Solitude bruyante
わたしは多分不注意なのだ、それもものすごく。
マリエは携帯にまたメールが来ているのを目で確認しながらその電源を切る。電源を長押しする
マリエをみて政宗は不思議そうな顔をしながら一息つくようにやたらとどろどろしたドリンクを口にした。
「What's happen」
「どうもしないわ」
政宗が彼氏だったらよかったかもね。そう笑って
マリエはテーブルに携帯を置き飲み物をかき混ぜた。下にすこし透明な層が出来ていたのを、政宗はさっきからずっと眺めていたのだった。こいつが甘いものを飲むのを初めて見た。慣れないのか混ぜないまま底に沈殿するそれもあいまってなんとなく
マリエが危うく見える。
「物騒なことを言うな」
何時だってお前を迎える準備は出来てるぜ、そう言いながら政宗はその緑のストローにかかる
マリエの指を眺めていた。きゅうに講義が休みになったから、いっしょにお昼でも食べようとカフェに誘ったのは
マリエのほうなのに今日はえらく口数が少ない。
「環境経済学のノート、この前の取ってる?」
「まあな」
「先週のぶん、今度見せて」
「okay、明日の英語の時に渡す」
そう言いながらも政宗は少し不思議な気分だった。いつもノートを見せてくれと言うのは自分のほうで、
マリエは見せてくれる、そんな関係だったからだ。同級生以外の何者でもない。去年と今年と同じクラスで、語学と必修、それからすこしばかり教養がかぶっていたものだから仲良くなった、それだけだった。
マリエには頭の固い彼氏がいたし、政宗は特にステディな人間をつくる気はなかった。単なる友達だったから、新歓やら飲み会のときだって家まで送りこそすれそれ以上はない。
「石田が」
「そうね」
三成なんてひと知らない。そう言いながら
マリエの手はドリンクの周りだけを混ぜ続ける。もう溶けきっているのに気づかないかのように、
マリエはゆっくり、手持ち無沙汰にそれだけをいじっていた。
「不穏だな」
「あのひと頭おかしいんだもの」
「そんなおかしい奴と居るって決めたのはお前だろ」
「政宗の言うことは正しかったわ」
そのうちここにも来そうよね。そう言って
マリエは笑う。石田はこうして
マリエと政宗が会うのをあまり好まない。それは石田と政宗の仲があまりよくないのもあるし、単に彼の嫉妬心によるものでもあるだろう。
マリエが大谷と会っていても、彼はあまり何も言わないようだから。
「ゼミ、豊臣ゼミに入れだって」
「Hum」
「わたし全然あそこは考えてなかったの。やりたい専攻でもないし、なにより倍率すごいじゃない」
「去年は12倍だったか」
「それなのに、ね。なんだか不思議な気分でもやもやしてる」
そのまえにもうゼミのこと考えなきゃな時期かしら。そう言って
マリエはやっと、ドリンクを飲んだ。カップの側面の水滴が彼女の指を濡らす。
「それでこの前からあんまり仲よくないの。おまけにわたしが豊臣ゼミなんて、て言っちゃったから尚更怒っちゃって」
石田の盲信は今に始まったことではない。聞いた話だと、ここの大学を選んだ理由でもあるらしいから、俄にこの二人には理解しがたいことでもあった。彼の前での豊臣先生への不敬はあまりいい結果を生まない。それがいわゆる楽単だとか、エグ単だとかそういう内容であってもだ。
「政宗は、もう考えた?」
「ああ」
「……なんだ」
考えてないの、わたしだけかな。そう言って
マリエは寂しそうに笑った。きっとそれ以外にも色々とあったのだろう。
マリエは滅多にこんなことを、石田とのことを人には言わない。
「なんだかいろんなことが分からなくなってきちゃって、今度の連休に一緒に遠出する予定もやめたくなってきちゃった」
ごめんね政宗。そう言いながら
マリエは一緒に買っていたチョコレートを開けて政宗のほうにぱらぱらとわける。言っても始まらないのはわかってるんだけど。
「なんか政宗だと何でも喋っちゃうからいやだ」
「そのまま俺の所に来いよ」
「そんな、わたしファンに殺されちゃう」
「
マリエ」
チョコレートの色を紙の上で分けながらそんなことを小声で話していたところでふっとそんな声がして
マリエははっと振り向いた。トレイの上でばらばらに、ただ色だけで分けられていた赤とオレンジのマーブルチョコレートが
マリエの指で再び混ざる。
「行くぞ」
「嫌だ」
薄着の石田は相変わらず白い。
マリエの肩に掛かる手も、もちろんその顔も。気温が上がり始めて初夏らしい季節の今日でさえ暑さとは程遠そうな印象だった。おそらくずっと探していたのだろう。すこし息は切れていたけれど、汗すらかいていない。きっと
マリエが来たときに携帯を切ったのもこれに関係していたんだろう。
「いまごはん食べてるの。ほっといて」
「チョコレートが昼食とは笑わせるな」
「フラ語の宿題のはなししてるの。いしだくんドイツ語でしょ関係ないでしょ」
ね、政宗もうスピーチ考えた?そう聞きながら
マリエはカバンからノートを取り出した。確かにそれは気になる話題ではあったけれど、実際期限はひと月ばかり先だ。
「居合とそれの歴史にするぜ」
「いいね、わかりやすいと思う」
「
マリエ」
石田がいらいらしているのが目に見えて、向かいに座っている政宗としては居心地が悪いことこの上なかった。
マリエはそれをわざと無視してフランス語のノートを広げる。確かに今日の1限で課されたはずなのに、もう彼女のノートにはいくらか文章が書かれていてすこし政宗は焦燥感を覚える。
「
マリエ」
「折り紙についてってどう思う?」
「全員に配って実演したら時間も稼げるんじゃねえか」
「やっぱり鶴が有名どころかなあ。鶴ってどんな名詞か忘れたけど」
去年の単語テストはしんどかったよね。そう言って
マリエは笑う。完全に石田に気づかない振りをして。去年はやたらと単語テストの多い講師で、花の名前やら動物の名前やら、絶対に使わないようなものばかりを覚えさせられたのだ。それに一週間が費やされたような一年だった。石田は知らない自分と伊達の共通の話題でもあった。本当に
マリエはいろいろ思うところがあるらしい。いつもだったら、こんなことはしない。ここまで無視もしないだろう。まるでこどものように石田はただ
マリエを見つめていて、その肩に手をおいて立ち尽くすだけだった。自分になにも声がかからないのが不思議なくらいだと政宗は思う。いつも一緒にいるときに何故お前がここにいる、と食い下がってくるのが石田の常だからだ。
「
マリエ」
「去年なあ……懐かしいよね、先生伊達って読めなくてダアテェーって呼んでたよね」
「普通に綴ればダットと読まれるしな」
チョコレートを摘みながら
マリエはダット、ダアテェーと去年の講師の真似をする。机においたままの政宗の携帯にランプが灯り、政宗が確認している間も彼女はまたさっき混ざったチョコレートの仕分けをしていた。
「悪い。小十郎に呼ばれた」
「ううん、大丈夫。じゃあ明日環境経済学のノートよろしく」
「ああ。またな」
オレンジのあげる、と紙にくるんで出してきた、彼女がさっき仕分けしていたチョコレートを受け取って伊達は席を立つ。石田は何も言わない。こんなことになってから何日経っているのかは知らないが、そう短いことではないのだろう。そう思いながら政宗は階段を降りた。窓際でもないのに見つけたということは、実際ほとんどの大学の周りのカフェを探したんではないだろうか。まったくご苦労なことだ。
「
マリエ」
「わたしもノートまとめようかな」
なんとなくひとりで居たくなくて、それでも同じ授業がいきなり休講になったからさっさと抜けだして三成に見つからないようにしていたというのに、なんてことだ。そう思いながら
マリエはフランス語のテキストを出していた。三成は今日2限からだったから、確実に見つからないと思ったのに。
「何故私の方を見ない」
「わたし、ほっといてって言ったと思うの」
「確かにさっきそうメールを寄越してきたが何故返事も返さない」
「携帯切ってるからよ」
まずは今日の範囲を読んでから清書しよう、そう
マリエは思って何枚かルーズリーフを取り出すと、石田はおもむろにさっきまで伊達が座っていた席に座る。なんとも居心地の悪い状況だ。
マリエは決して顔をあげようとしない。
「
マリエ、私が何かしたか」
「そんな事言うなら考えてみればいいじゃない」
「私の方を見ろ」
「いや」
さらさらと
マリエは今日やった例文を書き出す。その字はとても見覚えのあるものだったけれど、石田にはなんと書いてあるかはわからない。そもそも何故出会ったのだろうとすら考えていた。石田と
マリエの接点は、思ったより薄い。
「いしだくんと会いたくないの」
「何故だと聞いている」
「わからないの…?」
きっとわかるわけはないと思っていたけど、本当に心当たりがなさそうだ。すっかり呆れて
マリエはノートもテキストも閉じる。このままここにいてもきっと目の前の人はどかないし、授業の時間がきてもどかないで私についてくるだろう。実際問題、この次の授業までは時間が開いていて、授業までついてくることを知っているしもう逃げられないのはわかっていた。でも視線を上げて言葉を発してしまうのも泣きそうで、仕方なく
マリエはおはじきみたいにつやつやのチョコレートをまた仕分けし始める。泣きそうだ。どうしてだろう。いつの間にかふわふわしていい時間がなくなっている。何も考えなくてよい夏休みみたいな時間が。いつの間にか周りの皆は、あの楽天的な伊達でさえ、そして目の前の三成さえ、進路を少しでも考えていた。何がしたいのかもわからないし、自分がどうなるのかもわからない。どうなりたいのかすらヴィジョンがない。キラキラした目で見られると焦るから会いたくなかった。もちろん進路を、彼としては勧めているつもりだとわかっていても、強制されるのも。
「子供じゃないんだから、言わないとわからないだろう」
「子供なのがわかったから言えないの」
チョコレートを選り分ける
マリエの手に触れるように三成の手が伸びた。いつも不躾に握るのに、触れていいのかわからずに逡巡しているかのように手がほんのすこし離れたところで止められているのがおかしい。触らないでほしい、せめて遭遇するならもっと人気のない泣いてもいいところがよかった。迷った挙句に三成は
マリエの手ではなくチョコレートを選び、こちらの気持ちがわかっているのだかわからないのだか、本当に掴みかねると思って
マリエは小さくため息をついたものの、安堵していることも認めざるを得なかった。
next