」
「う……そんな優しかったっけ、泣きそう」
「起こさなかったのは我の責任よ」
わあ、そんな表情では大谷を見つめる。
「褒めても電車は来ぬぞ」
それからしばらくして、コンセントやら戸締りやらをきちんと確認してから二人で研究室をでた。置いておいたTシャツやらもいっしょに持っていく。実験のときのために置いておいて本当によかった。それから今が夏であるのもとっても好都合だった。湿度が高い、すこし息苦しい夜のなかに二人は足を踏み出す。キャンパスをでればそこはもう住宅街で、なんだか縁日の夜を思い出した。夏の夜にだれかと歩いているのなんて久々過ぎて懐かしい。
「もうすぐ院試だね」
「ぬしは余裕であろ」
「危ないのは黒田くんだけでしょ」
ははは、と空気と真逆の乾いた笑いがふたりから溢れる。この前のテストだって、うちの研究室で唯一豊臣先生の科目を落としていたのは彼だった。しかも日付を間違えるだなんてミスで。
「……てっきりぬしは他大に行くと思うておった」
「ちょっと前までそのつもりだったんだ」
もうやめたけど。そう言ってはからからと笑った。私がやりたいのはむしろこっちじゃないとだめなの。豊臣先生の研究室から離れられないなー……だなんて。石田くんみたいね。そう言ってふたりはもう一度声を揃えて笑った。次の角を右ぞ、としっかりアナウンスしながらふたりは共通の話題に花を咲かせる。院試も、卒論のテーマも、いつはなしてもとどまることを知らない共通項だった。同じ研究室にいて、いままでずっと同じ専攻で一緒にやってきたのにお互いの研究内容はまるでちがうのが面白かった。自分にかかわる話なんて一度だってしたことも、してもいなかったけれども。
「居心地がよすぎるのもあるよね」
「寝て終電を逃すほどにな」
「やだ、そういうところ意地悪」
「ここよ」
大谷くんの意地悪、といいながら後を付いていたらいつのまにか彼の家についた。ここらへんには多い学生マンションの一室が彼の家らしい。4階だとのアナウンスに従いは大谷のあとに続いて階段を登ってゆく。すこしだけヒールのあるの靴が響いたような気がして申し訳ない気分になる。4階分のぼってそれから廊下をすこし渡って大谷は足をとめた。ここよ、大谷はそう言ってに視線を投げる。
「大谷くん変なことしないでよね」
「やれ、ぬしはそんな魅力があると思うてか」
「ひどい!……ありがとね」
靴を揃えて上がると、そこは男子学生らしく適度に荒れた部屋だった。なんだか意外、とが言えば、野宿をしたいか?と大谷は囁き、はきちんと綺麗なお部屋とお世辞を返すのだった。夜はまだまだこれからだ、と言う前にぐっすり眠ってしまうのはご愛嬌である。