réfraction
岸辺露伴は東京が嫌いだった。だからこそあんなことをしたのかもしれないと思いつつも、別にそれが東京でなくとも追い詰められた僕達は結局同じ結末を辿っていたのかもしれない。
家族で東京に転居してからというもの、両親は毎日毎晩後悔なのかなんなのか知らない言い争いをしている中で岸辺露伴は一人布団に潜っていた記憶ばかりがある。暗い部屋、もう一人で寝れるでしょうと寝かされた部屋の隣では両親の大きな声がして、その内容は分からずとも以前は仲の良かった両親がまるで今は仲違いをしている事実だけは感じていた。母は朝な夕な疲れていて、父の顔など当時は覚えていなくて、毎朝保育園に向かうために起きねばならない時間よりずっと早くにじゃあな、露伴と言って出て行く声しか覚えがなかった。
S市にいた頃は毎朝起きて母がいて、父がいて、父を見送ってから自分も母に見送られて幼稚園に行くことが少しだけ続いていた習慣であったのに転居してからそれがなくなり、声だけの父と、それからどこかイライラした母親に連れられて長い時間過ごさなくてはいけない保育園に連れられていかねばならないだけでこの町に対して嫌悪感を抱いていた記憶がある。何もかもが変わった中で唯一変わらなかったのはスケッチブックだけで、クレヨンと画用紙はどこでも同じようにものを描いて再現してくれたので露伴はお絵描きだけが好きだった。
地獄のように暴れ回る子供の多い中でひっそり絵を描いていた岸辺露伴を誰しもが気にしたが、どうせ皆仲良くなってもいつかは、またはすぐにでも、両親のように言い争うのだろうと思うと露伴はなおさら絵にばかり向き合っていたのだった。そのような岸辺露伴が内向的だと評されるのは今から考えれば致し方ないことだが、母親はその評価をまるで自分に向けられたかのように腹を立てては毎朝毎晩露伴にお友達と遊びなさい、絵を描くのをやめなさい、と言いつけ、ついぞクレヨンをしまいこむようになった。それから岸辺露伴は地面に棒で絵を描いては消し、描いては消しを繰り返して砂で絵を描くようになった。
絵を描くことを教えてくれたのは母親であったはずなのに、全てが転居から変わってしまったことに唯一気づいていたのは露伴少年ただ一人であったのかもしれない。転居から1年後、母は出て行き、岸辺露伴は父親に連れられて朝早く家を出て保育園についてから、一番最後に帰る子供になった。父親はろくに料理などできなかったが米を炊くことはできたので、それの詰まったタッパーと、母親と違っていくらでも買い足してくれるクレヨンが岸辺露伴の保育園の標準装備になっていた。誰ももう岸辺露伴のお絵描きを邪魔する人間などなく、保育園にいる間も、帰ってからもずっと絵を描いて、ごはんを食べ、昼寝をしてまた絵を描くだけの日々が彼の生活の全てだった。そのうちに料理をする女性が家に上がり込み始め、やがて母親を名乗るようになったが、この人は露伴の描く絵を好きだと言ってくれたので彼にとっては敵ではなかったことだけは正しい。
流転の日々から、ようやくやっとわずかに社会性が育って義務教育の門を叩く折に彼の生活はまた変わる。妹ができたのである。その事実を告げられてからというもの、比較的殺風景だった家はどんどん彩られ、露伴はおにいちゃんになるのだからと物事を仰せつかることが多くなった。もう小学生なのだから一人でお留守番できるわね、と随分以前からできていた今更のようなことを言付けられ、緑のひもでくくられた鍵を首から下げ毎日学校に通い、母親は病院のために家を空けるようになる。父もまた家を空けるようになり、岸辺露伴の初めての展覧会である文化祭は両親を描いたにも関わらず両親が来ることなく終わった。その時に妹が生まれたからである。このときから心の何処かでおにいちゃんになるのだから、両親からは顧みられなくとも我慢をしなくてはならないのだと信じていた。この時から10年後に露伴がデビューするまで、両親は一度として露伴の絵が展示されている現場に来たことはない。それでも妹は、
マリエは毎度来ては感想を述べるように成長した。
事実、露伴はたった一人の妹を可愛がった。彼のお絵描き――その頃には鉛筆でデッサンすることを覚え始めていた――は毎週彼女の成長を紙に留め、帰宅してから彼女の面倒を見るのは主に露伴その人だった。露伴は妹の隣で宿題をし、絵を描き、それから母の家事の合間の応対だとかを進んでやったし、妹の第一声はおあん、という露伴という名前の残骸だったのだから傍目からみても妹思いの兄だっただろう。
露伴が中学に上がり、
マリエがあの時の露伴のように小学校に上がった時から両親はともに朝から働きに出て、露伴と
マリエだけで日々をほぼ過ごすようになるとそれは決定的に相互的なものになっていた。最も、
マリエは露伴の通っていたあの動物園みたいな小学校には通うことがなく、電車で一本とはいえ朝早くから紺色のセーラー服に身を包み、母親に手を引かれて母の母校のさらに下にある学校に通わされていた。彼女のお受験のために父親はある時期だけ家にいて、さも良い父親のように振る舞っていたが、実際の面接以外の練習でその役を務めたのは露伴だった。彼女ははっきりと岸辺
マリエ、6歳です。お父さんは…お母さんは…そしてお兄さんは…とよどみなく家族の紹介をしていた。露伴はそれに付き合ってはあの幼い、おあんとばかり自分を呼んでいた妹が成長していることを喜んだが本番当日に父親がそれに気づいたとは思っていなかった。彼は俺がしっかりしているからだなと、母は私の母校ですもの、とその進学の決定を喜んだが、岸辺露伴以外にその妹が掴んだ物事だとは思っていなかったことが歯がゆかった。春に家族で写真を撮ったけれども、それ以来全員で顔を揃える機会などあまりなかった。露伴の中学校の入学式には誰も来ないことが心地よかったけれど、
マリエの入学式にすら父は顔を出さなかったという。そのうち駅まで
マリエを送り迎えするのも、自分の分と合わせて弁当を作ることも露伴の役目になり、露伴も、
マリエも、両親の作品のようにただ良い子で模範的に仲の良い、才能にあふれる兄妹であるべきという型を演じていた。
父親の姿など週末ですらあまり見かけはしなかった。週末になれば家にいるかと思えばゴルフに出かけ、日曜の夜は家長然としてえらそうな話をしていた。ゴルフシャツの趣味が変わるのと女の趣味が変わるのは連動していると露伴は知っていたが、母が知っていたのかどうか知らない。母は生きがいとばかりに働いていて、露伴の絵を見ずに褒め、手のかからない
マリエを褒めては作りおきの惣菜を温める人になっていた。そんな家庭の中ですら、露伴の絵をみて育った
マリエは露伴の絵の最大の理解者であって、露伴のクロッキー帳の処女作を読んで批評したのも彼女だ。物心がついてから全ての展示を見てきたのも
マリエで、彼女は毎日机に向かう兄の隣で書き取りだの何だのの宿題をしていた。それでも絵だけは何故か似ず、彼女は露伴の作品を見ることだけを楽しみにしていた。露伴が漫画を描こうと思うんだけど、とはじめて夢を吐露したのも
マリエにであって、そのまま彼女は喜んでそれを勧めた。お兄ちゃんのお話がおもしろくないわけないじゃない。岸辺露伴の生活は、漫画を描きそれを応募し、それから少しばかり勉強をして、妹と毎日を彩ることで構成されていたのである。この頃には毎日描いていた妹のデッサンはいつのまにか曲線が多いことに気付いていた。
初めて間違いを犯したのは露伴が高校に上がってからだった。それでも彼女はまだ未成熟で、世間からみれば岸辺露伴もご多分に漏れずそうであったのかもしれないが、連載も一年以上続いて単行本も出していた露伴はどこかもう自分が半ば独立したかのような気持ちになっていた。彼女とそういう関係になったことが露伴の独立心をさらに煽ることになったのかもしれないが、彼には進学の希望もなく、このまま独立して自分の作品だけで食べていくだけの下地と覚悟はそれによらずとももう出来ていたのだ。意識した季節に、それに感付いてか、単に父親がまた家を空けるようになって気が立つようになったのかは知らないが、母親は二人に塾のパンフレットを押し付けるようになる。高校二年の秋の入り口だった。
「絵のプロなんだから、いつか海外でお勉強してもいいんじゃないかって思うのよ」
それに共通一次だってフランス語で受けたほうが楽よ。そう言って母親は岸辺露伴を山手線の描く円の中にある予備校のフランス語クラスと画塾に入れた。岸辺露伴に進学希望なんてさらさらなくて、また絵ではなく漫画で食べていく自負があったし、進学するにしても自分の中の構想を形にしてから自力でいきたいとばかり思っていたのにこの時ばかりは父ですら止めずにそれを認めていた。その片方の塾に同時に
マリエは放り込まれ、中学から来る、お勉強しかできない私みたいな子に負けてはいけないわと母は自嘲的に
マリエに訓戒を垂れていた。どうせ学校からだって近いじゃない。そのままお兄ちゃんと帰ってきたらちょうどいいわ。そんなことを言われなくても、
マリエが4年生になって電車で不審者に追いかけられたといって露伴の学校に電話してきて以来露伴はそうしてきていたのだが。露伴の高校もまた同じ沿線にあったから、学校にいる時以外一緒にいないことの方が少なかったのだ。その朝な夕な一緒に通学している中で岸辺露伴は相変わらず会社に漫画を持ち込んでいて、それからその雑誌に毎週乗るようになったこともこの時が契機だった。単なる高校生から漫画家の高校生になったことについて、母親はひどく喜びながらも心配をしていたのだ。いつか父親のように才能なり金なりを手に人間を弄ぶようになるのではないかと。それからあまり手をかけていないことをどこかで公開されるのではないかと。彼女はそれを留め、岸辺露伴を家庭に繋ぎ止めるために妹を差し出したと言っても過言ではなかった。
しかし、彼女の杞憂は全て外れていた。彼が家を出ようと思ったことは今のところなかったし、手をかけられていないことには感謝こそしつつもそれを寂しいと思うほどの暇がなかったのである。
紺色のセーラー服から伸びる首に聖性を感じていたのは、ちょうどこの頃、同じ電車で通うようになってからだった。随分と背の伸びた
マリエはいつも校則でその髪を2つに結うか三つ編みにしていて、それがよりアンバランスさを強調しているのに気づかない人間がいただろうか。自分が男であるからそう思うのかもしれない、と思いながら露伴は毎朝満員電車で腕の中にその影を抱いていた。その項を他人に晒す事のないように守っていたつもりになっていたけれど、それに触れたことはなかった。彼女のほうが数駅早く降りるから、彼女の制服が手を離れてからどこか不足した気持ちで岸辺露伴は学ランの前を直すのがいつの間にか習慣になっていた。紺と白の対比は本当に良くない。その残像は露伴が自分の使う駅に降りて、改札をくぐってなお目に焼き付いているので彼はできるだけ同級生を見ないようにしていた。同じような紺色の襟のセーラー服なのに、何が
マリエと同級生で違うのかは知らない。妹の項の曲線は大体数学の授業中にふと思い出されて岸辺露伴の数学のノートの端には単なる線がたくさん刻まれていた。
授業を終えてそのままさらに会社に原稿を持ち込んで、同じ駅で
マリエを待つ。その時間は大抵16時半だか、それくらいになっていたから、露伴の原稿の打ち合わせさえ早く終われば彼は喫茶店で読書をしていた。
マリエはそれを見つけては外から手を振り露伴を呼ぶ。彼女の学校は放課後の立ち寄りを許していなかったから仕方がない。最寄りで校則を破らせるのも酷だと彼はそれを合図に店を出ることが多かった。
それから一緒に電車に揺られて、背が伸びて膝がスカートからちらちら覗くようになったのを露伴はどこかで楽しみにしていた。今日は何をして、という無邪気な彼女の発言のひとつひとつを聞きながら、彼は夕飯の献立を考えるのが日常で、今日も明日も、月曜から土曜までは毎日がこれだったのだ。きっかけは彼女の通学上の問題だが、その問題の原因は彼女にあることを岸辺露伴は十分に気付いていたし、岸辺露伴もその問題のひとつである自覚があった。
マリエは離散しかけた家庭に女子児童だけがあつまった園といういびつな環境の中で正しくあろうとしていたのかもしれないけれど、どんどん体も顔も大人びてきているのにいつまでたってもどこか幼さの抜けないしゃべり方をすることが最も蠱惑的で自分から敵を作っていることを知らなかった。ましてや行動もそうだった。露伴の腕に絡まっては遊ぶ
マリエを平静な目で見れなくなってきていた。項が、膝が、岸辺露伴は目をとじるたびにそれらの形が自分のまぶたに焼き付いていることを知っていた。腕は彼女のわずかな体の起伏を知っていたし、厚い制服の下にそれが隠されていることもまた露伴の集中を削いだ。そのせいで眠れず、睡眠が浅くなることも、彼女はこの衝動を知ることがあるのだろうか。この頃岸辺露伴はその削がれた集中を集めるように、実際に見たパーツと、それから手だけが知っているパーツを描き集めては
マリエの生まれたままの姿を描いていた。紙の中の
マリエは笑って露伴を許してくれていたけれど、それを保存することも家に捨てることもばつが悪くなって露伴は決まって昼休みにそれを学校の焼却炉に投げ込んでいた。一度教師にその現場を見咎められ、非行を疑われたものの、その原稿用紙を見た教師はニヤリと笑って岸辺を許すのだった。天才漫画家くんだって、高校生だもんねェ。担任の老齢の数学教師はそう言ってそれ以降露伴のその行動を咎めなかったけれど、それが実の妹だと知っていたら指導をしただろうか。彼はきっとそれが想像上の少女だろうと思っていただろうし、なぜ岸辺露伴がそれを描いていたかなんてこの先も知ることはないだろう。この全ての衝動を、
マリエがふざけていう彼女の教師の常套句、全ては神の愛だなんて言葉で説明できる訳がない。彼女は電車で見知らぬ人のそれに晒されて恐怖を一度覚えたけれど、果たして最も親しい自分がそれと全く同じ衝動を持っていることを理解も、受け入れも、できるのかどうか露伴は知らない。
露伴が若干の下心の色を込めて、低学年の時と同じようにその制服を脱ぐよういうことも、埃を払うことも知ってか知らずか彼女はそれを露伴にすべて甘えてやらせていた。お兄ちゃん大好き、とお祈りと同じくらいの軽さで紡がれる感謝の言葉に露伴は僕もだよ、と返すのだった。
そんな環境で、離れることをすっかり忘れて、あの夏があったのだ。
あれはクーラーの効いた夏休みのはじまりだった。学校もなければ、進学希望でない高校2年、16歳の岸辺露伴はひたすら規則正しく生活を送っていた。原稿を描き、家事をこなし、それから少しばかり運動に外にでかけたり図書館に行く。両親は当たり前に仕事で家を空けていて、
マリエは臨海学校で家を空けていた。これ幸いと岸辺露伴は2日ばかり触れていない感触を手にそのまま写しだしてそれを燃やすかどうか迷っていた。予想だけでこれだけ描けるのに、実際はどうであるかを知らない。それを知りたいと願うのは元来のリアリティ志向か下心かは分別がついていなかった。ただあのセーラー服の下を知りたいのは本心であって、岸辺露伴の今日のボツ原稿は5枚に及んでいた。昼食も摂らずにただ朝から描き続けていて、つけっぱなしのテレビがメロドラマを終えてバラエティニュースに移行してうるさくなったのを機に、岸辺露伴はリビングルームのソファに突っ伏して仮眠を取ろうとしていた。今日の分の本業のノルマは終わった。それなのに未だに机から動けずにいて、それを打破したかったのだ。露伴が原稿をファイルに挟み、髪をかきあげてソファに倒れこむと同時に鍵の開く音がした。つまりは
マリエが帰ってきたということで、ソファに沈んだばかりの露伴はそれに声で答えることもなくただ荷物が玄関に置かれ、ただいまと妹の声が通るのを聞いていた。
「ただいま帰りましたぁ」
「思ったよかお早いお帰りみたいだなァ」
露伴はソファに寝そべったまま、夏用の白地のセーラー服を着た
マリエが帰ってきたのを確認する。お兄ちゃんだらしなーい、だなんて、荷物を放置したままの
マリエは笑ってすぐそばに寄ってきた。学校指定の麦わら帽子と微かに残る潮の匂いに臨海学校のお知らせのプリントを思い出す。これは太平洋の潮の匂いか。いつもどおりの2つに結った髪が少し日に焼けたような気がして露伴はそれに手を伸ばせば、見当違いにそれは首にあたってしまって
マリエはくすぐったいと笑い出す。露伴を見下ろす影と潮風にくらくらして、そのまま首に触れた手を肩に滑らせて、その肩を自分の方に引き寄せた。驚きの声とともに麦わら帽子が床に落ち、自分の体の上に
マリエが乗っていて、その背に手を回して露伴は自分の手の感触を取り戻すように肩から腰へ、そして再び戻って首へと手を滑らせていた。産毛の残る白い頬はすこし日に焼けたのかもしれない。生まれて初めてその頬に唇を寄せて舌で舐めると、腕の中の
マリエはまるで抵抗せずに露伴の上におとなしく乗っていた。
「日に焼けたな」
「磯遊びをしたの」
「そうか」
露伴は結われていた髪を解く。やっぱり潮の匂いが残っている。白い首もきっと磯遊びのせいで焼けたのだろう、と髪を留めていたゴムを床に放って露伴は跡の残るその髪を手で梳いた。くすぐったい、という言葉に嫌かどうかを問えば
マリエはむしろ好きだと答えた。それはいつもの学校帰りの甘えたお兄ちゃん大好き、なんかよりかは響きが重くて、露伴は鼻に口付けてはその先を問う。露伴がしたいなら、なんだって好きだよ、と
マリエは言った。よく見知ったセーラー服のジッパーに手を掛ければ彼女は目をつぶっていたが、その表情にはいつか迎えに行った時に見た怯えがなかったので、露伴はそのままそのスライダーをおろして手を滑り込ませる。ずっと絵を描いていたせいで冷えた指が
マリエにはくすぐったいらしく、さざめくような笑い声があがったものの、普段の帰宅時のように身を捩らせも腕に絡みついたりもせずに、されるがままに
マリエは露伴の上で白いセーラー服を脱がされていた。いつのまにか下着が、そしてセーラー服の下が大人になりかけていたことを露伴はこの時初めて知る。彼女は嫌がりはしなかった。代わりに二人でいる時に露伴をお兄ちゃんと呼ぶのを止め、露伴と下の名前で呼ぶようになった。衝動的な始まりだったにもかかわらず、彼女は事後満足したように後悔に滲む岸辺露伴の髪を撫でていた。臨海学校の荷物をそのままに、何もかもで汚れた体を流すために何年ぶりかに一緒に風呂に入ったが、いつのまにかセーラー服の下で成長していた
マリエが全て知らない人になってしまったような気がして再び岸辺露伴はここでも間違いを犯した。
夏のはじまりがこれで、日中どこに行くともあてもなく、そして自分たち以外に家族の出払った家で距離が近づかないわけがなかった。模範的に朝起き、両親を見送っては朝食を摂り、共に夏の課題や原稿を進める。昼を取ってさらに課題や原稿を進めるのも良いけれど、なんとはなしに集中が切れた瞬間に再び体のどこかが触れ合っては次の瞬間には露伴は
マリエを腕に閉じ込めていたし、
マリエは露伴の胸に飛び込んでいた。夕食には遅い時間に母親が帰ってくるまでにひたすらお互いの距離を溶かしては縮め、甘えては突き放して遊んでいた。昔からまともに喧嘩もしたことがなかったけれど、調和というには調子が良すぎるほどに二人は仲良く岸辺邸の留守を守っていた。父は盆すら休まず、母もそれに競うように働いていたけれど、一度だけ本当に仲良しね、と夕食後に露伴が
マリエの外国語の課題を見守り採点するのを見て零していたのを覚えている。彼女が中高と苦手としていたフランス語を、もう
マリエは5年も続けていて、それは母の望みであったにも関わらず、思い出したように
マリエがその課題に触れ合っていることを気にするのだった。母はその自分の苦手だったものを克服させるように
マリエに課題を課して数年経っているのに、その成果発表には行かなかった。岸辺露伴は意味もわからないのに必ずその季節のお祈りだとか、スピーチコンテストだとかを観覧しに行っていた。
マリエは必ず露伴の絵が飾られる機会にはやってきたので、これは下心を抜きに同じ行動だと思っている。母は露伴のその姿も気に入らなかったのかもしれない。尤も、自分の苦手を全て与えてそれを飲み込む
マリエのことも、彼女の過去か何かが映り込んでどこか気に入らなかったのかもしれない。
傍から見れば規則正しい、中から見れば放埒な夏休みが終わった頃、すっかり背の伸びた
マリエは再び制服を採寸していた。その前日の帰りの電車で、膝が隠れるのでそれはあまり愉快なことではないと感想を漏らした露伴に、マスール――校則に厳格な修道女を
マリエはそう呼んでいた――がお母さんにスカートを作りなおしなさいって連絡したって、と彼女はすっかり影の差した目で呟いていた。そのために母は仕事を切り上げては、放課後の露伴をも連れ立って百貨店の制服コーナーに赴き、その足で二人を語学に特化したクラスのある予備校に入れたのだ。
「絵のプロなんだから、いつか海外でお勉強してもいいんじゃないかって思うのよ」
そのためには語学だって必要だわ。
マリエだってもっとできるに越したことはないし。母は相変わらず自分たちの姿を見てなどいなかった。これはお父さんだってそう思っているのよ。露伴だって、経験のために進学をするのもいいと思うのだけど。ええ、あなたのことだから日本の大学なんて向いてないわ。だからこそよ。それにもうちょっと
マリエだってしっかりしなきゃ。もっとしっかりした子が再来年にはいっしょになるのよ。母親の言い分はだいたいそれで、反論を僕達に許すことなど一切なかった。電車で
マリエと露伴が手を繋いで乗ることすら、もう子供じゃないんだから、と眉を寄せて非難する母親は、久しぶりに夕食を作ってくれたけれどそれはどこか馴染みの薄い味になってしまっていた。初学者用のテキストを
マリエに貰いに行ったことすら気に食わないのか彼女はさっさと寝てしまって、この決定に異論を唱えなかった父親に詰め寄ろうにも彼は帰ってなど来なかった。眠りかけた
マリエの頬は、いつのまにか白く戻っていて、それから少しふっくらとしていたのがなくなったように見えた。
露伴と
マリエが仲睦まじく過ごすことを否定する母親は、それでも保安上の問題だとか、自分が迎えに行く気がないからなのか理由を付けて彼女と一緒に帰ることを露伴に命じた。
マリエは彼女に不審者に遭遇したことを一度も言っておらず、彼女は
マリエが露伴と常に一緒に帰宅していることを知らなかったのだ。手間をかけるからと彼女は食費を増やそうとして露伴はそれを止めたが、可愛げがないと一蹴されたので甘んじて幾らか増えたそれを受け取るほかなかった。母親は保護者然として塾への通学証明を取って
マリエに持たせていた。この時ばかりは、露伴は何でもできる大人ではなかった。単なる実家で保護者に保護されている子供の一人であって、庇護しているはずの妹すら横並びの存在でしかなく、彼女の課せられたものをはねのけるだけの力はなかった。
彼らの母親は詰めが甘かった。塾の乱立するその街で、多浪生や大学生が酒に酔っては道を歩き、年齢の割に大人びて見える
マリエに絡むのを全て露伴は保護していた。
マリエは塾が終われば画塾の受付でおとなしく宿題を解きながら岸辺露伴を待ち、露伴の講義が終われば共に手を繋いで一駅あるいてから電車に乗っていた。岸辺露伴にとっては職場への道を通って一駅進んだところから二人で帰るのが毎日の習慣になり、その道端で幼いキスをすることも習慣の1つだった。家に帰れば、勉強をしなさいと机に再び縛り付けられるまでがふたりの自由な時間で、それでもたまにフランス語のクラスを休んでは家で体を重ねることも少なくなかった。学ランとセーラー服を脱ぎ散らかして放埒に求め合って、それから母親が帰るより早く支度をして家を出る。家出みたいだね、と
マリエはよく笑っていた。そんな日は行く宛もなく、学校でも塾でもない、定期範囲外に向けて電車に乗って喫茶店で時間を潰すのが常だった。制服の兄妹はどれだけ連れ添って歩いていても不審がられることなどなかった。古ぼけた喫茶店でコーヒーゼリーをつつきながら、爪先だけは常にふれあっていたことを見咎められたこともあった。生徒証を見せれば、兄妹の証明なんてつくから何の支障もないのに噂を立てようとする不躾な視線が苦手で岸辺露伴は絶対に外では漫画を描かなかった。
相変わらず露伴は漫画を描いていたけれど、息の詰まる感じから何度も方向性について無茶振りをしては大人を試して遊んでいた。描くのをやめるとは冗談でも言わなかったが、巻頭カラーだの、増刊だの、読み切りだの、すべての提案を無碍に断ることが岸辺露伴の八つ当たりだった。それは
マリエにも見せない顔であって、彼女が同じセーラー服を着た少女たちの中で、従順に、無為に黒板を見つめている間のブースの出来事である。
「露伴」
マリエはふたりきりの時にだけ、お兄ちゃんではなく露伴と下の名前で呼んできた。家では確実に人のいない時にしか呼ばないし、両親の前ではいつもの様にお兄ちゃんと呼ぶ。二度と来ないような喫茶店では露伴、塾ではお兄ちゃん。帰り道はいつもこうやって露伴と呼んで手を滑り込ませてくるのが習慣だった。露伴はその手を取って、いつもの人通りのない角で肩を抱いてキスをしていた。腕と足ばかりがひょろひょろ伸びてきていたのにいつの間にか触れた背中に曲線が出来ていて、そんな日の露伴は夜その感触を思い出しながら堅い石膏を描くのだった。
どちらもどこにも居場所がない。家にもなければ、学校にもない。塾にも勿論なくて、帰り道のこの瞬間だけが二人の居られる場所だった。入学以来天才漫画家以外の評を得ず、同級生にも行事にも興味がなくて浮いた岸辺露伴と、少しだけ成長速度が早くて、横並びにならないことだけには敏感な同級生に目敏く線を引かれかけていて、家ですら母親の嫌いなものを達成させることだけを求められ、達成してなお煙たがられる岸辺
マリエ。思えばずっと二人で繭の中でままごとでもしていたような気がしていたのに、繭なんてもうどこにもなかったのだ。2人の世界は少しだけ地軸とずれて回っていた。
20160108 chloe, as the "innocent incest incident" #02