Paper Passion
マリエが言っていた、最後に寄越すと言っていた月の手紙は来なかった。本来ならば5月の末に投函されて6月の頭に届くだろうそれの報告を受けないことを露伴は頭の何処かで気にしていたが、それでいても自分の中での諸々が忙しく、周囲の状況が目まぐるしく変わる中で来ないことを確信してもいた。来ない理由は見当が付いている。というのも、自分が向こうで投函した手紙以外にあるわけがない。
マリエがそれの返事を書けないまま向こうを発ったのか、それとも怒っているか、見当はいくらでもつく。その中で最も確信があるのが混乱している、であって、さしずめ自分が逆の立場でも十分混乱するだろうからだ。考えてもみよう、自分が初めて手紙を受け取った時のことを。あの今となっては馴染みになってしまった白くて固い封筒に踊る文字を、書き出しを。明らかに日本の紙でない匂いがして、それから懐かしさで卒倒しそうな数年分が紙を開いた瞬間に来たようだったではないか。
それでも、自分が忙しいことは幸い以外の何物でもなかった。何より返事がどう書かれて来るのか怖いという気持ちがないわけではなかったし、返事が来ない以上それに対するレスポンスを返すことはないからである。最後の手紙からそれ以降は日本に一旦帰ると綴られていた記憶から、それ以降返すことは叶わないと思っているのもある。あのよく見知った、かつて自分も住んでいたあの住所に当てて手紙を送れるわけがない。それをするくらいなら、幾許か楽しみが目減りしたとしてもメールでそれを続けただろう。しかしメールはいけない。何より書いてから送るまで、それから相手に読まれるまでのスパンが短すぎる。そのうちにずるずると電話になって、それから対面で会いたくなることなど予想の範疇だった。
唯一露伴が後悔したことといえば、自分の不注意から家を半分焼いたことで、それによって転居後の手紙と写真が失われたことである。転居前の手紙は、缶に入れて開けられないまま机の奥に眠っていたためにその災厄を免れたのだった。自分が転居してから受け取った手紙にどう彼女の感情が綴られていたか、すべて正確に思い出せないまま露伴は再び住まいを元に修繕した。その中で一瞬東京に帰ろうかと思ったことはないわけではない。それでもどこかこの街にまだやるべきことが残っているような気がしていたし、何より
マリエが帰ってきただろうその街に戻ることなど出来なかったという方が正しい。ただ、この後悔には進歩も伴っている事を明記しておこう。露伴はようやくこれを機に転居前の缶を開ける事ができた。それからいくらかのこの街での記憶を思い出して、自分の中で東京に戻らないことについての客観的な理由を持つことが出来たこと、それから修繕費という名目で仕事にかまけるふりを許せることが収穫である。
それにしても、何の便りも来ないことに若干の寂しさは隠しきれなかった。毎月来るはずのそれが来なくなって数ヶ月経ち、まさか自分が数度死んだとしても、それから過去の郷愁の亡霊と対峙しても、その事実を思い出して整理する間にすら
マリエからの返事がないことをどこかで思い出していた。君の姿をあれ以来見れないまま、君の唇をあれ以来確かめないまま、僕は何も知らないまま死んでいくのかと。真理に何も到達せずに死んでいくのかと。あとから断片的に繋いだ事柄からでさえも、その断片の中に彼女の要素は常に紛れ込んでいたのであった。知り合った女子高校生の紺色のセーラー服は全く彼の馴染みのあるデザインでもなんでもなくて、露伴はカフェで年下の友人がそのセーラー服と連れ立っていても何も思うことなどなかった。
よく考えてみれば、自分だって学ランを着ていたし、
マリエだってセーラー服を着ていたのだ。それなのに、友人の全く似通っているはずのその光景を見ても何も似たような気持ちすら起きない。放課後にセーラー服の女の子と喫茶店でデート。要素だけ挙げれば露伴だって似たような高校時代を送っていた、はずなのに。
その年下の友人の恋愛相談――全く以って興味がない――に、露伴先生だって、似たような経験があったでしょう、と言うものが合ったけれど、そんなものはないね。と返すのが関の山だった。至極真っ当に生きている友人に自分の、未解決の過去について話せる気もなく、露伴の中ではまだ過去にはなっていない事柄だということを再認識するだけだった。
それでも、露伴は街中でセーラー服を見かけると、その色とスカートの丈を見てしまうのであった。膝がちょうど見えるか見えないかの丈の、あの愛おしい紺色はいくら探せども見つかるわけがなかった。見つけないために転居したということを、失望する度に忘れることについてはもう少し反省の必要がある。
どんどん空気中の水分が失われていく季節の中で、岸辺露伴はかつての数年――この秋で、杜王町に越してきて3年になる――の定例行事のようにカフェのオープンテラスで読書をしていた。この季節になるとテラスの人は少なくなる。尤も、手を繋いだままの暖かそうな二人組が相対的に増えるということは忘れてはならない。しかしながら岸辺露伴にとってそんなものはむしろ有り難い対象でしかなかった。彼らは自分たちの世界の維持ばかりにかまけていて露伴のことなど興味を示さないことが大半で、暇な学生グループなんかと違って露伴の邪魔をしないからだ。
それにしても、秋は人を郷愁に誘う。年下の友人のあまりにも新鮮で真っ当な、正しいハイティーンの恋愛模様を聞かされているうちに自分の濁りきったそれを思い出してつい当時読んでいた本をどうにか探して買い求めてしまった。原書のそれを、かつてはかろうじてだとしても辞書無しで自力で読めたものだ。いまはいくらか大人になってずる賢い手を使うようになってしまったけれど。
かつては。かつてはその本の栞は彼女の学校の連絡先の書いてあるカードだった。その前はカードタイプのメトロの時刻表だった。露伴は人よりも読書をする方ではあったけれど、一度たりとてまとも栞など買い求めたことも使用したこともなかった。大抵は目の前に有るものを挟むか、それか読み切るかのどちらかである。今回はもちろん読み切るつもりである。この本に何かを挟めば、たちまち郷愁にかられることが目に見えている。青い部屋の映るペーパーバックは、かつて持っていたものとは同じ本ではないのにいつだって等しく懐かしい。ましてやかつてと違う物を挟めば、あの時と今の違いをまざまざと感じてしまうではないか。
こんな大人向きの本を読んでいた高校生など、今から思えばなんと背伸びした子供だと笑ってしまう。あの頃はまだまだ僕は子供だった。数年しか経っていないのに、現在が大人かどうか問われると何とも言えない。しかしながらあの時よりかはずっと大人であるだろう。社会的にも、感覚的にも、経験的にも。それでもまだ自分に子供じみたところがあるとすれば、年下の知人らに対して張り合ってしまう所、それから目を閉じた瞬間にいまいるここではなくて東京の、あのある程度手狭なアパートにいるかのような気持ちになることがあることくらいか。決して実家にいるような錯覚を得たことはない。ある程度自分の自由が効くようになってからの事柄しかまぶたの裏には降りてこない。それがたまに歯がゆいけれど、あのときの喪失感をふとした瞬間に――大概仕事の最中だったり、取材旅行のときだったが――味わうことだけは想像よりも負荷がかかる事柄だった。何に対しても焦っていたあの頃が目の前に蘇るのだ。しかし、その分現状はそれよりもずっと進歩していてそれが俯瞰できることに気付くことだけが救いだった。
「ここ、いいですか」
「好きにしてくれ」
真後ろから落ちる女性の声に、露伴は文面から目を上げずに返していた。自分の隣に座る物好きなんて、高校生共を除けば極稀にいるけれど、大概自分の対応を見れば勝手に先に席を立つものだ。それに仕事をしているわけもなければ打ち合わせでもなく、机に何か物を大々的に広げているわけでもない。別に支障はないのだ。ただ何故か違和感を感じて太陽が机に作るその人の影の輪郭に目を落とす。ショートカットの髪がかがんで流れている。それから机の上のカフェ・ルンゴ。女性一人で来て、ルンゴとは渋い。ここには結構な女性受けするようなメニューもあったし、ケーキだってある。周囲を見てみれば結構な割合でケーキセットにしている女性だっているはずだ。これは自己内統計では有るけれど。
「昔と読む本変わらないんだね、お兄ちゃん」
「お……」
その声に即露伴は机の上から斜めに視点を動かして、陽の差す方を向く。そんな呼び方をするのは、一人しかいない。
「サヴァ?」
「
マリエ……」
記憶の中の彼女は常に髪が長かった。それは最後の受け取った手紙に添えられていた写真でもそうだったし、長年露伴は彼女の髪を乾かすのを手伝っていたし、いつだってあの野暮ったい二つ結びなり、三つ編みをほどいて彼女の項を隠したかったからなおさらだ。あれが今は陽のもとに晒されているなんて。一気に昔の罪悪感と衝動を思い出して指が震える。まるで、いや実際にかもしれないが、思考から血液がまるで逃げ出したかのような気持ちだ。
「
マリエか……」
面影は変わらなかった。十分に知っている顔で、それは紙の上でしか知らなかったけれど、確かに目元だとか口元だとかはいくらでも手元で見たときと変わらなかった。何年ぶりになるのだろうか、それでも自分はこれを知っている、質感としても知っている。
「もう……。読書なんて、後にして」
彼女は手に持っていたカードを露伴の手元の本に差す。それから、あのときよりかは随分とすっきりと長くなった指で本を閉じて取り上げ、それを机に置いた。懐かしい、だなんて口にしながら。
「懐かしい、これ、私のほうが遅いときによく読んでたね」
「あの本は、こっちに越してくるときに処分した。これは二冊目だ」
「そっか」
マリエは見たことの有る服装をしていた。いつだか写真で見たセーター、まだすこしあどけない頬。幾つになったのかもう忘れてしまった。まだ未成年で有ることだけは確かで、むこうの学年と、今のこちらでの学年がうまいこと記憶に落とし込めていない。自分が学生を離れて以来、自分の年齢だってそこまで正確ではないのに。成人したことで増えた行政手続でその瞬間だけは思い出したけれども。
「ちょっと派手になったね。元気そうで、良かった」
「そうか……」
「漫画も、ずっとありがとう。ちゃんと読んでたし、向こうで週刊誌も読んでたよ。こっちではなかなか難しくなっちゃったけど」
何も知らないはずの文芸部の子に週刊誌は読ませてもらってる、と彼女は付け足した。確かに彼女の小学校の時の知り合いは、自分たちが兄妹であることを知っている。そうでないなら知らないかもしれないし、幸い自分の名前が標準的でないおかげで本名なのにペンネームだと思われている節もある。名字が同じでも彼女たちは気がつかないのかもしれない。
「単行本、ママには内緒にしてる」
「…今から思うと、持って帰る事を考えていなかった。ごめん」
「ううん、今はもう、あんまり詮索もされないから大丈夫」
ママ。彼女の実母、露伴の養母。我々の間の国境線。
「何でここに来た」
「……調べた」
「それは理由じゃない。それは過程だろう」
バレちゃった?とばかりに
マリエは笑う。カフェ・ルンゴを一口飲んで、砂糖を逡巡した後にひとかけ入れている。露伴は本をテーブルに置いておもむろに足の上で指を組んだ。
「帰国してから、調べたのは本当。今回来たのは、留学フェアの講演会のお手伝い。この街だったから、つい手を挙げちゃった」
だめだったかな。砂糖をかき混ぜる手の持ち主はそう言いながらも尚かき混ぜるのを止めない。視線は空中で交差して、彼女の視界に露伴の目は入ってはいない。兄妹で唯一の共通点である虹彩の色。
「……
マリエに会わないために、僕はこの街に引っ越したというのが実は大きいんだ」
「嫌われてたみたいね」
「そうじゃない。……東京は、あまりにも記憶がありすぎて、いないことにばかり意識が行く」
「そうね、私も……帰ってからずっと露伴の影を探してた」
今でも思い出せる。メトロの駅の入口の近くでベンチに座って本を読んでいた事もあった。そもそも彼女の通学は、ほとんど自分と一緒だった。帰りすら。そもそも自分よりも彼女ののほうが体感ではきっとその記憶は濃いだろう。なんたって、あの制服を着ていた間ずっとそうだったのだから。
「きょうこのカフェについたのは本当に偶然だけど、ちょっとでも会えて、よかった」
「偶然ねェ」
「街の名前しかわからなかったんだもの。こんな駅の近くにいるなんて思ってもなかった」
わたしはまだ免許も持ってないから、明日もバスで会場まで行くの。そう言って彼女は口を潤す。いつの間にコーヒーが飲めるようになったのだろう。よりによってこんな欧風のカフェで、ルンゴだなんて。夏前に手紙を書いたカフェを思い出すじゃないか。君はあそこにいたことがあったのだろうか、聞きたいことなど山ほどある。それが渦を巻いて順序立たずに我先にと口から飛び出しそうになるのを露伴は抑えるので精一杯だった。せめて余裕のあるふりくらいさせて頂きたいものだ。いまでさえ、これで出来ている自覚はない。ただ口を開けば順序立たない言葉が、席を立てば彼女の腕を掴んで車に押し込めそうな気しかしない。
「露伴の手紙、びっくりしてたら返し損ねちゃったの。ごめんなさい」
「
マリエ」
もう歯止めなど意識できる域ではなかった。早いところ人目のないところでもっと込み入った話をしなくてはいけない。すべきどころの話ではない。あれについて、あの手紙について自分は説明すべきであったし、その驚きについて自分は聞く必要がある。
露伴は立ち上がって彼女の右手首を掴む。
マリエは驚いた顔で自分を見上げていたけれど、そのまま引っ張り上げて露伴は彼女に言葉を落とせば、手の先の抵抗は解けて露伴に従う。
「もうすこし暖かい場所で話そう」
まさか
マリエはこのまま自分の家に連れ込まれるなど露とも思っていないだろう。ドゥ・マゴが先払い式でよかったと思うのはこの時ばかりである。昔と変わらない自分を信じ切った目で、わかったと告げる
マリエは記憶のままに成長していた。
ほとんど減っていない珈琲を背にドゥ・マゴを後にし、辛うじて残る理性から彼女を右の助手席に案内して露伴は一呼吸置いてから運転席に入る。ダメだ、まだここではダメだ。まだ外だ。まだ外だから。かつて我慢できた事が何故できないのだろうか、と思ったけれど、僕らは随分と都心の暗がりで何度も口付けをしていたはずだ。びっくりするほど大胆に。まだ失うものが何もなかった頃だった。
「随分かっこいい車に乗ってたんだね」
まるで呑気な子供じみた感想が、露伴が乗り込んですぐに横から上がる。その声にすっかり昔を思い出して、まるで御茶ノ水の路上を思い出したまま露伴は体をそのまま伸ばして昔よりすこし薄くなった
マリエの唇に口付けた。上唇を噛むように、そのまま侵入するように。上着に
マリエの手が掛かってはじめてここが杜王町で有ることを思い出して露伴は身をシートに直してシートベルトを締めた。
マリエはそのまま声も上げず、すこし乱れた息だけが密室のなかで空気を乱していた。上着に入れた本だけが違和感を主張している。彼女はきっとまだ自分がこれからどこに行くかなんて見当がついていないのだろう。それでいい。知っているままの彼女である通りであって、年月は彼女を場馴れなどさせていないことだけは先の発言で把握できていた。胸の高鳴りを隠すように露伴はキーを回してエンジンを掛ける。
20161211 chloe, as "innocent incest incident #09"