ワンルームの楽園

何もしないだけでどんどん時間が過ぎていく体験というのは仕事中によくあることではあるが、それでも感覚が研ぎ澄まされているし、暇つぶしに煙草も吸っているのであまり何もしないという実感はない。しかしながら今の瞬間は本当に何をしているわけでもなく、温まったシーツの中で目を開けては閉じ、閉じては開け、動き出せないまま天井や窓を眺めるばかりで、この寝室にこんなに長いこといることもめずらしいことかもしれないだなんて思い出していた。夜遅く朝早いことも多々あれば、帰らない日もある。本当に何もない休暇というのは久しぶり過ぎてどう過ごすかなんて忘れてしまった。

プロシュートのナターレの休暇はもうそろそろどれだけ経ったのか忘れるほどに何もなかった。始まりは忙しく、ただただ忙しく仕事を終わらせ、急いで家に帰って支度をしたのに結局日の入りにぴったり間に合わせるように家をでてマリエの生家まで混む道を飛ばしたのだった。それからはまるで時間の進みがゴムのように伸びては伸びて定かではない。当初のこの関係に至った理由と目的のために挨拶は折り目正しく、ごく自然に。環境柄悪くなった口を取り繕う必要はあったものの、それ以外は必要以上に取り繕う必要もなくただマリエとその家族の話を聞いているだけで済む話でもあった。もちろん先に聞いていたとおり一番の意思決定者に対する賛辞――このツリーはなんて大きんでしょう、立派でなんてこの場に相応しい。それからなんてこのサーモンクリームパイとカピトーネは美味しいんだ!素晴らしいクオーカがいますね――は忘れない。神妙にお祈りを共にするのも、贈り物だって欠かさなかった。結果としてその贈り物グラスは夜中に晩酌で出てきたのだからまあ成功したといえよう。お祈りも、それから家長の重々しい今後の発展についても、話題に上げられやすいからかその日はとっぷりと飲まされてしまって共にマリエ の古い部屋の小さなベッドでシーツにも潜らずに寝てしまった記憶がある。よっぽど狭かったのかマリエ は横で寝なかったらしく、向かいにある二人がけのソファで眠っていた。カレンダーの上での正しいナターレの始まりはこうして口火を切ったのだが、さらに着替えてお祈りに行き、そこから地獄のような人数での正餐に連れて行かれたことは覚えている。内容は殆ど覚えていないが。実父と、それから義父と義祖父、それからその脇に連なる有象無象の血縁者、姻戚者の流れは果たして正しいナターレのあるべき姿であるかどうかは怪しい。家族で過ごすと言っても家族の定義からやり直すべきなんじゃねえか。神に祈り罪を浄化したつもりでいても全員生まれた時から日陰者であるというのに。長い正餐の間中マリエ は隣で笑って、都度きちんと話題を作っていたが、どうみてもいつもの日中の仕事での姿と変わらず本心では飽きていることをプロシュートは知っていた。よっぽど昨晩のほうが幸せそうにはしゃいでいたのだから、その風景を知っていればわかることだろう。
はやくお家でゆっくりしたいな、とぼそっとマリエ が伝えてきたのはその後のことで、口紅の色はこれでよかったか見て欲しいんだけど、と甘えて引っ張られていった廊下の鏡の前での事だった。
「思ったよりもたくさんの人がいて疲れちゃった」
「その割には随分楽しそうに見えるな」
「そう?それなら良かったけど」
はやくお家でゆっくりしたいなあ。そう腕を引っ張って甘える彼女をしっかりしろ、と諭すがそんなことはこちらも重々承知で、同じ気持ちでいるくらいに気が滅入る集まりでもあったことだけはお互い言葉にせずとも共有できていたのだ。たとえそれが自分たちの全てのきっかけの根本だとしても。朱色の唇はがんばろー、と気のない言葉を紡いでから、切り替えるように口角を上げてよそゆきの表情を作っていた。

頬の赤い彼女を連れ帰ったのは日付も変わる頃だったか、やっと開放された気持ちで最小単位の家族に戻った時にふと違和感のような気すらした。自分があんな家族家族した伝統的な環境で、伝統的な時期を過ごしたことも、こうして人を人と住む家に連れ帰ってきたことも。何もかもが新しい、とおもったがそれは当たり前のことであって、生活が一変してからまだ季節は一巡もせず、ただ秋が深まりいつのまにか冬になっていただけだった。新しい環境にすっかり慣れたと思っていたのに案外慣れきっていたわけではないらしい。このポーチを上がった間で手袋を外し、外を一瞥して中に入るという作業だけは意識せずとも繰り返せるようになったのだが。
「はじめてだわ」
「ハン、箱入り娘だったとでもいいたいのか」
「そうね、こんなふうに、酔っ払って帰るなんて許されなかったけど、そうじゃなくてね」
耳を貸して、と壁に手をつきながらマリエ は期待を顔に浮かべ、片手をプロシュートのほうへと伸ばしていた。何だとその手に絡まるようにコートを脱いで近づけば、その腕は背中から首に回されて、なめらかなコートの表面がプロシュートのスーツの生地を撫でるように密着した。
「プロシュートと、手を繋いで帰ったのが、はじめてってこと」
「ガキみてぇなことを言うんじゃねえ」
柔らかなコートの表面がするする滑って扉とプロシュートの間に落ちてゆく。それを拾い上げるようにマリエ を起こしあげると、楽しかった、と彼女は満足気に目を閉じたのでそのまままっすぐベッドルームに運びこむことにしたのだ。彼女のお気に入りの靴を脱がせるのも、コートを剥いでドレスを脱がすのもその後でいい。戸締まりをしてこの厄介なものを抱え込むとドアを蹴り気味に開けてプロシュートは家の中を進む。いつだってそんな乱暴なことはしてこなかったけれど、なんとなくこれが一番心境にも、普段の所作からもしっくりきたのだ。靴跡がついていたらマリエ は怒るかもしれないが、その時は黙らせればいい。
自分のコートを脱いで掛け、それからむずかる彼女のコートを脱がせては掛け、転がして背中のジッパーを下げればいつになく楽しそうに笑うので誘っているのかとすらプロシュートは錯覚しかける。しかしながらもうこんなに半分意識を睡魔に明け渡している人間とするのもどうかと思うし、事実お互いに疲れていることは明白だった。休暇の意味がないくらいに疲れている。疲れている時にしたくなるのは当然なのだが、同意もない、意識もないでは愉しさも勿論ないのだ。仕事並に冷徹に、先月見立てて贈ったドレスと本人の肉体を離してベッドサイドの椅子の背に投げた。どうすべきなのかを知らないのもあれば、幸せそうに転がるマリエ を見ているとハンガーにかけるのも馬鹿らしくなってきたからだった。自分の衣服も脱いではそこに投げてしまえば、すっかり夢見心地のマリエ はうふふ、とこれ以上なく上機嫌でプロシュートを手招きしていた。
「ねーえー、お願いがあるの」
「ダメだ。寝ろ」
「お化粧をねー、落としてほしいなーって」
「自分でやるんだな、アマちゃんめ」
招き伸ばされた腕をひっぱってマリエ を起こせばええ、と明らかに非難の声が上がる。下着だけを介して体温が伝わってくるのも悪いものじゃあないが、考えは今更改める気もなかった。起こして洗面台に連れてゆき、自分も歯を磨き、彼女にもおなじことをさせて化粧を落とさせる。朱色のリップの下のサーモンピンクの唇は眠たげにミントの泡を作っていた。それをまたなだめず力任せに寝室に連れ帰り、シーツの中に封印し、明かりを落として自分もその中に入り込んだところでやっとこの家庭のナターレは始まったのではないかという気持ちになったことは覚えている。最小単位の始まりにしては導入が長すぎた。時計はもう26日をとっくに回っていたし、シーツの海に封印されたマリエ も規則正しく寝息を立ててプロシュートの手を両手で捉えていた。昼に外を共に歩けはしないし、夜だってそうだ。せめてこの間くらいは許してやらなくもない、そう思いながらプロシュートもまぶたを閉じた。36時間の1日の終わりは音もなく閉幕したのであった。

とっくに目が覚めているのは知っている。さらさらしたシーツの中でくっついては離れる肌を追ってはくっつき、くっついては離れるのを繰り返していればいつのまにか足を絡めとられていた。起きた宣言をして休日を始めるまであともう少し、この部屋のなかではまだ休暇のはじまりを楽園の中のように温く享受していたいとばかりにシーツの中の体温は上がってゆく。寒い楽園だなんて聞いたことがない。いつも楽園というのは温かい環境のものであって、こうして均衡を保たれた状態なのではないかと逃げるマリエ の手のひらを掴みながらプロシュートは考えていた。さしずめ今この均衡を崩そうとする自分は悪魔に違いない。楽園では下着だなんて概念はないのに、脱がさずに翌朝まで着させて”取っておいた”自分はまさしくそうだろう。手をそのまま手繰り寄せて、それとは別の手で贈ったばかりの赤い下着のホックをつまんで外せば、あっと小さく息を呑む声がしてちいさな楽園は陥落したのだった。閉じていた目が開けども、視線が交わろうともそこには言語はなく、さらさらとプロシュートの手はシーツと肌を滑っては楽園からマリエ を削りだすのだった。休暇はまだ始まったばかり、呼び出しの電話もなく、静かに温まった空気は動きとともに漏れだしてゆく。

20151217 chloe, as 白い器とナイフとフォーク #3