夜の灯りの

日も暮れて随分経った時間に、閉めきった窓の向こうから絶えず低い猫の鳴き声がして今年もこの季節か、と思いながら岸辺露伴はカルトンを持つ。帽子にマフラー、そしてコート、指先だけ開けた手袋を身に付けてベランダから外に出ると、家から少し出たところ、ちょうど街灯の明かりの下にお目当てはいて、露伴は音を立てないように家の外構に座り新しいページを広げて鉛筆を走らせる。いい、いい、真上からの光の陰影が、そして雪に照り返されているのもなおいい。視線の先に重なる猫をみては描き、逃げ出そうとしてできない猫をただひたすらに紙の中に収めた。なんてったって期間が短いからな、と露伴は足先が冷えるのも厭わずにいる。手元は自分の家の玄関先のせいで十分に明るく、対象も照らされていて、それから雪のせいでか全く気付かれていない。これ以上ないスケッチ環境もなかった。あの下の猫には見覚えがある。来春には増えてうちの庭を荒らさないといいんだがなぁ、荒らされた所で何かしらの糧にはなるだろうが。
車の音で猫が驚いて飛んで逃げてしまったので、岸辺露伴も家に帰ることにした。ペアガラスのベランダの窓を開ければ温かい室温が圧を伴って露伴の体を覆い、鼻先と指先を赤く温めた。露伴は画板を作業台において手袋だのマフラーだのの防寒具を適当に脱ぎ、適当に外気で払ってはコート掛けに吊るす。すこし紙が湿った気がするので乾かすことにしようと思い立ち、フィキサチーフをふりかけてから紙を広げたまま乾かすことにした。今日の作業はとっくに終わっているから十分だ。
「寒い風がきた」
「この部屋は十分暖かいだろ、それに君はもう少し厚着をしろ」
「いやあ、いきなり外でていくのはおかしいってば……」
またリアリティの探求?とマリエは薄着のままベランダの鍵を締めに露伴のそばに寄る。鍵に触れてはつめたいだなんて至極当然な感想を漏らしながらそれを回して締めると、彼女は露伴の服に触れて再びつめたいと漏らした。窓の外を眺めているがもう猫はいないし、そもそも映るのは自分の顔ばかりだったから、露伴は当たり前とでもいうように自分の描いたデッサンを指し示す。
「猫がいたからな」
「こんなに寒いのに猫かあ、やっぱり寒いと重なるんだねえ」
「ハァ?」
「ええ、二匹いるでしょ?」
まだらのと黒いの、とマリエは露伴の絵を指し示してそう当然のように言った。たしかにそうだ。まだらのはこの地域によくいる猫で、この間マリエと買い物に行った帰りに一緒にみたので覚えていないわけはないだろう。露伴は自分の声に軽い軽蔑の色が乗っている自覚はある。けれどもその乾かしている絵を手に持って彼女の横に立ち、優越感をさらに乗せて話を続けないわけはないとばかりに問いただしてしまう。
マリエ、お前さあ、これがなんだか分かってないとでもいうわけ」
「猫でしょ……」
眉を寄せながらマリエは露伴の顔を見上げて言った。二匹の重なる猫の絵は見ずにだ。3カット描いたんだからもっと見ろ、とも少し思っていた。それよりかは内容についてのほうが大切ではあるけれども。
「僕にカマトトぶったって、今更何もいいことはないぜ」
「ええ……ああもしかしてそういうことなの?」
「そういうことが何を示してるか知らないけど、今は猫の発情期で、僕が描いてたのも猫の交尾。まさか知らないとは思わなかったけど」
これだから都会っ子は困るよなあ、と自分のことは棚に乗せながら露伴はちくちくと眼下にいるマリエをからかう。ここに越してきて5年経つ前に十分東京でも見た覚えがあるけれど、まあそれは土地の違いかもしれないし、向こうでは街中に猫を見ることも少なかったように思う。露伴がよく原稿を持ち込んでいた都心ど真ん中のビルの真裏にある神社には猫がうようよいて、どの冬かは忘れたが見たことだってあったのだけれども。
「普通そんなの見る機会なんてないわ」
「僕がリアリティを追求しても知らないんじゃあ楽しめないだろうに」
「もう、露伴の作品には絶対出てこないでしょ……」
ぐずぐずとマリエは頬を赤らめてソファに逃げ帰ろうとするので露伴はすかさずその部屋着の腰を抱き、机にスケッチブックを放ってその体を後ろから抱きしめた。
「いい機会だから無知な読者に教えてやるよ」
「いいってば、早くソファでお茶でもしようよ」
「いや止めないね。動物ってのは、猫も大体こう言う風に後ろからするんだ」
もがく腕をうまく自分の腕の中に収めて露伴はそうマリエに言い聞かせる。顔は近く、視線は交わることはない。はいはいにゃんにゃんとふざけた返事ばかりが返ってくるので、いなされてたまるかとばかりに露伴は進行方向をソファから別の所にしてやろうかとも思うが、一番近い家具が作業台なのが唯一の問題だった。マリエだろうが自分だろうが、作業台で何か別のことをしたくはないし、こちらも、台も、汚れることだけは癪に障るからだ。しょうがないとばかりに歩みをソファの縁に向け、露伴はゆっくりと進んではマリエを焦らす。
「あと大体猫は首を噛むし、メスは刺激がないと排卵しないから余計にギャアギャア鳴くのもあるか」
露伴はソファの縁にマリエの肩を押し付けてぐいと前傾させる。腹部に片腕を回しているので姿勢を取ることだけは簡単だった。さらにそのマリエに寄り添って首の根元に歯を立てる。これはしょっちゅうやっていることだから特に感想はないと思ったのに、やめてよおだなんて言う声が噛んだ瞬間に細くなって途切れたので案外そうでもないらしいということだけが分かった。リアリティというよりかは普遍性の問題だろうか。
「もういい、私は猫じゃないってば」
「はいはい。わかったわかった」
あまり妙な姿勢を取り続けるのも考えものだと思って腕を離せばマリエは一度膝をついてから立ち上がってキッチンに消えてしまった。さもありなん、ちょっと怒らせたかもしれないなと軽く反省をしながら露伴はソファに沈み、勝手にマリエの飲みかけのコーヒーに口を付ける。少し冷めたそれはまだ十分温かいし、量も残っているのにどうしたというのだろうか。彼女の読みさしのファッション誌はいつまでも浮ついた、露伴にとってみればリアリティのない一ヶ月を提案していたし――全く着回しメインで、こうも空想じみた生活を提案する意味がわからないと彼は常に馬鹿にしていたのだ――、開きっぱなしのそれを放置していくのもめずらしい。
「ああもう、私のコーヒー飲んだでしょ」
せっかく露伴の分も入れてあげたのに、と柔らかい靴下のせいか音もなくマリエは後ろから現れて、振り向く間もなく露伴の露出した首を甘く噛んではぺろりと舐めた。それから何事もなかったように回りこんでテーブルに露伴のマグカップを置くと、やっぱり私には猫のスタイルは性に合わないみたいねだなんていって躊躇いなく横に座った。
「やっぱり見えないのは好きじゃない」
「その割に乗ってきたじゃないか」
「乗ってたのは露伴でしょ、私は人間だもの」
リセーを保って向き合うほうがずっと好き。そう言ってマリエは隣から露伴の膝の上に足を投げ出し、彼女の言うところの理性を以って煽ってくることにしたらしい。ふわふわの靴下に指を滑り込ませれば冷たくて声を上げながら足をばたばたさせるくせに口だけは人間らしい事を言う。パスカルもきっと知らないくせに、と露伴は靴下を投げては露出した指を撫で、その挑戦に乗るべくマリエの視線を絡まえるように捉え直す。もうだめ、と言わせるまで止めるつもりなんてないし、人間らしくするつもりもない。人間も動物のカテゴリに入ることを今夜は再び教え直す必要がある。
20151220 chloe,