死にいたる病
足立が見送りを拒否して稲羽に発ってから季節は3つばかり進んで、いつの間にかクリスマスになった。
あれからマリエはプライベートを半ば捨てて働き、大小併せて計12の案件を成功させて有給を取った。
上司はよく働いていると高評価を下し、ロンドンのオフィスへマリエを出向させてくれた。新年度からマリエは東京を去る。
マリエのアシスタントに入っているキャシーはそれほど働くマリエを心配してもっと休暇は長く、それかこまめに取るように進言した。同期はキャシー同様に心配する者もいれば、負けてられないとばかりに仕事に勤しむ物もいたり、まちまちだった。早くに楽隠居したいのだろうと言う人間も多かったし、ロンドンのオフィスに行きたいだけだろうと一蹴する人ももちろんいた。
もっとも、仕事はいくらでもあった。マリエのほかの人間も、今のうちに働けるだけ働いて、早めに引退するか一財産を築こうとしているかのどちらかだった。
マリエがそんなにもハードに働いていた理由はどれにも当てはまらないのだが、それは誰の知るところではなかった。
単にマリエは寂しかったのだ。ひとりには少し広い部屋に帰ることも、忙しさから開放された瞬間に足立がいないという現実と向き合うことも。
たとえば、冷蔵庫を開ける。なかはあまり物が入っていない。自炊の回数も少ないから仕方ないことではある。しかしそこではない。
半分ほど空いたワインボトルだとか、マリエは使わないドレッシングだとか。それらがじわじわとマリエを孤独に追いやる。ひとりにしては大きいベッドも、テーブルも、ソファも何もかも、あんなに楽しみながら二人で考えてコーディネートしたこの部屋は今やマリエにとっては寝る以外の場所ではなかった。
賞味期限の切れたドレッシングを捨てようと手に取ると足立のことを思い出してついそのまま元の位置に戻してしまう。ねえマリエ、これ買ってもいいだろ。えぇ、私それあんまり好きじゃない。いいよ僕が使うから、ね。
そんな遠い過去のスーパーでの出来事を思い出しては涙ぐんで元に戻す。それを繰り返してこの長い年月が過ぎた。
この部屋の、この家のすべてのものが足立を思い出させる。これはもうここを離れるべきなんだろうか。そう思ってもマリエはここから離れようとは思わなかった。単に会社まで近いからというだけではなく、ここを離れたらもう足立とは会えないような、そんな気がしたからだ。私がここにいなかったら足立はどこに帰ればいいんだろう。ほぼ勘当されて、そして私も彼を見捨てて。あの時にどうして私は付いて行かなかったんだろう。そんな、仕事があるからといっても……。プロポーズされたわけでも無いけれど、いつか、そういつかは結婚しようねって言っていたのに。それだけがぐるぐると回ってこの一年が過ぎた。もうそろそろ苦しいとさえ思う。電話を掛けても何時だって留守電、赴任先と聞いた街では物騒な事件ばかりが起きていると聞く。家に帰ったら少し食事をしてシャワーを浴び、そのまま寝て朝も早くから出勤するせいで殆どロクにニュースも新聞も読んでいないけれども、それだけは気になった。ねえ透、元気?時間が出来たらまた連絡ください。そう何度留守電に入れたことか。一度足りともそれは帰ってこなくて、いつからかマリエはそれをやめた。年賀状も出すかどうか迷っている。クリスマスの今日も仕事なのかも知れないと思うと連絡すらなんとなく怖かった。何回一緒にクリスマスを過ごせただろう。きっと学生時代だけだ。それを思い出すと尚更連絡をとるのが怖かった。
誰、きみなんて、しらないよ。
そう言われてしまうかもしれないという思いが強かったのかも知れない。
もうそろそろ此処の荷物も纏めなくてはいけない。服以外殆ど処分すべきだろうか。ちょうどいい機会ではあるだろう。服と、本と、それくらいのものだろう。食器とかはきっと実家に送ればいい。家具は……売ってしまうか。
もうすべての準備は出来ている。新年になったら此処を立つ。もうオフィスにも寄ることはないし、あと一週間足らずで東京の友達にも連絡しきらなくてはいけない。あっちに行ったらやっぱり家を探さなくてはならないし、当分足立のことも忘れられるかも知れない。
少なくとも今よりかは、ずっと気分的にはマシになるだろう。
足立にここを経つことをいつ連絡しようか。でも年末こそ忙しいだろうか。この部屋にいると足立のことばかりを考えてしまって良くない。いつもは仕事、仕事で居ないものだからこんな気持ちももう一年が終わろうとしているのに慣れやしない。
明日にはきっと連絡しよう。そう思ってマリエは手に持っていた携帯を床に置いた。一人で寝そべるにはすこし大きいソファに身を投げながら久々のテレビを点ける。間接照明でほの暗い室内にその明かりはすこし強すぎたが、程なくして慣れてからマリエは音量を絞る。思えば最近は株価しか見ていないと思いCNNから日本のニュースへと局を変え何を目的にするでも無く画面を眺める。東京でクリスマスイルミネーション、東京タワーのライトアップ、なんて平和なんだろう。そう思いながらいつの間にかマリエは眠っていた。その日に足立の赴任している稲羽市の事件が解決したというニュースを見る前にマリエの意識は深く深く沈んでゆく。
マリエがその事件のことと詳細を知ったのは一週間後の飛行機の中で見た新聞のベタ記事でだった。
もう帰れない。もう東京には帰れない。もうあの頃にも帰れない。何かが決定的に崩れ落ちた。あの人がこうなったのにはきっと私の責任もあるだろう。それなのに私は会いにも行こうとせず、そしてこれからも行けはしない。この罪はきっと彼のものだけではない。
あの春に放置したちいさな彼の絶望の芽を私は気づかない振りをして放置した。それが大きな絶望に育って今に至るのだ。私たちの足元に広がっていた絶望を放置したこの罪は、きっと法でも裁けはしない。