愛は三分間

プロシュートは滅多にアジトで食事を摂らない。そもそも誰かが食事を摂る時間にいた試しがないし、それが会議と前後していても食事に参加することは少ない。いたとしても一人酒なりコーヒーを飲んでいるか、窓辺で煙草を吸う姿しかペッシでさえも見たことがないのだ。任務中こそ一緒に食事を摂るが、任務時間外での食事風景は無に等しい。それについてリゾット・ネエロは問題視も指摘もしないので、自ずと他のメンバーもそれが当然のように皿の勘定をしていた。サッカー観戦に熱中しすぎて全員ソファで眠りこけていても、朝起きた時にはすでにその姿はない。最近入ってきたとしても、弟分のように長時間過ごしているペッシならなにか知っているだろうという好奇の目を向けられてもプロシュートのプライベートについては誰も何も知らなかった。知っていることといえば、ネコが嫌いで、アジトではよくハイネケンを飲み、パスタよりはニョッキを選びがちであるというくらいである。これがいつからの習慣かは知らないが、少なくとも自分がここに入る以前からそうだったということだけは知っていた。自分より先輩格の人間すら知らないのだから、このチームの設立当初からそうだったのかもしれないが、昔はよくここで食事を摂っていたとも聞く。それは5年は昔の話だ。この5年の間にプロシュートはアジトで食事を摂らなくなり、オールをすることがなくなった。つまりこの間に何かがあるのだろうということだが、誰もその理由について正確に知るものはいない。

予定に遅れちまう、とプロシュートは一人夜中の路地を歩いていた。さっき一度コールした時間は15分前で、あと5分で家につけるかどうかは怪しい。約束は三分まで遅刻してもいいことにしよう、と誓ったのは自分であって、誓いというからには守らなくてはならないものだとプロシュートは認識していた。
忙しく、画面を長々とみている隙がないからワンコールで帰宅を示すことにしよう。それはだいたい同じところを通ったときにして、だいたいそれから20分後に家につく。それがプロシュートの帰宅の常であり、約束だった。夜遅くでないかぎり、それに合わせてマリエが夕食を作っていることをプロシュートは知らないわけがない。一度家の窓からコールしてその一部始終を20分見て、何事もなかったかのように帰宅したことがあったが、それを見たことがあるとないとでは誓いを守ることに対する重みが違っただろう。

プロシュートはこの秋に結婚をした。それは何年も前から、自分たちの意志を全く介さずに決められていたことが形となり実行された結果だったが、今では満更でもないと思っている。人と人の信頼のために家を与えられ、家族を与えられることを家庭上よく知っていたが、想像よりも現実がよかったと思う体験はあまりないのではないかと思う。お互い日陰に生まれ、育ち、その環の中で職を得ているなかで、その流れに抗うだなんて選択肢はなかったのだが。事実彼女は日中に採算の悪そうな古ぼけたカフェで老爺の手伝いをし、時折暇そうに外を眺めては常連と話すだけの仕事をして夜は早々と家に帰り、プロシュートは相も変わらず暗殺稼業を続けていた。どちらも給与の出処は同じで、彼女も、自分も、それから彼女の上司と自分の上司も、おなじ天井から糸で吊るされている存在だった。プロシュートの職務が職務であるために周囲に告知もせず、結婚式などもしなかったが、代わりの食事会の日に撮られた写真は食卓の壁に掛けられていた。ぼんやりと名前と顔だけ昔から知っていた女が、今は最も近くの女としてキッチンに立っていることが最初は不思議でならなかったが、上の二人の間だけの誓いのおかげでいくらか気安い関係になれたことが最大の発見だった。
マリエはプロシュートと食事を摂ることを望んでいたし、プロシュートもできるだけそれに沿おうとしていた。事実むさ苦しい環境でいくらか失敗した食事を摂るより、なれた手つきで好みに仕上げられた食事を摂るほうがよっぽど幸せだったし、そう意識しないと家に帰るという選択をつい忘れてしまうからでもあった。はじめの3日はなんとなく気恥ずかしさから 帰るのを躊躇ったが、あとはもう一度火を入れるだけ、麺をゆでて和えるだけ、という状態で待ちくたびれて眠っている姿をみたことからそれを改めたのだ。尤も、マリエもその3日で、はっきりさみしいと帰ってきたプロシュートに泣いたのもあるのだが。妻は大事にするものである、というこの世界の法を守らざるを得なくなって3日で破りかけたのだから、このことはプロシュートにとって優先度合いの高い事柄として認識された。ほぼ見ず知らずの配偶者を待って、泣いて訴えるなんてどれだけ警戒心のないことかとプロシュートは驚きつつも庇護欲を自覚したことも記憶に新しい。泣かせることは得意だったにも関わらず、である。
マリエはプロシュートとの会話をひたすら求めていた。食事を囲んでいても、食器を洗っていても――大概プロシュートはその隣で一服しているか、コーヒーをいれている――、シャワーを浴びていても、ソファで新聞を広げていても、それからベッドの中でもそうだった。よくもまあそこまで話す事柄があるなと最初こそ思っていたが、何分何もお互いについて知らないのだからあとから考えれば合点のいく事柄だった。彼女は最初怯えていたか、怖がっていたかでそういう行動を取っていたのかもしれない。職務内容を知っているからこそ内容については求めて来なかったが、マリエは瑣末な事を知りたがった。例えば後輩のことだとか、同僚のことだとか、それから過去のことだとか。代わりにプロシュートは彼女の上司の名前を知ったし、常連とそのよく来る時間帯を知った。たまに暇そうにしていることを知ったのはその後任務中に遠くから様子を見ていたからである。

「帰った」
「おかえりなさい」
背後を確認しながら家に入ると、ふくよかなチキンブイヨンの匂いがプロシュートの身を包む。外套と襟巻を外しながらダイニングに行けば二人分の夕飯を前にマリエはテーブルについていた。顔にはハッキリおそい、と書いてあるし、テーブルの上に携帯電話は出されたままだった。
「ああ、よかった。今日も無事に帰ってこれて」
「すまねえな、考え事をしていたら遅れていた」
「急に襲われでもしたのかとおもって心配したわ」
ごはんにしましょう、手を洗ってきて。そう続けてマリエは席を立った。テーブルにはすでに白い皿とカトラリー、それからきちんとゆでたまごまで乗せられたグリーンサラダとパン、チーズとミネストラ・マリタータが並んでいた。メインはきっとまだオーブンの中なのだろう。夜の食卓でパンを切り分けるのはプロシュートの仕事で、食前のお祈りを主導するのもプロシュートの仕事として課されている。俄に食欲を覚えたプロシュートは外套と襟巻、それから上着を適当に吊るして、袖を捲りながら洗面所に向かおうとした。ダイニングから出る瞬間、後ろから温かい腕がプロシュートの体を抱きしめてきてつい足を止める。すっかりコートの中で体温と同化したシャツに伝わる別の温度に未だに慣れていない。それでもその行動がどれだけ心配をかけた結果だったかというのはすぐに想像がつき、プロシュートは改めてただいま、と背中に向かって言うのだった。プロシュートの腹部で結ばれた手はその言葉ですこしほどけ、情けないくらい小さい声でおかえりなさいと返されたその声にいつの間にか愛着と後悔を感じていることをプロシュートは自覚する。
今日の遅刻は10分で、明日は花を買える時間に帰る必要がある。
20151214 chloe, as 白い器とナイフとフォーク #1