猫屋敷あもと同棲する同性の恋人についての考察 #1
「た、だ、い、ま」
ねえわたし、玄関でもただいまって言ったよねえ?そう猫屋敷は薄い大理石の床をぺたぺたと裸足で歩きながら、自分を一瞥もしない女の作業する食卓に近寄る。この家に住み始めてから家に帰ってすぐ靴下を脱ぐ癖がついた。なぜって靴下だと滑りやすいし、この女のようにスリッパを履くのはなんとなく収まりが悪くて嫌だったからだ。薄暗い部屋の中で、彼女はパソコンに向かって無彩色の指をパタパタと動かしている。彩色がないのはこの部屋すべてそうで、白とグレーと黒、あって紺色だけの部屋で自分だけが極彩色を放っているのを知っている。
そして猫屋敷は彼女がそれを狙っているとも、自分が家を空けているタイミングだけ色のある花が活けられているのも知っていた。
「おかえり」
「ただいま。ねえ、これで三回目」
「機嫌悪いね」
手元に自分の身体で影を作れば、やっと彼女は視線をパソコンの画面から外した。拙い赤線だらけのWordが開かれていて、なあんだ、仕事してたのか、と猫屋敷は画面から視線を外す。こっちはもう学生対応で疲れてしまったのだ。家でまでそんな仕事の片鱗を感じたくない。そう思いながらパソコンの隣に置かれた彼女のマグカップを掴んで、勝手にその中身に口を付ける。冷めたカフェインの味がアルコールで輪郭の滲んだ意識にダイレクトに染みる。肩書はそれぞれ似通っているのに、仕事のスタイルもアウトプットも全然違うから不思議だ。おいで、とばかりに椅子を引いて彼女は自分の膝を指す。猫屋敷はマグをもとに戻して、向かい合うように指された膝に跨る。ギイ、と明らかにオフィスチェアが抗議の音を上げているが、この家で誰も気にする人間などいない。
「キスしてよ」
「歯を磨いたらね」
「ガッコで磨いてきたし、おんなじコーヒー飲んだんだから変わんないよ」
だめ。あもちゃん絶対にその後なんか食べてるから。そう言って彼女は膝の上の猫屋敷の髪の毛先を指で梳く。まあまあその見当はあたりだった。自分のできることをやらない学生にばかり当たってイライラして、さっさと家に帰りたかったのにタクシーも捕まらなくて勤務先の大学から家まで歩く間にコンビニが3軒、それら全てでキッチュないちご味の棒付きチョコレートを買って即時に齧って飲み込んだ。1つの容器に3本入っているから、計9本189キロカロリー。おまけのシールは思い出したらあいつのノートに貼ってやる。
ブリーチとカラーを重ねてなお、異常に手を掛けられた猫屋敷の髪は、この女が執着する猫屋敷の要素の数少ない一つだった。たまに週末に二人でソファにいると、小さい三つ編みを捩られている時がある。猫屋敷本人よりもヘアケアに拘るくせに、自分の髪は適当なんだから、と思いながら猫屋敷は彼女の自分よりもよっぽど短い毛先に指を伸ばす。
「神経質〜」
「あもちゃんが適当なんだよ」
「でも色々舐めるのはそっちのほうが好きだよね」
「過度の攻撃性が認められますね。何があったの」
彼女の手は髪の毛先を整えて、そのまま上着のなかに滑り込む。お気に入りのジャケットは年中似たようなのを着ているが、実は季節によって異なるのだった。今日のはメンズのギャルソンの古着で気に入っているが、彼女の趣味ではないのを知っている。ジャケットの中から腕を抜かれて、脱がされて残骸は適当にテーブルの上に置かれる。皺になんてならないからいいのだけれど、今日はアトリエに長居していたし、講評で飲んでいたから彼女の嫌いそうなタイプの埃ばっかり吸っていそうなのに。丸首のカットソー一枚では、空調が効いていたとしても少し肌寒い。目で訴えても目の前の彼女の目からは何も伺えず、同僚を思い出しては少し寒気が走る気すらした。
「そうだな、全てを捧げてるのに、作品をパートナーが見てくれないこととか」
「あもちゃんの作品、薄っぺらいからね」
「死人にしか評価をしないもんね、センセイは」
「手厳しいなあ。でも一回、書いたげたじゃない」
彼女とのきっかけは、彼女の書いた評論記事だった。日本語ではない媒体のそれに掲載された記事のうち、自分への論評はほぼ1文で、ちょうちょ結びらしく、幼い未羽化のかわいさ、と表現しながらもその文章は明らかにキャプションに込めた薄っぺらいゆめかわいさを暴力的に破っていて、内心の世間への呪詛を暴かれるような気持ちで所属を確認して殴り込みに行った。奇しくも自分の所属と近くの大学で働いていて、不用意にも電話番号も内線番号も研究室のサイトに晒していたので、記事の翻訳を読んで1時間後には、猫屋敷は彼女のオフィスでクッキーを食べていた。
「光栄です、猫屋敷あもさん」
当時非常勤だった彼女はそう言いながら――与えられていた研究室の机からよねむらのクッキー缶を取り出し、コーヒーを淹れて自分の前に出す。まさか英語でもないサブカル方面への寄稿まで読まれているとは、流石ですね。出されたクッキーの選択からもいやなやつ、と思っていたのに、それから度々、公開講評なり美術手帖の打ち合わせなりで顔を合わせてしまい――気分転換に行った金沢の美術館で偶然会ってからはすべて転げ落ちるように関係が生まれてしまった。
アトリエをきちんと持ちたい、と言う話をしたら家二軒の家賃なんて馬鹿らしいですね、だなんて言うものだからなりゆきで一緒に暮らすようにまでなってしまった。もちろん都合のいい立地であることも大きかったけれど――女二人で住むには片方が持ち家というのは割と大きな理由にもなるのだ。殊更自分のような半分芸術家の身分では。
「私は全部をあげてるのにね、私には全部を見てくれないパートナーしかいなくて」
「不満?」
「不満だけど、それ以上に自分かわいさだけで出し惜しみしてる学生がたくさんいて、むかついてるだけ」
「ふふふ、無い物ねだりだ」
カットソーと髪の間を、彼女の手が動く。寄る方なく猫屋敷も彼女のブラウスのボウタイを引っ張って解く。彼女のワードローブにこういったリボンタイが増えたのは明らかに自分の影響で――自分は着ないがリボンを着せるくらいしたかった――おおよそ冬場の出勤の時はメーカーも色も違うそれらを着ていることが多く、こうしてリボンを解いたり、朝は結んだり、そういったことをするのが一種の楽しみだった。リボンを結んだ時点で彼女は私の作品なのだ。
「見てくれないならあなたとのセックスでも作品にしちゃおうかな」
「キャプションに寄稿してあげよう」
「じゃあ、私の棺を作品にしたら?」
「……死んでるつもりなら評論を書いてあげようかな」
言ったよね?そう言って猫屋敷はリボンタイを引っ張って彼女の顔を寄せ、乾燥した唇に口付ける。あもちゃん、と静止する声がしたけれどどうでもいい。こんなに乾燥してさ、と思いながら何度か啄むようにキスをすれば帰りに塗り直したグロスのラメが彼女の唇に写っていた。似合わない、と思って指を伸ばせばちろりと赤い舌が覗いて猫屋敷の指先を舐める。
「手、洗ってないけど」
「別にいい。歯磨きしてない時点で一緒」
「私、やっぱりあなたのそう言うところが好きだわ」
「どういうところ?」
「出し惜しみしないのと、訳わかんないルールがあるところ」
それは光栄、と言いながら彼女は自分の手の甲で唇を拭っていた。ラメがちらちらと口の周りに広がっておかしいことこの上ない。
「図録と新聞記事に見開き一枚ずつ記事が欲しいなあ」
「ふうん。本当にやるなら見てあげるし、記事も書いてあげる」
「リボンの棺に眠る芸術家、猫屋敷あもになる」
「かわいいね。それなのに私に記事を書かせるんだ」
リボンを解いたら産まれ直しちゃうみたいだね、だなんて意地悪なことを言う口はどの口だ。私は呪詛を抱いてかわいいかわいいラッピングの中で眠るのだ。いつだってリボンをぶち破ってくるのはあなたしかいないでしょう。でもそれは言わずともきっと意図はわかっていて、かわいいだなんておじさんに書かせるために彼女はきっとぼろくそに自分の批評を書く。多分きっと私はそれをわざと人前で読んで、怒ったり泣いたりして――猫屋敷あもらしさを演出するのだろう。かわいいは、こうして作られる。
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20220126 chloe first post in pixiv/twitter and reprint in 20220601.
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