01 欠けゆく夏

 アルコールで酩酊した頭で、コンビニの外国人店員に数字を告げる。電子マネーと引き換えにてのひらに載ったのは小さい箱と薄い黄色のライターだった。大人になったみたいだ。そんな年齢の線引きすらとっくに超えて久しいはずなのに、こうして北新地の路上で一人で縮こまっていると子供のときみたいな不安感が押し寄せてくる。だからかもしれないけれど、こんなときに限って子どものときにお母さんが言っていたことを思い出す。神様はね、超えられる試練しか与えないの。大学時代の恋人も似たようなことを言っていた。神様はいつだって見てる。彼がお世話になっていた人が、いつも言っていたのだという。でもいまは全部が全部疑わしい気持ちになっている。こんな飲み屋街の路地裏に神様なんていない。お初天神ならいるだろうが、いたらきっと文句を言ってしまうだろうから居てくれなくていい。この状況はその存在を疑うには十分だった。
 二〇二四年七月、今日から暫定無職。昨日まで外資ITの広告営業をやっていたはずなのに、今日から、無職。昨日遅くまで働いたから昼前に会社に行ったらそもそもオフィスに入れなかった。そこで携帯端末を確認したら朝にレイオフの通告メールが着ていて、それから同僚からも同じ目に遭っている旨の連絡が来ていた。要らなくなったら部署ごと爆破がこの世界の常識だ。邪悪になるな? 部署がなくなったんだから邪悪ではないって論理ね、と使えなくなったカードキーの示す意味を理解したときにぼんやりとチームの合言葉を思い出して毒づいてしまった。悪事を働かなくてもお金は稼げる。そう、人を切ればね。数時間前までそれを目的に働いていたはずなのにいつの間にか自分が過去の結果になっている。そんなところに、神様がいるわけなんてない。
「おねえさん、火ぃ貸して」
 声のする方向に手元のライターを向ける。コンビニの袋をいらないと言ったばっかりに、未開封の煙草の箱と一緒に手の中で温める羽目になっていたから別に構やしない。デスクの奥底にしまったきりでさ、飲んだら吸いたくなっちゃったからコンビニまでちょっと行ってくるねと理由をつけて同僚との情報交換会、もとい飲み会を中座をしたはずだった。全然吸う気になれないままコンビニの軒先に立ち尽くしているくらいなら、ライターの一つくらい貸すのなんて取るに足らない出来事だ。どうせ数秒の出来事だ。その後ナンパに発展したって、ここまで酔っている女を好き好んで抱きたい人間なんていないだろう。
「……いつから吸うてるん」
「……は?」
 日中の暑さの残る気温の中で、じっとりと熱い手が私の手を掴んでいた。男はライターなんて手に取らずに、私の手を掴んだまま数歩こちらへ歩み寄る。ヤバい人に遭遇したかもしれないと思って顔を上げる。動き出そうとした瞬間に強く手が握られて、助けをよばないと、と思った。
「……あの」
「俺と付き合ってた頃は、吸うてなかったよな」
「……人違いです」
 コンビニの蛍光灯のせいで逆光になったとしても、それが誰だかはすぐにわかった。日本人男性の平均身長よりもはるかに高い所から、灰色がかった瞳が暗くこっちを向いている。昔よりも体格が良くなったような気すらする。Tシャツにジャケットを合わせていて、いつだってそういう格好が似合うことを自覚している男だった。別れて四年は経った今でも名前を忘れたことなんてない。宮治、私の最後の恋人。私の最後の舌の贅沢。
「めしがまずなるよ」
「……だから、人違い、です」
「そんなことあるか、さっきちゃんと名前聞いててん」
 隣のテーブルで、カイシャの子ォ? に名前呼ばれとったやん。続けて呼ばれた自分の名前を聞くと手の中が汗でぐっしょりと濡れてしまいそうだった。今日は心のガードがもう下がっているのに、どうして今日に限ってこの人と遭遇してしまったのだろう。柔らかくなってしまったむき出しの心に懐かしい低い声が刺さってくらくらする。アルコールで緩くなった頭では何を言っていいかもわからない。
「ちょっと来て」
 それからこれは没収、ともう片方の手に握っていたピースの箱が奪われる。手を離したら逃げると思われているのか、片手はライターを介して繋がったまま、金色の線の入った紺色の箱が彼のズボンのポケットに捩じ込まれていくのをただただ見守る以外できることもない。また、ただたばこ税を無駄に納税するだけになってしまった。もとはといえば、オフィスから締め出されたせいで机の奥底にしまったそれがないから買ったはずなのに。少なくとも計二箱ぶん私はただただ税金だけを収めていることになってしまう。
「それから何なん、なんでそんな無茶に飲んでんの」
「……関係ない」
「関係ないことあるか。さっき隣のテーブルに俺と大耳さんがいた事すら気付かんくせに。どうかしてるわ」
 懐かしい共通の先輩の名前が聞こえて、つい掴まれた手を握り込んでしまった。それに気がついてか先行する治の足が止まる。客引きもいない薄暗いビルの間で彼は振り返ってこっちを見る。薄暗い中で光の入らない彼の瞳がふたつ、こちらを向いていて背筋がそわそわした。夏なのに、アルコールが十分回っているのに、寒気を感じる。ああ、会社を締め出されたときにふてくされてそのまま家に帰っていればよかった。なんとなしに同じ目に遭った同僚と情報交換だといってスポーツバーなんかに行かなければよかった。オリンピックが開催されている時期なんだから、男子バレーボールの中継がバーのテレビに映っていることなんて容易に想像できた。元恋人が関西にいて、彼の双子の片割れがバレーボールをまだやっていて、それから彼の地元が関西で、友達ももちろんそうだろうことは想像できる。彼がパリに観戦に行っていなければ梅田近辺で遭遇する確率はゼロじゃない。むしろ、東京よりも確率は大きいと思う。向かい合う元恋人の視線が怖くて逃げるように頭の中で計算してしまう。梅田近辺のスポーツバーのうち、今日オリンピックのバレーボールを中継している店舗はいくつだろう。少し遠いけれど彼の店を分母に織り込もう。繋がったままの手が強く握り返される。お酒のせいで指がむくんでいるのがわかって、泣きそうな気分だ。
「俺のことは忘れたふりするのに、先輩のことは覚えてるんやな」
「……別に大耳さんとは気まずい記憶ないし」
「さっきも心配してはったけど」
 アルコールでむくんだ指先を握られると痛いということがよく分かる。彼の手はいつだか付き合っていたときよりもなんだか分厚くて大きい気がして、無意識に記憶の中と比較しているのがどこか馬鹿らしかった。仕事道具の手なのに火傷もなにもかも厭わなくて、よく消毒されていて、皮膚は厚くて固い。専門学校時代なんて切り傷とかもあったよなだなんてことを思い出す。働きだしてからは見たことがないけれど、よく研がれた刃物の作る傷はすぐに塞がってしまうのに驚いた記憶がある。そんな働き者の手が、私のふにゃふにゃな、いまはぱつぱつして管理を人任せにしているだらしない手を掴んでいる。どこか恥ずかしいと思うのは別れたときから変わらない。
「それでもなんか、嫌やわ」
 ビルの間で、彼が一歩だけ距離を詰める。抱きしめられると思った瞬間に視線から逃げるように目を瞑ると、大きなため息が聞こえたあとに顔に布が当たった。それから背中に長い腕が回されて、肺の中の空気を追い出すようにぎゅっと身体を締め付けられる。治に抱きしめられているらしい。くるしい、と文句を言っても彼はやめる素振りはない。シャツ越しに懐かしい匂いがして、別れる直近一年間にそれを嗅いだことがないことまで思い出して胸がしわしわしてくる。
「俺の名前、覚えてるか」
 頭の上から名前を呼ばれて、胸の奥はしわしわどころかぐちゃぐちゃにねじ切れそうだった。治は私の名前をちゃんをつけて呼ぶのが好きだった。出会ったときも、喧嘩をしたときも、別れるときですらそうだったけれど、時間をおいてもそうだと思うと泣けてくる。私は機嫌と呼び方が連動しがちだったから、最後はいやがっているのをわかっていて宮さんとしか呼んだ記憶がない。
「おさむ」
「そう」
「おさむ……」
「いい子」
 息を絞り出すようにして彼の名前を呼んだ。もう知らないなんて、嘘をつけない。別れるときはもうこれ以上お互いのことなんて知らないと突き放したはずなのに、今こうして苦しさを感じながら抱かれているのに、どこか安心感を覚えている。酩酊しているせいにしてもいいと思ったけれど、アルコールのせいにしたらどうなってしまうかわからない怖さがさっきの治の視線にはあった。
「……たまらん」
「何が」
「また俺んとこに戻ってきてるのがたまらん」
「戻ってない」
「なんでもええ」
 治の吐息が頭の上から落ちてくる。彼の吐息にもアルコールを感じて、彼も隣の席で飲んでいたのだと言っていたことを薄っすらと思い出す。私が席を立ったときに気がついて、グラスを飲み干して追いかけてきたのだろうか。なんと言って出てきたのだろう。私達がはしゃいで今後のことを話していたときに、気付かれないまま、隣でどんな顔をしていたのだろうと想像する。めいめいの薄い絶望感のせいで視界に元彼も、先輩も、見えた覚えなんてない。テレビのバレーボールの中継を見ないようにしていたからかもしれない。
「……このまま連れて帰りたい」
「……元彼のとこなんていかない」
「何もせん」
 治の声は穏やかだった。きっと本当に何もしないと言って、何もしないだけの余裕があることも、それだけの分別があることも私はきちんと知っている。それでも口をついて出てくるのは憎まれ口だけだった。別れるときだってそうだった。
「……何もしないって言って信じるほど馬鹿じゃない」
「電車乗ってたらアルコールもさめるわ」
「アルコールがさめたら途中で帰っちゃうかも」
「帰さんで」
 治が私を抱きしめる力がいや増す。苦しい、と文句を言っても弱められる様子もない。髪越しに治の吐息が掛かって、夏の蒸し暑さが局所的に強まるようだった。
「帰したらもう帰って来ないから、帰さん」
 別れた時は売り言葉に買い言葉だったのに、とぼんやり別れた時のディティールを思い出す。お前の言ってることなんてわからんわ。あの中に出ていけという言葉ってあっただろうか。本当は、まだあの時から立ち直っていない。向き合いたくなくて仕事に没頭し続けたくらいにはあの別れは痛手で、また似た痛みを味わうのがいまからすでに怖くなっている。
 いちいち、治の言うことは厚みがあるのだ。真っ当でやりたいことをきちんとやり遂げているからかもしれない。職を失ったいま、真っ当に否定されたらもう立ち直れない。でも職を失った今なら、もう何も残っていない今なら、立ち直るのに時間をかけてもいいかもしれない。
「じゃあ、うち来る」
「……誘っとんの」
「そうじゃないけど、ここからすぐだし……帰したくないなら治が帰れば」
 それに、どうせそのうち引っ越すかもしれないし、家を知られたところでどうでも良くなっていた。退職パッケージで半年分は給与が支払われるといったって、無職になったいま、今の広すぎる部屋の維持費を払うのもバカバカしい。そもそも分不相応だった。ろくに滞在しないし、滞在しないから居心地を良くしようともしていない空虚な広い家。家からオフィスの距離と東京に住んでいたときの家賃レベルから内見せずに条件だけで決めた結果がこれだ。
「店から離れられないのを知っててそう言うこと言うよな」
「……うん」
「家まで毎日通うぞ」
「好きにすれば」
「……いつも大事な時は可愛げないことしか言わんよな」
 付いてくわ、とぼそっと言われて腕が少しだけ緩まる。その隙にポケットの中から携帯を出して、アプリでタクシーを呼ぶ。タクシーが来るまで治は私を逃さないように腕の中に囲っていた。可愛げがない、という表現が耳の中をこだましてうるさい。汗のふりをして治のシャツで勝手に涙を拭いたけれど、そんなこと一生バレたくないと思った。神様がいたらこんなぼろぼろの姿を元彼に見せないでほしかった。こう思うくらいには、私は治に未だに未練を持っている。

20240610 chloe first post in pixiv/twitter and reprint in 20240610.