四色定理の塗り残し

 十分に暖かいと思っていたはずなのに、湖上の風は冷たくて露伴は襟を立てていた。まだ長袖でよかった、と自分の行動に少しだけ反省はするが、この行動自体衝動的に決めたものだから今更過去の荷詰めをした時の自分を責めたとてどうにもならない。むしろ周囲の人間が薄い半袖で生活していること自体が異様だとすら露伴は思っていて、姿形から言語、それから体感温度ですらこの土地に歓迎されていないのではないかと解釈しかけていた。その考えの裏にもう数年は見ていない血縁関係のない母親の事が見えた気がして、その度に露伴は湖を進む船のつくる波を眺めることにしていた。波は次第に収束して形を元に戻す。戻らないものが多い中で殊勝なことだ。
 恐らく彼女はこの湖上でこんな感情を持ったことなどないだろう。というのも、彼女の手紙の中ではよくこの湖で遊んだ事が書いてあった。半分は公共交通機関でもあるけれど、ボートを借りて遊んでいたの。落ちたことはないけれどいっつも怖くて本当は眺めているだけが好き。そりゃあ勿論岸から離れたらそれはそれで綺麗だから楽しいのだけど、落ちたらどうしようだとか、そのまま溺れたらどうしようだとか、そういうことばかり考えてしまいます。マリエからの手紙、そのうちの結構はじめのほうに書かれていた文脈である。水はとても冷たいけれど、青くて綺麗なの。度々出てくるその表現を思い出しながら消えてゆく泡沫を露伴は眺めていた。確かに青い、その青さの定義を知るだけでも十分来た価値はあった。どんな顔をしてマリエはここで遊ぶのだろう。そしてどんな人物と。思い返せば彼女が誰かと遊んでいる風景なんて記憶の中になくて、いつだって露伴の後ろに隠れながらついてまわる幼いマリエのことしか思い出せずにいた。学校の帰りであってもそうで、それは自分の仕事のせいかもしれないけれど、マリエが一人で公園にいる姿だとか、駅の近くで同じ制服の流れから飛び出して自分のもとに小走りで駆け寄る姿ばかりしか見た覚えがない。尤も彼女にも学校生活なんてものがあったのだろうから、人付き合いはあっただろうけれど、露伴に見える範囲の中にそれがなかったというだけだ。露伴はマリエのことをほぼすべて知っている気でずっといたけれど、ここ数年の別離の間だけでなくとも知らないことがまだまだあったと今更気付かされるのだった。それが物理的な距離だけでなく心理的な距離も開いてしまったような気がして、露伴はこの湖の記述が苦手だった。とはいえそんな子どもじみた感想を彼女に言えるはずもなく、その支配欲求のためにあの時ここに来ることを決意したのかもしれない。その欲求を満たすつもりがこうしてひしひしと距離の遠さを再び感じることになるとは思わなかった。ここ数年で恐らく最も近くにいるはずなのにである。
 船で騒ぐ学生を見ても露伴の後悔は止まない。揃いも揃ってリュックサックで騒ぐティーンの群れに黒髪をどこか探してしまう自分がいる。黒髪の学生が居てもその顔も背格好もマリエではない、解っていても目で追うことを止められないのは何故だろうか。最初から彼女を垣間見ることなど期待していなかったし、会ったら駄目だという自覚もあったのにかかわらず、自分の目が彼女を探していることが露伴には不思議に思える。もしマリエとこの場で遭遇したら、彼女は自分をなんと呼ぶだろうか。お兄ちゃんか、果たして露伴か。彼女の背はまた伸びているに違いない、僕はあまりあれから伸びていないけれど。きっと抱いた感覚も変わっているのだろうと思うと露伴はどこか気温以上に寒気を感じるのだった。会ってはいけないと理性は第一にそれを考えているけれど、他の思考は、感覚は全て彼女に会うことを考えている。それでもマリエが記憶から違って形成されていることを感じるのが辛くて、会ってはいけないと理性が封じ込めているのではないかと思うくらいに現在のマリエのことを思うとどこか鳥肌が立つのだ。知らない街で、彼女は知らない顔で、知らない人間に笑っているのだろう。知らない言語ではないぶんマシなのだろうか、その未知を好奇心と捉えるよりも恐怖として捉えている自分がらしくないとすら思う。ここまで来て知らない街であることを既知のものとして塗り替えたのは、恐らく露伴の考える最も有効な恐怖の克服手段だった。
 船から降りてなお露伴は街を歩き続ける。彼女の今までの手紙に載っていた風景だとか建物だとか、それから彼女が酷評する硬すぎるパンだとか――実際に食べれたもんじゃない、と露伴は前日までの美食を呪った――その足跡を辿るように露伴は街を彷徨う。傍目には単なる奇妙な観光客でしかないだろう。郊外までいけば彼女の学校があるのは知っていたけれど、そこまで行ってはいけないことくらい分かっていた。彼女は隠れてこの街の郵便局からあの白くて固い封筒を投函している。それだけで十分だった。彼女の行きそうなところの見当なんてつかなくて、これがせめて東京だったら、あの喫茶店に行っただろうかとかあの本屋に寄っただろうかだとか、そういう見当がついて足跡を辿れたかもしれないけれど、行動の好みすら気付けばわからないまま過ごしていた事に気がついて露伴はカフェにふらふらと入る。ひどい物価を気にする余裕もなくコーヒーを頼んで、それからさっき買い求めた便箋と封筒を出して手持ちのボールペンを握る。一体何から書いて良いのかわからない。本当は君のいる街に来ていて、みっともなく君の痕跡を探したんだ、とでも書ければよかったのだけれどもそんな意気地も収穫もなくて、いっそ鉛筆に持ち替えて船からの景色を描くほうがマシだったかもしれない。マリエがどのようにあの湖の色を見ているのか僕はやっとわかったけれど、きっとその見え方は違う。芯ホルダーを鞄から取り出して枠線なんか全て無視してさっきの風景をその便箋に乗せてゆく。その便箋に影を作るように小さなデミタスカップが置かれたけれど、それに口をつける余裕がまだ露伴にはなかった。

 この数年で開いた物理的、心理的距離についてここ最近の露伴は意識的に無視をしていた。住居を変えたことも、それについて連絡をしていないことも、それから新天地で新しい友人が出来てその姿にマリエを思い出すことも。自分の身体的――と言って良いのかわからないけれど――変化や、彼女の知り得ない自分の忘れていた過去を少しずつ取り戻していることも。それは感覚的なものであって具体的になにがどうというわけではないのだけれども、あの街に戻って空気に既視感を覚えたことだった。思えば距離を取らされてからこの今は休みを貰っている仕事に打ち込んでいたのも逃避行動の一つであったかもしれない。自分が正しくどう考えていたのか、自分で自分の記憶は読めないのだからもどかしいけれども、きっとそう考えていないことはなかっただろう。勿論自分の作品が世の目に触れて、共有されて広がっていく事以上の快感なんてないと思っているのだけれども、第一の読者を失った感覚だけはあの時から持っていた。カラーを封筒に入れる前に見せた時のきらきらした目、過去を読み重ねた末の感想。どれをとっても今現在に足りないと思っているものだった。勿論彼にはきちんと読者もいるし、それこそ原稿を発表前に読んでくれるような友人だって出来たのだけれども、それでも彼らにはマリエのような過去作の読み重ねもなければ、傾向の感覚も言語感覚もなかった。それが寂しくて自分の作業効率はどんどん上がってゆくのだろうか。読まれたいと思う感情の根底に彼女に読ませたいという気持ちがあるのだろうか。目に見えて年々上がってゆく作業効率の中で露伴はそう分析していたのだけれども、過去も私情も開示したことなどないのだからそんなことおくびにも出しなどしなかった。ヘブンズドアーに似た能力を持つ人間が周囲にいないことだけは幸か不幸か、自分が何故この状態に陥っているのか一度くらいは客観的に読まれて見たいと思っていたけれど、読ませるにはこの背景は重くて長過ぎる。
 距離が開くことを彼女は手紙の中で恐れていた。どんどん露伴との時間が薄まっていくようで、共通項がどんどん失われていくみたいで怖いの。そう彼女は度々書いていて、それでも全然私には絵なんて上手に描けなくて悲しくなります、とも書かれていた。彼女が物心ついた時から隣で絵を描いていたから、マリエの中で自分はその作業と密接にリンクしているのかもしれない。勿論彼女のお揃いの単語帳の話も出ていたけれど、露伴は転居の際にそれを捨てきれずに引っ越しの荷物の中に入れていた。単語帳を見るとあの帰り道を思い出すという点は同じであるということに彼女はひどく安堵していて、もういらないはずなのに捨てられずに何度も読み返しているという。露伴は一度も開いていない。階段上の本棚の一番下に置いていて、今後開くかどうかもわからないけれどきっと捨てられないだろう。缶の中に仕舞いこんで読み返せない過去の手紙と同じで、捨てられこそしないが開くには懐古と後悔に包まれて時間を食うだろうことは目に見えている。
 共通項を失ってなお自分たちは再び元に戻れるのだろうか。文章の上では変わっていないと思う。けれどもマリエの感触も、それから感覚も全てあの当時のままであるはずがない。それは露伴とて同じことであって、彼女からしてみればもっと顔が近くなったかもしれないし、あの時よりもっと距離のある、癖の強い大人の一人――彼女が苦手としていた部類の電車の人間か、それ以外の目に入らない人間か、どちらかかもしれない――になっているかもしれない。マリエが自分の名前を呼ぶアクセントも、声も変わっているかもしれない。確かに自分も変わったかもしれないし、話し方だって変わったかもしれない。変わった姿に遭遇して過去のことが過去のままその場にとどまり続けることが露伴は怖かった。過去を否定されても、悲しくてもそれは許せる。しかしながらその過去を間違いだとした時にマリエがひどく後悔するのではないかということだけが気がかりだった。勿論あれが間違いだと考えたくなど微塵もないし、社会的に罰を受けろと言うのならその決定に従おうとも思っていた。でも自分の起こした行動がマリエの精神を犯すことだけは避けたかった。それに値する行動をしていたことを否定するわけではないけれど、それでも、あの日々が自分たちの間でまで罪悪として認識されることだけは耐えられない。
 湖畔の街並み、光の反射。それから余白に耐え切れずに描いた記憶の中のマリエの横顔と、それから自己反省気味に描いた、彼女にも自分にも慣れたキャラクター。目の前に彼女がいてこの手紙を読めば彼女の空白の期間を読めただろうにと思ったけれど、そんなことをするよりかはもっとずっとあの唇から全てを聞きたかった。露伴と2音節で自分の名前を弾くあの唇で、今までの空白を埋めて欲しかったし、それからその唇に縋りもしたかった。最後に触れたのは彼女の高原学校の前だ、信じられるだろうか。あれから一度たりともあの唇に触れていないのだ。幸福な気持ちになるような名前の呼ばれ方すらしていない。最後の寝ぼけたようなあの声でどれだけ手が震えたか。記憶の中の顔より少しだけ大人びていたその横顔の影を指でぼかしながら露伴はあの時のことを思い出す。杜王町に居を移して少しずつ記憶から離れられると思っていたのに、却って意識しすぎている。忘れるように何かに没頭して、ふとした瞬間にありありとあの日の事を思い出す。その繰り返しが転居以来繰り返されているのだった。特にこの旅行はそうだ。マリエと同じ時間帯で生活しているという事実がそうさせるのかもしれない。思い出す毎に離れただけの距離と時間を概算するのは悪い現実だった。自分の中の恐れにまでリアリティを追求しても、この体験など到底描く気になどなれないとわかっているのに。
 君の街に少しだけ寄ったけれど、素敵だったよ。それだけを便箋の一番下に書き足して忘れるように露伴は便箋を封筒に入れる。ぺろりとその封をして、もう暗記するほど書いた住所と名前を表面にボールペンで綴って、赤いボールペンを持ち合わせていないことに気付いたけれども、赤字の但し書きは今日ばかりはいらないのだった、と安堵してそのペンすら露伴はポケットに戻す。何が素敵だ。マリエの居ない街に何の価値がある。マリエの視界を見たところで何の価値がある。確かにマリエの見た風景を自分も追体験したけれど君はそこには居ない。紙の上の過去に何のリアルがあるっていうんだ。そんなもの横で喋って伝えればいい。言うのが面倒ならその手で僕の顔を見せたいものに向ければいい。いつだってマリエはそうしてきただろう。僕を困らせないで欲しい。
 言語化できなかった寂しさだとか、それから郷愁だとか慕情だとか、全てが交じり合ってマリエと彼女の名前で露伴はそれを内から空気に溶かす。伝わるはずがないのにそれは止められなくて、抑えるために露伴はすっかり冷えて味も落ちてしまったエスプレッソを砂糖も入れずに一口で飲み干して席を立つ。この手紙を捨てる気が起きないうちに切手を買ってポストに入れてしまおう。うっかりゴミ箱に捨てても気づかないでおこう。きっと彼女は今頃最後になるだろう手紙を書いている。あともう少しで離れてから丸4年が経つ。再会まではまだ折り返し地点に過ぎないのだった。それでもこの手紙を読む前に彼女が手紙を書き終わっていて、リアクションのないまま最後の手紙を寄越してくれればいいのに、と自分勝手な感想だけを持ちながら露伴は街角で数枚の硬貨と引き換えに切手を買い、その横の黄色いポストにその爆弾めいた今までで一番薄い封書を投函した。リアクションをとれないまま自分と同じように悶えればいい。会えないことにもっと苦しめばいい。追って来いとは言えないし、追ってこられたら帰しなどしないけれど。今まで綴れなかった自分の中の恐怖に、彼女はどんな顔で向かい合うのだろう。その顔が見たいだけなのに、それを知れないことだけは残念だった。少しだけ晴れやかな気持ちで露伴は都市めいたターミナル駅に足を進める。この街に泊まる気などさらさらなかった。もともと予定がふくらんだだけであったし、と露伴は湖を水源としたミネラルウォーターを買い求めて、その硬さと炭酸のなさに少しだけ驚きを覚えながら道を急いだ。夜にはミラノに戻るだろう。それから数日後に、再び僕はあの街で彼女からの予定調和的な最後の手紙を受け取る。仕事を再開させたら、少しは彼女のことから少し目を離せるだろうか。つい口をついて飛び出すマリエの名前は、杜王町にいるより、東京にいるより、ずっと重く空気に沈んで石畳と同化している気がする。それに、来る前は同じ時間帯にいることだけで随分と身近に感じたはずなのに、ここに来るにつれてどんどんマリエの存在を遠く感じるようになってしまった。早く離れたほうが良いのだ。最初の印象通り、この街はきっと自分のことを歓迎してなどいない。世間一般の、自分とマリエの間の関係に対する目のように。ほぼ片手で足りる人間しか知らないはずなのに全員がそれを知っているかのような錯覚を受けながら露伴は電車の時間を待つために再びカフェに入り、ふと次の部の街並みに少しだけこのいけ好かない街の要素を取り入れることを思いつく。空気が薄いはずなのに、言葉が重く落ちる街、ものが遠く感じる街、それだけで十分だった。彼女のリアリティはどんどん失われていって、代わりに街のリアリティを得てしまうのも職業病なら、どれだけ自分は悲しい業に身を投じているのだろうか。一番知りたいことだけは、自らの手で読み解けないのが露伴の盲点であることを誰よりも本人が自覚していた。
20160202 chloe, as the "innocent incest incident #08"