鍵のかかる部屋
ギィと軋んだドアの音がして、マリエはkto,とドアの方向へ呼びかけた。目線は手元の本から逸らさずに、どうせ知人の誰かだろうと思っての行動だった。そもそもこの部屋に自分がいること自体限られた人間しか知らないはずで、それを知らない”一般人”だとしてもこちらが言葉が通じなければ立ち去るだろうと思っての事だった。
「その言葉はやめろ」
「あら、会いに来てくれたの」
マリエが本から視線を上げれば、ドアのすぐそばにはトレードマークとしては幾らかインパクトの強すぎるテンガロンハットを手に持った男がいた。ここから遠く離れた大陸に異動したと聞いていたのに。そしてこの人は私の居場所を知るはずがなかった。ここにいるということは何か自分の任務にまつわる誰かが吐いたということだ。中米の"同僚"が前のゼロの居場所を吐き、死んだことは知っている。それ以外の誰かまた別の人間がこの男の手にかかったということだろう。
「前の任務が抜けないというのは諜報員失格だ」
「あなたのロシア嫌いも相当ね」
返される言葉を意に介さず、男はかつて住んでいたかのように自然な動きで手に持った帽子を壁のフックにかけ、襟を立てて着込んでいた上着すらも脱いでマリエの向かいの椅子の背にかける。何を脱いでも黒ばかりなので殺風景な部屋がもっと殺風景になった、とマリエは本を閉じながら思った。
「せめて久々に会いに来てくれるなら花でも買ってきてくれたら嬉しいのに」
「捨てる時に怪しまれるだろう、それに」
こんな風体で花を買ったら花屋を殺さざるを得ん。そう言ってスカルフェイスはマリエの手元の本を取り上げた。彼がマリエの手元の物を取り上げる時は大概茶でも入れろという合図で、どれだけ時間が経ってもその習慣は変わらないことが不思議と面白かった。彼にアイデンティティはないのかもしれないが、行動のアイデンティティはある。本人は自覚がないのだろうが。マリエは彼女のスペアのマグカップを取り出し、ポットに残っていた紅茶を注いで彼の前に置いた。仮住まいであるここに私物は必要以上にない。暇つぶしのための本と衣類、それからカップが2つとポットが1つと茶葉の缶、これは今回の任務に対する上官の趣味だったが、と数枚の皿とカトラリー、寝具くらいのものだった。まだこの直前の、ただの市民としての潜入任務のほうがよっぽど人並みの生活をしていたように思う。
「アフリカの花は色鮮やかではなくて?」
「私が赴任したのは観光目的ではない」
「言っておいてなんだけど、貰っても得体のしれない虫がついてそうで嫌だわ」
カップを口につけていたせいで彼が笑った息がいつもより響いて聞こえた。冷め切ったそれを明らかに冷ます必要などなくて、フ、と音がしたのは確実に笑った音だろう。マスクのせいで、彼の表情というのは口元が見えないと理解の余地がないのだ。
「”ゼロ”の任務中にシオランを読むのは随分と趣味が悪い女だ、あまつさえ母語とは」
「知っているのね」
「お前の居場所くらいはな」
「喜んで良いのかわからないわ」
あのアパートだろう、そう言ってスカルフェイスは視線を窓の外へ向けた。何もかも知っているのだろう、私がこの距離からあのアパートを日がな一日観察していることも、それから所属が宙に浮いていることも。
「あなたのせいでこんな所に閉じ込められているのよ、あなたが私を置いてコスタリカに行くから」
「物事にはそれぞれにタイミングがあるものだ」
「私はあなたの異動をここに来てから聞いたの」
「だからお前はここにいるんだろう、need-to-knowの原則から行けば、死ぬか飼い殺しにされる他ない」
いい子だ、そう言ってスカルフェイスは手袋を外さない手で私の手に触れる。一体何ヶ月ぶりの感触だろう、私がゼロ指揮下の駒のひとつとして潜入に行くまえだ。それから何も知らない間にXOFはゼロの指揮から外れて、この男と共にアフリカに沈んだ。私たちは何も知らされないまま任務を終え、所属を失ってなおゼロの駒になっている。
「私を連れ出すか、殺すかして」
「時が来ればな」
「ゼロのために死ぬ気はないの」
「少しでも可愛げがあるなら、髪でも編んで窓から垂らして待っていろ」
スカルフェイスの手が私の指を包み込む。掌紋すら失った手は辛うじて暖かく、人としての体を成していた。アメリカでもなんでもない、ただのマリエの祖国で、意に反する者の監視者としてわざと英語訛りの下手な母語を話す日々にはもう飽きていた。この男の狙いは知っている、それが成就すればいくらか自分が楽になることも。
「編める長さになるまで待つならリンゴでも齧って死ぬわ」
「それは幸いだ、虫食いのリンゴなら手持ちが有る。事が早い」
スカルフェイスの指は離れ、彼は黒い布の間にその手を突っ込むと薄い黄色の液体の満たされたアンプルを出して机に置いた。シードルか何かだと思えば良いのかもしれない。おそらく一度で飲みきれる量だ。
「死んで私を待つんだな」
私はその卓上のアンプルを手に取り栓を切る。口をつける前にその持ち主を見つめればスカルフェイスはただ穏やかに見つめ返してきた。本当に死んだ所で、彼の手に掛かって死ぬならまだ悔いがない。生ぬるい味のしない液体が喉を滑って消えた。
「いい子だ。今のうちに現世にお別れでもしておくんだな」
プラセボかどうかは知らないが喉がくすぐったい気がして私は咳払いをした。目の前の男はそれを見て満足そうに立ち上がって上着を羽織り、マリエと私の名前を読んで彼の母語でLa revedere.と言い残して帽子とともに消えた。
翌日私のいたアパルトマンは小火を起こし、私によく似た女性が焼け出され、名乗っていた名前で死んだというのを更に翌日、香辛料ばかりが積まれて入り組んだ街の紙面で読んだ。米国での”処理”についてもゼロの移動を以って死を認識されている旨を傍受したことを、私は向かいで紅茶を飲む新しい”上司”から聞いた。
20151031 chloe,