ややこや

これからどうするの、とでも言いたげなマリエの表情を大谷は目を細めながら眺めていた。いつもの大谷ならば言うであろう軽口すら出てこない。ただ、ひたすらに沈黙の中で会話もなくこうして立ち尽くしているだけだ。白い彼女の手が大谷の上着の端を掴んでいるのは知っていた。そしてそれを引っ張る力が徐々に強くなってきているのも。吉継さん、と声にならない息が二人の間に溢れる。物言わぬ口と対照的に饒舌なその目から視線を外して大谷は彼女をそのまま何も言わずに抱いた。なんだか慣れないその感覚に、物を落とすかのような気すら起きる。上着の端から背中に彼女の手が移っていて、なんだか自分が背中に手を回されることなんて数える程しかなかっただけに不思議な気分だと大谷は思う。いつもかすかに覚えのある甘い匂いがして目の奥が少しくらくらした。
「やれ、マリエ
大谷の背中の上着の生地がぎゅっと引っ張られた。なあに、と自分の真下から声がする。
「愛いの」
すこしかがんで、彼女に顔を近づければ、くすぐったそうに目を伏せて彼女はされるがままである。うくない、だなんて訳の分からない言葉が聞こえる。この部屋はとても静かだけれど1mも離れればこの二人の声は聞こえないだろう。何故こんなに静かなのか、本人たちにもわからなかった。肌の上を声が滑るかのような感覚。
「その反応が愛い」
「そしたら、吉継さんがそうさせてるのよ」
「ヒヒヒ、主は口が上手い」
そのまま頭からペロリと食べてしまおうか、そんな風に思っていたのにこれでは。いつもこうして調子を崩されるのが常で、きちんと思い通りにことが運んだのは何回あっただろうか。策は練れども、それがうまくいこうとも、いつもこうして終わるのだ。
「ねむくなってきちゃった」
「主はやや子か」
「だってなんだか安心しちゃうから」
お昼寝しようよ、だなんてマリエは顔を大谷の体にねむたげに摺り寄せて囁く。もしここがソファだったら、彼女はもう睡魔にすべてを任せていただろう。雨の日の昼下がりになにもすることがないまま、ふたりは湿度で下がらない体温を所在なく投げ出す。
「ヨイ、ヨイ。寝子は寝子らしく寝るがよかろ」
「でも吉継さんがコドモ扱いするからなんだかな」
「幼い身でよう言いやる」
「同い年でしょ……やだ、もう」
「そうぐずるでない」
実際にこどもにするように、背中から片手を離して髪を梳けばやだやだとこどものような振る舞いをする。なんだか本当に大きなこどものようだ。大谷の周りには、少なからずやこういう人間が多いような気もしないではない。だからこそ、こんなふうに彼女を扱ってしまうのかもしれないが、大谷もマリエも実際それを楽しんでいた。
「よしつぐさんきらい」
「ん?聞こえぬなあ」
「おやすみなさい」
もうねむいの、そう言って去り際のひとことをはぐらかしながらマリエは大谷にまわしていた手を解く。さりとて大谷は離さない。寝室へ行こうとしたマリエは今度はさっきと逆向きに大谷に囚われる。
「吉継さんもお昼寝しよ」
「ほう?好きでなくてもか」
「私のことコドモだとおもってるなら妥当かなって」
今度からパパって呼んであげる。パパなら一緒にお昼寝はするでしょ。そう言ってぎゅうと大谷の腕を彼女は抱く。表情はうつむき気味で見えない。不機嫌なのもコドモ故、だなんて呟けばもう一度はっきりパパなんてきらい、と返された。なんとも、機嫌を損ねたらしい。
「そう、呼ぶな」
「吉継さんなんてそれで十分」
大谷は緩く彼女を捕まえていたその手をぎゅっと引いてマリエを抱き寄せる。まるで人形か何かのようにマリエは抵抗せずに大谷の腕の中にすっぽりおさまった。不機嫌ながら反抗はしない。
「して、疳の虫は我と寝るか」
「うん」
いくらか落ち着いたその声にすこし安堵しながら大谷はその手を緩める。先に行きやれ、と付け加えばまた同じような答えが返ってきてその温かさが腕から離れた。なんとも、名残惜しい。
水を一口飲んでから彼女のあとを追う。彼女は上着を至極だるそうに脱いで無造作にベッドの上に投げると、その端に潜り込んでさっさと目を伏せるのだった。逆側で大谷がベッドに潜れば、ちょうど抱けるくらいの狭さである。
「来やれ」
「うん」
大谷が手を伸ばして呼べば、その上に首を乗せて無精に向きを変える。髪をまとめたままで痛くはないのだろうかと思いながらも口には出さない。彼女はもうすでに意識を半分手放しているのがすぐ見てわかるからである。いつものように化粧がつくからと一定以上近づいてこないのが尚更彼女の表情をはっきりと見せて来て、もどかしくなりながら大谷も目を伏せた。
「吉継さん」
「なんだ、なんだ。もう機嫌を戻したか?」
「今日かえりたくないなあ」
「めずらしいの、主がそんなことを言い出すとは」
「ぎゅっとしてくれたら帰るね」
「帰らずともいいわ」
来やれ、構わんと言えば衣擦れの音と温かい質量が自分に触れたのがわかった。やたらと今日はこうして寄ってくる。誘っているのかと思ったが、自覚もないだろうし他意もないのだろう。
「連休はどっか行こ」
「どうした」
「温泉とかどうかな」
さみしげな色でそんな事を言うから、目を開けて表情をうかがえどもその目は伏せられたままだった。眠る気なんてほんとうはないのだろうに、声はすこしぼんやりしていた。
「やたら淋しいの、おかしいくらい」
「メデタキな」
「全然めでたくないよ、今ですらなんでか淋しいの。理由がわからないけど」
だらだら甘えちゃうと思ったから会いたくなかったのに、でもこうして甘えちゃう。そういってマリエはぐずぐずと音以上言葉未満の音を立てながら額を大谷の首に埋める。