02 顔に降りかかる雨

 北新地から遠くはないところに自宅のマンションはあった。会社にできるだけ近くて、ちょっとだけでも緑が見えるところ。そういう注文をしたら思いの外広くなってしまったけれど、別に寝に帰るだけだったのにここまで家賃を払う必要があったのだろうか。今ではよくわからないと思う。ただ東京にいた時はもう少し暮らしを楽しんでいたはずなのに、ここにはそれがない。大阪に来てからこの部屋に来たのは業者と、それから治だけだ。
 居心地が悪そうに治はソファに座っていた。家に着くなり私は彼に合鍵を渡し、あとは勝手にしてと放り出して今に至る。殺風景ともいえるこの部屋には昔の部屋から運び入れたソファとローテーブル、それからダブルベッドくらいしかないし、ダイニングの片隅にはパウチ詰めの栄養食と炭酸水のボトルが入った箱が積まれているのを治が気づいていないわけがない。冷蔵庫の中には水と酒しかほぼないのも、さっきボトルの水を渡した時点で多分把握されている。
「……お風呂はいるけど」
「いや……危ないやろ」
「死んだら警察呼んでくれたらいいから」
「……そんなら一緒に入るわ」
「着替えもないし恋人でもないのにやめて」
 治の目の前でジャケットを脱いでソファに放る。彼が顔を背けたのを見て、私は脱衣所に足を向けた。脱衣所のドアをしめて、衣服も下着も全部脱いで全部洗濯かごに放り込む。クリーニングに出すつもりだったけれど別に洗えないこともないのは知っている。どうせ自分で洗って畳んでしまう時間ならこれから十分すぎるほどあるのだ。ストッキングはどうせどこか破けているだろう。なよなよと抜け殻のように肌から外れて落ちたそれを洗濯かごに放るか、どうするか一瞬悩んでそのままかごに入れた。本当なら全裸のままリビングルームのくずかごに放るところだが、それをしないだけの恥じらいはまだ持ち合わせているつもりだった。洗面台の小皿の上に貴金属類を外して放る。ああ、馬鹿らしい。いままでの頑張りのマイルストーン代わりのそれらは仕事を失った今、過去の栄光にほかならなくて急に色褪せて見える。
 乾燥したバスルームに入ってシャワーのノブを捻る。最初の温まっていない、冷たい雫がレインシャワーから流れてくるけれどむしろアルコールでぼんやりした身体にはしっくりきた。おもむろに床に座り込んでみれば真上から落ちてくる冷たいシャワーのせいで本当に路上で雨に打たれているみたいな気分になる。
 多分、本当はそういう体験を欲していた。蒸した熱帯夜に、昼間の熱気を残したままの飲み屋街のはずれのコンビニの軒先で未練を残している恋人に会うみたいなそういう甘やかな気持ちは今の私には似つかわしくない。もっと殺伐とした気持ちになるか、いっそ憐憫にじっくり浸れるようにあるべきだった。考えようによっては今の環境が一番厳しいと言えるかもしれない。治と別れたから仕事に没頭していたのに、仕事を奪われた瞬間に治に再会するなんて。ゆるく排水溝に水が渦巻いて流れていくのをみながら、どうして、の四文字ばかりが脳裏によぎる。どうしていまなの。どうして治に再会するの。どうして頑張っていたのに急に全部がなくなるの。今日の午後に予定していた打ち合わせはどうなったんだろう。どうして私がいままで頑張っていたことがなくなるの。どうして、どうして。
 つめたい床がダイレクトに身体を冷やしているのに、降りかかるシャワーがお湯になってきて自己憐憫の気持ちがほどけてきてしまう。いつだって温かさは気持ちを緩めてくる。さっき路上で抱きしめられたときに不意に昔の、付き合っていたときのことを思い出してやりきれなくなって泣いてしまったのもそうだ。治の体温は私のよりも、出会ったときの夏の平均気温よりも高かった。かわらないそれもやっぱり泣き出すには十分な温度で、私に与えられるべきではないと思う。思い出すだけでも泣けてきてしまって急いで腕を伸ばしてパネルで給湯温度を下げた。ぽろんぽろんと気分と真逆の軽やかな音が鳴って、女性の音声が新しい設定温度を告げる。ぬるいと言うより少し肌寒いくらいのお湯が肌を伝って床に流れていく。
「なんなんほんま」
 リビングから治の声が聞こえて、別れぎわの電話での彼の発言を思い出して鼻の奥が痛くなった。泣くとすぐに鼻の奥が痛くなる。シャワーの温度が思ったよりも温度が低くてつい身を抱くように三角座りをすると、ふと治と別れたときもこうしてお風呂で泣いたものだというのを思い出した。

***

 治と出会ったのは大学一年生の夏休みだった。夏休みにサークルの用事でキャンパスに行ったときに、一個上の先輩と偶然会った時に隣にいたのが治だった。先輩、大耳さんはサークルの先輩で、兼サークル先のバレーボールサークルの練習に高校の後輩だという治を呼んでいたところらしい。食堂で遭遇したとき治は大皿でチャーハンをかき込んでいて、女子校出身の私は生々しい男子高校生の名残に若干臆したのを未だに覚えている。関西出身だというのにすっかり標準語で話す先輩が治の前では地元の言葉に戻るのも手伝って妙に治のことは記憶に残っていた。その日はそのまま別れたものの、後日キャンパスでまた再会してからは普通に二人で会うようになったのだった。調理の専門学校に行くためにわざわざ上京したのだと告げた彼はなんだかんだと理由をつけて私に課題の練習を振舞った。私にできることはあんまりなかった。せいぜい簿記だとか経営学の本を貸したり解説するくらいで、ほとんど彼のご飯を食べさせてもらって全然異なる興味分野の話をするくらいだった。
 一年半付き合って、彼が地元に戻ったときには私も就職活動をしていた。はやく独立するのだとアルバイトと修行に没頭する彼とは距離を置いていたけれど、それは別に仕方がないし、それでも毎夜メッセージのやり取りをしていた。学生の財力では数ヶ月に一度会うので精一杯だったけれど、それでも十分だった。わざと関西に本社がある企業の採用試験を受けたりして、面接の帰りにちょっとだけ会うとか、そんなことをしたことすら懐かしい。新大阪の駅の最後の東京行きの時間までコーヒーを片手に構内のベンチでずっと話していた。そんな甘やかな記憶のせいで、私は未だに新大阪駅のスターバックスに寄ることができない。この頃はお互いに忙しいくらいがちょうど良いと思っていた。私は未だにそれを信じて止まないけれど、それはたぶん、遠距離の重さを考えていなかったのだと思う。
 大学を卒業する頃には彼はもう亡くなっていた彼の祖母の店をリフォームする形で自分のお店を立ち上げた。開店祝いと卒業祝いをお互いに祝いあったくらいはまだ幸せだったように思う。彼がお店を軌道に乗せるために忙しくするのと、私の仕事が多忙を極めるようになってから、どうしても何かが噛み合わなくなってしまったのだ。
 私が社会人になってからはほとんど彼と毎月会っていた。治のお店の定休日に、私が大阪出張をぶつけて夜に食事をする。そして一緒にどこかに泊まって身体を重ねて、朝ごはんを一緒に摂る。仕事で会食があればそれも厳しいけれど、なんだかんだ治はお茶なり見送りには来てくれた。その時にお互いの近況を話す。お店のこと、メニューのこと、双子の片割れの試合に合わせて移動出店をすること。いいなあ、と私は治の腕の中で、お店で働く治の姿を想像する。今度は私の仕事を話す。彼は相変わらず何言ってるかわからんなあ、と言いながら私に口付ける。私はそこで携帯端末を出して、いくつか彼の仕事にまつわるワードを入れて検索する。それから適当なウェブサイトを開くと、広告が近くの位置情報を反映したお米とか飲食店だらけになっていた。こういうこと、と例を示せば彼はただ一言、気味悪いなと言った。それから私の手から端末を取りあげて、テーブルに伏せた。
 多分それが終わりの合図だった。彼は彼の思う善をやっている。私も私の思う善のためにハードワークをしていたつもりだった。そうかなぁ、と私は治の腕に顔を擦り付けて曖昧な態度を取っていたけれど、どうせそのままギクシャクしてしまうのであればその時にためらわず口論をすればよかった。そのまま疲れたわ、と治は私を抱かずに寝た。思えばその時から別れるまで、なにかと理由をつけて私たちはセックスをしなかった。
 別れの決定打は私が半年だけ研修でアメリカに行ったことだった。カリフォルニアにいる間は時差でメッセージもいつも以上に途切れていたし、通話もしなかった。それが寂しくてたまらなくて、帰りは関空経由で帰ることにしたのだ。関空からバスでお店の最寄りの駅に向かう。そのままお店に寄ったら治はいなくて、代わりにアルバイトの子がお店を仕切っていた。バレーボールはオフシーズンだったからどこかに出店をしているわけでもなさそうなのに、治はその日終日いないのだという。帰国の日は告げていたけれど忘れたのかもしれない。その日は軽く彼の店でテイクアウトだけを買って、そのまま伊丹から東京に戻った。晩に治にどこにいたの? とメッセージを送ると逆に怒られてしまって、お店に行ってまで不在を告げられた私としては大変不本意極まりない。通話の中で売り言葉に買い言葉が飛び交う。もう知らん、お前の言ってることなんて全くわからん。いつまでも地に足つけずにそうしてやっていけばええやん。俺はもう知らん。
 最後は頭に血が昇ってしまって言うつもりのないことすら口から出ていた。いっつも休みがないって言ってたのに本当は休みあったんじゃん。治が私の話に興味ないことなんて知ってた。もう私なんかじゃなくて近場で支えてくれる女の子と過ごしたらどうなの。私だって、治のことなんか、もう知らない。本当は帰国一番に治の作ったご飯が食べたかっただけなのに、どうしてそうなったんだろう。本当に言いたかったことだけは言えないままぷっつりと通話が切れてしまって、それから当時住んでいた部屋のバスルームで延々と泣いた。

***

 バスタブに張ったお湯が水に戻るくらいの間泣いていた時から、四年は経った。彼の双子の片割れが日本代表としてテレビに映るたびに胃の奥で粘膜がじわっと焼ける。太い眉毛と丸い目がお揃いすぎて、彼がメディアで喋るたびに治のことを思い出す羽目になる。別れてから一年経ってからオフィスを増設したからと大阪に転勤になってからは、仕事でもその姿を見ることが増えた。大阪の企業に所属しているらしい彼はローカル向けの広告に出ているからだ。彼の片割れが人懐こそうな顔をして画面で笑っているのを見るたびに、 治がお店でお会計をする時の笑顔を思い出す。それを忘れるように私はその広告枠を売買する。私が仕事を頑張れば頑張るほど、宮侑の広告がなくなって、私が治を思い出すことが減る。そうして頑張ってきたはずだった。
「風邪引くぞ」
 がちゃんと浴室のドアが開いて、ジャケットを脱いだだけの治が入口に立っていた。つめた、とレインシャワーに手を浸して温度をみている。彼は私に断りなく壁についた温度調節パネルを触って給湯温度を上げた。向こうの部屋にいるときにも聞こえたのだろうか、もう一度給湯温度を告げる女性の音声がいささか熱めの温度を告げる。
「ほんまに死んでるかと思った。静かすぎんねん」
 壁寄って、と治は私の肩に触れる。衣類を着たまま、服が濡れるのも気にせずに洗い場にずかずかと入ってきて私を壁に寄せて隣に座り込む。おしりを浮かせた瞬間に脇の下に手を入れられて、わずかな距離身体が浮いた。治の着ているTシャツがシャワーで肌に張り付いてざらざらする。私を隣に置いて、治は同じ方向を向きながらその大きい身体をきゅうと縮こまらせた。膝の作る山の高さが大きく違う。隣に揃えられた足の大きさもまるで違って、そういえば私達はこんなふうに並んで座ったことがないことを思い出す。
 私達に共通点はほぼない。学校だって育った地域だって違う。一緒の学校に通ったことがなければこうして三角座りをして過ごすことなんてないだろう。その証拠に、共通の知り合いとも言える大耳さんとはサークルの練習か、結局一緒だったゼミのときにこうして並んで座った記憶があるのだ。でも治とはない。それなのに治と長いこと一緒にいたのはむしろ不思議だったかもしれない。
「気持ち悪いとかあるか」
 膝を傾けて私のほうにくっつけながら、治は頭を私にもたれかける。知らないシャンプーと整髪料の匂いがお湯で溶けて流れ込んできて少しだけくらくらした。治の手が無遠慮に背中を撫でる。
「……大丈夫」
「泣いとお」
「泣いてない」
 鼻声も、鼻を啜る音も、全部治にはバレている。それでも泣いていると彼の前で認められるほど気丈な振る舞いは出来なかった。泣いていないと申告する私の背中に手をくっつけたまま、治は愉快そうに笑う。治の前で泣いたことって、そう言えばなかったような気がする。何年も一緒にいたけれど、結局泣くほどのことは起こらなかった。よく一緒に時間を過ごしていた最初の一年半でさえ、したところですぐにどうにかなるような喧嘩だった。いずれも些細なもので、一番大きな喧嘩が別れのそれだったのだから泣く余地なんてほぼない。
「相変わらず強情やなあ」
「……」
「飯食ってへんやろ」
 全部違うもん、と反論したくなる。治が私を抱き寄せる力がどんどん強くなって、何も言い返せないまま肋骨に治の指がめり込むのを感じていた。痛い、と声を上げても治はやめずに私の輪郭を確かめるように触れる。
「……いつから?」
「……」
「最近と違うな」
 最近やったらもっと服もブカブカやろし。わかりきったように囁かれても、答えを言いたくない。そんなの治に一番言いたくなかった。確かに、治と別れてからうまくご飯が食べられなくなったことは認めよう。でも本質的に私はそれを治のせいだとは思っていない。ただ、いっぱい泣いていたらご飯が喉を通らなくなって、そんな日々を送っていたら食事をするのが少し怖くなってしまった。他人との会食であれば、少し食が細い程度には食べられたけれど、それ以外は最低限のラインを割っていることは自覚していた。わずかしか喉を通らないのに美味しくもないものを食べたいはずもない。いつの間にか治のせいで美味しいもののラインが引き上げられていたことは否定しない。別れる前に、結局治のご飯が食べられなかったというのは結構尾を引いているのかもしれない。
「全部聞いとるから別に言わんでもいいよ。俺のせいやし」
「……最近ずっと忙しかったからだし治は関係ない」
「最近? あんな部活の合間に飲むもんだけで暮らしてるん、もっと前からやろ」
 少なくとも三年前からそうやんなあ、と治は囁いた。治の頭が肩の上に乗っているせいで、レインシャワーがうまく邪魔してくれなくて、むしろ肌伝いによく聞こえてくる。恋人みたいな真似やめてほしい。シャワーの温度が温かくて、治とくっついているところがより熱くてくすぐったいような気する。
「……別れたときから引っ越してくるまでにはそんなんだったんやろ、どうせ。三年前くらいに先輩に聞かれたんや。あいつめちゃくちゃ痩せとったけどお前別れたんかって」
 心当たりはなくはない。引っ越して半年後くらいに、ゼミのOB会で大耳さんにあったときのことだろう。そう言えば転勤で大阪に引っ越したんですよと言えば先輩もちょうど管区内で異動して大阪市内に引っ越したという話をした。あのときに治の話を振られなかったのは、すでに別れているのを治から聞いているのだと思っていたけれどそうではなくて、単純に彼の配慮だったらしい。頭が上がらないなと思う。
「俺のせいか」
「自惚れないで」
「じゃあなんなん。俺への当てつけか?」
 うん? と低音で凄まれると別の意味で泣きそうになる。出会った頃は少しだけ落ち着いていたけれど、時折見かけるそういう側面が怖いと思ったことは付き合っているときも何度かある。本当はそういう荒い側面もあるのに外向きの彼は結構優しく見える。……特に大人になるにつれて、客商売を明確に意識している頃には好青年のふりをするのがとても上手くなった。
「別れた女がどんな風になっても、治に関係ないでしょ」
「あるわ」
「もう知らんって言いだしたのは治だよ」
 さっき心のなかで取り出したばかりの生傷をありありと思い出す。聖域のバスルームにまで踏み込まれたら逃げる先がない。でも治は私がその時にバスルームで泣き尽くしていたことも、翌日泣きはらした目で出勤したら、環境差のアレルギーだと思われて家に帰されたことも知るわけがない。
「……そやな」
「……」
「わるい。俺が悪かった」
「関係ない」
「許してくれんの」
 許しを乞うにはずいぶんと偉そうだと思う。それでも彼のことを嫌いになれないのが少し悔しかった。すでに家に上げた時点で許していると受け取られてもおかしくはない。しかしながらこうしてすぐに折れるようになった治を見ると、あの時からは時間が経過したんだなとつくづく思う。昔小さな諍いをするとだいたいお互いに折れるポイントを見つけることが出来なくて、なんとなしに仲直りするのが常だった。ごめんねと言いたいのに顔を見れば治だって悪いところもあったのにと思ってしまう。きっとそれは向こうも同じで、お互いに謝るタイミングを失いがちだった。でもくっついて名前を呼ぶと尖った唇がいつの間にかほどけて柔らかく私の名前を呼ぶ。
「……ゆるした」
「ありがとお」
 シャワーの水流が途切れる。膝の間に頭を埋めていたはずなのに、鼻先で掘り起こすみたいに治の鼻先が頬にくっつくのがわかる。私が顔を上げないと踏んだらしい治はすぐにその鼻先を変えて、濡れたままの私の耳に、髪の上に、首元に唇を這わせていた。治が唇をくっつけたところをすぐにシャワーが洗い流す。それが嫌なのか、彼は何度も隣り合うところを口づけては私の身体を自分の方に引き寄せようとしていた。顔を上げないまま首を横に振っても、彼の力に敵うわけもない。背中を濡れた衣服がざらざらと擦る。デニムの粗い生地がおしりにくっつけられている。抱き寄せられても意固地に三角座りをしていたかったのに、腕を引かれたときに身体がばらけて全部治の作る空間の中に捕まってしまった。
 腕を掴んで自分の足の間に収めようとする治に反抗しようとしても、彼の腕は私のもがく手をきれいに避けて逆に私の身体の自由を奪っていく。濡れたデニムの間に身体が収められて、治の片腕が胸の下に回されて三角座りをして足を抱けないようにされていた。片腕は手首を彼に掴まれていて、どうにもできない。首筋に治が頭を埋めていて、シャワーのお湯が流れる合間に治の吐息が肌を掠める。
「痛い」
「ちょっとだけでええから」
 私がもぞもぞと動く度に治の腕は私の自由を奪おうとする。その度に濡れた繊維が肌に張り付いて痛いのに、治はやめてくれない。諦めて膝を少し伸ばして、背後の治に少しだけもたれかかる。これみよがしに首筋を甘噛みしている治にううん、と不機嫌に喉を鳴らすとお腹に回されていた腕が少しだけ緩む。そのまま彼の身体に体重を預けると、彼はもう片腕を掴んでいた手も離してお腹に回す。濡れた髪に顔を擦り付けられるとうまく滑らなくて痛いけれど、どうしてかそれに文句は言えなかった。
 いくらかの間、シャワーの水音だけが空間を支配していた。治が好き勝手に私を抱きしめて顔を擦り付けたり唇を這わせている間、私は大人しくされるがままだった。
「ずうっと、後悔してた」
 耳の一番近いところで治が話し始めて、身体が勝手に震える。私には逃げるつもりがないのに、それを見咎めて治は私の身体に回した腕の力を少し強めた。
「あんなんで別れたなかった」
「……うん」
「あの日ずっと羽田で待ってたのに居らんし、諦めて帰ったら夜なんで居らんのかとか不機嫌な声聞くし、なんなんて……思った」
「いたんだ」
「おん……」
 朝からおったよ、と治は続ける。だって何時に着くかわからんかったんやもん。一日構ったろって思ってた。重ねられた腕の下で胃の奥がもぞもぞする。
「半年会えへんかったこと、俺は褒められたかった」
「うん……」
「そもそもその前からずっとちゃんと時間が欲しかった」
「……」
「いつ会っても疲れた顔してるし……今もか」
「私だって……」
 つい反論しそうになって、口をつぐんだ。私だって全くおんなじことを思っていた。夜から朝までしか会えないけれど、彼だって仕事がある。土日は私は休みでも、治は休みじゃない。それでも治と会える日は夜に仕事をしないようにしていたし、仕事のメールだって見ないようにしていた。彼の仕事は彼の夢そのものだから休みを一緒に過ごしたいなんて言えなかった。
「あとで聞く。……でもなあ」
 あの時から連絡を拒否されて、もう接点がないと思ったのだと治は告げた。いつも大阪で会っていたから結局どこに住んでるのかもわからない、店に来てくれないと消息がわからない。でも来る様子はない。先輩から大阪に引っ越したと聞いて、それから定期的に梅田近辺に出るようにしていた。それから今日までずっと見つけられなかったのだということをぼそぼそと治は続ける。
「だからもう離れたない」
「……」
「……いやか」
「いやじゃない」
 治に優しくされたかったのは事実だ。何年も捨てたいのに捨てられなかった執着がまるのままの形で心の奥底に沈んでいる。一人でお風呂場で泣く度に、眠れない夜にふと思い出す度に、私はあの日から何も進んでいないことを思い出す。だからこそ少しだけ怖かった。治に優しくされたいし、あの時に間違えた選択をやり直したい。それなのに頭にちらつくのはもう一度間違えたらどうしよう、という懸念ばかりだった。もう一度間違えたら、もう一度治にもう知らんと言われたら、どうしよう。
「もとに戻りたい」
「もとの、ままじゃないでしょ」
「そうかもなあ。でも、なんて言われようが俺は元の関係に戻りたい」
 不意に治が私を抱く腕の力を弱める。多分いま、治の手を振りほどいてもきっと何も言わないで私の選択を認めてくれるだろう。でも私にそこから動く気なんてない。治の腕がゆるく解けて太ももに置かれても、身じろぎもできなかった。
「……うん」
 よかった、とシャワーの水音に溶けるように小さな声が首筋から聞こえる。その吐息にいつだか遠い昔に抱かれたときのことを思い出した。私達が純粋に、互いの存在に安堵を覚えたのはいつが最後だろう。きっと彼が店を出して、私が学生を卒業した時がそうだったのだろう。抱かれないようになってから足の爪を彩らなくなったことを治は気づいているだろうか。
「……このままでいたいけど、流石に上がるか」
「うん」
「倒れてたらどおしよと思ってたから服脱がんまま入ってきてもうたわ」
「……治はばかだなあ」
 そんなこととっくに知っとる、と治はシャワーのノブに手を伸ばしながら告げた。シャツがぴったり治の身体に張り付いている。レインシャワーが止まって、治がシャワーヘッドを持つのと、勢いよくそこから水が溢れてくるのはほぼ同時だった。膝立ちのまま治はデニムが水で締まって痛いと声を上げる。その様子に私が笑うと、治は目尻を下げて私の顔を覗き込んだ。それから彼は、私の身体を洗わせてほしいと目尻を下げたまま口にした。洗うだけだから。それは何年ぶりかに見た、欲を孕んだ有無を言わさない視線だった。

***

 治は私のことを洗うだけだと言ったけれど、彼の振る舞いはねちっこく私を抱くようなものだった。唇がくっつく、泡だった指が肌に触れる。太い指が髪を掻き分けて、私の髪が彼の指に絡まるのを見て不思議な気持ちになった。不器用に私の髪を洗い、すすいでトリートメントを撫で付ける。それをまたすすいで、私の顔にシャワーをかけて遊ぶのすら忘れない。そこまでしても、唇にキスはしてくれなかった。目の前で向かい合ってもくっつかないそれを、自分からねだるのも少し躊躇われて目を閉じる。
 肌に治の唇が触れる。ふわふわとバスリリーで泡立てられた泡がその直後に乗せられて、厚い手のひらが泡と一緒に肌の上を滑る。手を上げてだの、上を向けだの、指示に従いながら何も感じないふりをする。治は口付けの間にぽつぽつと感想を漏らす。もうシャンプーの泡が目に入ることを心配しなくてもいいはずなのに目を開けなかった。鼠蹊部に口付けられたときにもういいと制止しても彼は聞く耳を持ってくれない。別れていた間にした全身脱毛のせいでなくなった下生えを彼はひどく残念がっていた。彼は記憶の中の私と、今の私のすり合わせをしている。どこまでいっても彼は表面以上に手を出さないけれど、隅々まで洗う手の中で明らかに差異を確かめられている。つま先を泡に浸されて、それからくすぐったくて身を捩ると身体を掴まれる。近くで生々しい息遣いがして、目を開くとやっぱり間近には治の顔があった。たまらなくなって顔を擦り寄せる。少し顔を離す。今度は唇をねだる。散々私の肌をついばんだ唇に自分の唇を寄せると、くっつく間近で治はそれを止めた。
「あかんよ」
「なんで」
 話したせいで唇の山の先はもう触れ合っているのに、それ以上はだめなのだという。でも間近に見える治の目はだめなんて思ってもいなさそうだった。んん、とむずかるようにねだってもだめだと治は繰り返す。なあんで。彼の目がゆっくり閉じる。薄いまぶたが丸い目を強調していた。
「それ以上されたら、自信ないわ」
「なんの」
「わかっとおやろ」 
 はよ風呂上がり、と治は私の身体を離して、それからいままで洗ったのと逆順にシャワーを私に向けた。つま先から泡が溶けて流れていく。キスの痕跡すら流れていくようなのが少しだけ不服で泡だらけの身体のまま治にすり寄り直す。膝立ちのまま彼の首に腕を回すと、彼の身体が泡を割ってくっついて少し痛い。明らかにふくらんで主張をしている彼の下半身がお腹のあたりの泡を擦っているのがわかってどきどきする。自分が何をしているかなんてわかっているつもりだったはずなのに、今更ながら少しだけ、どうしようと思っている。
「わかってるよ」
 治が持っているシャワーヘッドがつま先にだけお湯をかけている。ふくらはぎまで顕になっているのはわかっていた。泡だらけのままなのをわかって顔を上げて、彼の唇に自分のそれをくっつける。湯気に混じってボディソープのグリーンの匂いが鼻の奥をくすぐっている。嘘じゃないよと念押しをしたくて、くっつけた唇を離してもう一度くっつけた。シャワーの水流がはねて膝にかかる。治がシャワーヘッドを取り落としたのだと気づくのには一拍だけ遅れた。唇をもう一度離そうとしたら、彼の両手が泡だらけの私を掴みなおしていた。驚いて開きかけた唇に治の舌がねじ込まれる。やわらかくて厚い粘膜が口の中を支配するときに不随意に背中に走る甘い痺れがひどく懐かしい。すごく久しぶりなはずなのに、どうされたいのかを見透かされていて怖いくらいだった。


20240610 chloe first post in pixiv/twitter and reprint in 20240610.