袋小路

 ごきげんよう、と挨拶をする私達のことを、世間の大人は天使か何かと思っているらしい。年齢が両手で数えるには限界を迎えたころマリエははじめてその世論を知る。いままで幼い頃からよく知っている近所のおじさんおばさんや、祖父母が天使のようだということは身内の評価だと思っていたけれど、それにしては同級生の誰しもが電車で、道端で、天使のようだねと言って信仰とは程遠そうな、ついぞ一生遭遇することのないような男性に迫られ恐怖を得ているらしい。マリエも多分に漏れず、縦割りの学年交流でやっと下の子からお姉様と呼ばれるようになった学年に上がった矢先、いつもの慣れ親しんだ通学電車でそれに遭遇した。言葉の通りそう思っているなら放っておいてくれたら良いものを、彼らはひっそりと近寄っては我々のしっぽを掴もうと振る舞う。
「通学中に支障が出たときは、できる限り助けを求め、あなたも助けられたらそれを助けなさい」
 担任の修道女はまだ母に手を引かれて学校に通っていた時分から週に一度はそう朝に説いていた。ぱらぱらと朝礼にそれが原因で遅刻をする同級生がいたからで、マリエはその時が来てもその言葉を忘れずにはいたが現実には言葉も何も出ずに数駅先のターミナル駅で電車を駆け下りては元の方向へと飛び乗り、定期範囲の先の兄の降りる駅まで乗ってきてしまっていたのだ。開けた駅で持たされていたコインケースから震える手で硬貨を選び緑の公衆電話にそれを入れる。もしもの時に、とこの間入れ替えたばかりの兄の学校の番号を押して事務員に兄を呼んでもらったところで、はたと自分の学校に帰ればよかったのだと気付くがそれは保留音のあとに続く兄の声で飛んでしまった。もうすぐ向かうからそこで待っていろ、の言葉にマリエはすっかり安堵して、改札のすぐそばのベンチに座っていた。目の前をたくさんの大人が行き交う中で、もしあの背後にいた熱い息が再び自分に降りかかってきたら今度はどうすれば良いのだろうとマリエは膝の上の指を震わせていた。手提げを抱えてもそれは治らず、行き交う黒いスーツと緑の時計、それから改札の向こうを何度も繰り返し見ては見知った影を探す。滅多に会えない父でもいい。それか忙しく飛び回る母でもいい。誰でもいいから見知った人の姿を行き交う人の中に探していたけれど、そんなに都合良くは現れなかった。
 歩く影のなかに一つ動きが早いものがある、と思ってマリエは目を凝らす。よく見知った頭が人混みの中でちらちらしていて、それが自分の兄であることがわかってマリエは立ち上がってその顔を見つめる。さっきまで震えの止まらなかった指先は手提げの持ち手をしっかり掴むことが出来て、露伴の顔を見ただけで安堵が目から体の隅々までどんどん広がっていくのがわかった。向こうもこちらを確認したのか、露伴の右に左に動いていた視線が自分で止まって、まっすぐこちらに歩いてきていた。露伴は改札を通ってまっすぐマリエの元にくる。相変わらず身軽な格好だ。まだ真新しい学ランに、横に流した髪。今日はたしかにいつもの原稿の入ったケースを持っていなかった。
マリエ、大丈夫か」
「お兄ちゃん」
 改札からまっすぐ小走りでやってくる露伴に、マリエもまた小走りで近づいて再会即そのウールの上着に顔を埋めた。こわかった、というには少し違うかもしれない。怖いという感想を定義するには幼かったし、体験も足りていなかった。ただ耳元で知らない大人の男の人の天使だね、という言葉と肩に寄せられた手に捉え所のない焦りと不快感を覚えて声も何もでず、ただ突発的に不安に駆られてこの駅までやってきて電話をかけてしまったのだった。ここに来るまでの電車で目の前にいた人が女性だったか、男性だったか、若かったか老いていたかすら覚えていないほどに追いつめられての行動だった。やっと見知った人が、しかも一番近しい人と落ち合えてこのような行動を取ったのは全ての安堵と不安と、全てを言うには知っている言葉が足りなかったのだ。
「おいおい、本当に大丈夫か」
「お家帰ろう……」
「ああ、帰ろう。早く帰ろう」
 今日は原稿出すのもないからさっさと帰ろう。露伴はそう言って私の帽子の上から頭をポンポンと撫でて肩に手を置いて私が離れるのを待っていた。電車の男と同じところに手があるというのに、私は何故今のこの兄の行動に不快感を覚えないのかが謎を持つ。けれどもあの表現しがたい、湿っぽい声色と感触は露伴のそれには感じず、私は彼が少し手持ち無沙汰に肩の上の指でリズムをとりはじめてやっと顔を上げる。もう指を震わせたくはないと露伴の手を数年ぶりに取れば、一瞬躊躇われつつも彼は握り返してくれたので、私は一層安心してその高い体温の手に引かれて再びホームへの階段を降りる。
 露伴は帰っても一度も詳細を聞いてこなかった。ただずっと電車の中から家まで手を握っていてくれて、その手を外したのは改札と、それから緑の紐のついた鍵を鞄から出して家を空けるときだけだった。ただ帰ってすぐ上着も脱がずにやかんを火にかけ、彼が受験勉強の折にしていたように紅茶を淹れながら私に手を洗い、制服を脱いで掛けてくるように指示していた。湯の沸く間露伴は全く動かずにキッチンに立っていて、普段着に着替えてからその背中にくっついても文句を言わずに私の回した手に彼の手を重ねてリズムを取っていた。ようやくやっと安全地帯に戻ってきたような気がして、私はぽつぽつと出来事を、それから出来なかったことを漏らす。その一つ一つにそうだななんて追求も何もせずそのままを保存するみたいな返事を露伴は返して、ミルクもパンにかけて温め始める。好みなんて聞かずに匙に適当に砂糖を掬ってカップ2つに落としているのを私は露伴の背中から見ていて、それでも露伴は私を邪険にせず淡々と作業をしていた。
「別に助けを求められなくっても、助けられなくても誰も怒らない」
「うん」
「そりゃあはじめて触れた悪意だろうけど、世の中には変な奴もたくさんいる。僕も変ッて言われはするけど、まあ違うタイプの変だろうな……まあそれはいいとして」
 露伴は決まって紅茶を入れるときはやかんで沸かしてつくっていた。母が夜にするときは電気ポットから作るけれども彼はそれを飲まない。すっかり家で露伴のいれるそれに慣れたマリエもそれ以外飲まなくなっていて、キッチンの片隅の電気ポットは母の占有物と化していた。
「まあ、なんていうか……マリエが何も、変なことされなくて良かったと思ってるけど……明日から一緒に電車に乗るか」
 うん、と私は再び露伴の背に顔を押し付けながらそれに応える。まだ新しい学ランは生地が固くて、顔を擦り付けたら額が擦れて痛かった。熱いから動くなよ、という露伴の言葉が続いて、私はその姿勢のまま露伴がミルクをカップに注ぐ音を聞いていた。それからじょぼじょぼと派手な音を立てて彼がティーポットにお湯を注ぐ音も。甘いな、と混ぜたあとのスプーンを舐めたらしい露伴の声が続いて、私はその訳の分からない彼なりの気遣いに少し嬉しくなって露伴の腹部に回していた腕に力を込めた。これだから女子校ってだめなんだと思うぜ、と露伴は言うけれども、彼と行き帰りができるというだけで私は嬉しくてその真意をはかることはなかった。そもそも露伴の通っていた小学校も記憶のなかにはあったけれども、もしそこに通っていたら彼と通学なんてできる訳がなかったので、この時ばかりは幼い私の意志を問わずに学校を選んで入れた母親に感謝すらしていた。
 露伴はその日、夕飯を摂るまでその春には熱すぎてそれから甘すぎるミルクティーを何度も私のカップに注ぎ、原稿をすることもなく私の余りある宿題に目を通して隣にずっといた。独自テキストに目を通しては不機嫌そうな顔をする露伴はそれでもいつもの調子で成果にマルをつけたりバツを書き込んだりしていた。露伴のペンを握る姿が私は好きで、さらに小難しい顔をしながら解答冊子に目を通しているのを見るのも好きだったので、何はなくともその顔を見つめていたら露伴は宿題をやれ、と私の顔を掴んでノートに戻した。そのとき、学校を出てからはじめて声をあげて笑ったことに私は気付いて、頬を掴む露伴の手にどれだけ駅で安堵したかを思い出す。家に帰ってやっと安全地帯に戻ってきたと思ったかもしれないけれど、手を取って歩いていた時点で十分私の時間は正常に動き始めていた。露伴が自分を探す顔を見るまでどれだけ時間が自分の体をねばついてゆっくり捉えていたか。時間の経過と感覚のズレがどれだけ気持ち悪く不安をより煽ったか。そして露伴はそれをどう溶かしたか。私はそれから、露伴に外出時手をつなぐことを求めるようになる。私の中で、家でも外でも、安堵できる空間は常に露伴の手の先にあった。その安堵の手が生み出す物語が人々を魅了しない訳がないと私は未だに確信している。
 それから、私は春に持たされたばかりの、母が無くさないようにと何度も念を押して兄と違って赤い紐のつけられた家の鍵を鞄の奥底にしまって使わなくなった。朝に露伴と共に家を出て、夕方に露伴と共に帰るからだ。何度か彼は手に買い物袋を下げていたからマリエに家の鍵を開けることを求めたけれども、それでも彼は自分の鍵をポケットから引っ張りだしてマリエの手に握らせてそれを求めたので、マリエは自分の鍵についている紐がどんな長さだったかもそのうち忘れてしまった。新しい生活は、共に登下校をし、宿題を解き、それから夕食を作ることでその骨格を作り始めていた。それから手を繋ぐことも十分新しい生活の骨子の1つとして成立していたが、手を繋ぐようになってから露伴の口数は減った。彼は作品についてすら多くを語らないようになったけれど、未だに一番最初の観客はマリエであって、言葉はなくとも指先だけで何を思っているのかの見当は十分つくようになっていた。

 私の年齢が二桁に達して、それから露伴が高校生天才漫画家として名前を世の中に公表し始めた冬、私は再び路上で苦手な事に遭遇した。その日は露伴がヘンシューブ、と呼んでいたビルに原稿を提出しにいく日だったので、私はいつもより遅く学校を出たのだった。決まって原稿を出す木曜日は図書室で本を探して、借りて、手提げの中に入れてから学校を出ている。同級生が同じ方向に集っては散っていくのを尻目に私は新しい習慣をそうして獲得していた。そもそも自分の周囲に自分と同じ路線で帰る同級生がいなくて春にああいう目にあったという分析はとうに出来ていたけれども、今の私には露伴と帰宅をするという大義名分があったので何も思わなくなった。駅を挟んで学校と逆側に一駅ばかり歩くと、彼がいつも通っていた会社のビルがあるので私はその斜向かいの公園に行って時間を潰す。その向かいの喫茶店で露伴はよく時間を潰していた。私が待つか、彼が待つか、それは彼の打ち合わせの時間がどう伸び縮みするかによる。
 その日も同じはずだった。私は借りたばかりのプチ・ニコラを手提げに入れてマリア様に見守られた校門をくぐっていた。それから隣の中・高等部の角を曲がって、あまり通るなと言われている神社のほうの道を通って――これが失敗だったかもしれない、私は露伴の用事のある木曜だけはここを通ってすこしドキドキしながら道を急ぐことが好きだったのだ――大きな道に出ようとしていた。学校の集まる地域だったので、本当は時間の被る斜向かいの男子校の学生に遭遇したくなかったというのもあった。小学校から高校まで、ズボンの長さは違えども学ランに帽子の彼らと、同じく小学校から高校まで変わらない制服の自分のお姉さま方が帰りに人目を忍んで会っていることは何度も露伴との待ち合わせに行くまでに見たことはあったけれど、彼らのことは嫌いだった。お姉さま方のそばにいる彼らは射るような視線で横の人物と同じ制服の私を睨まないことはなかったし、そうでなくても小さい彼らに今までの四年間で駅から学校までの道でからかわれない週はなかったからだ。私の2つに結った髪を半ズボンの彼らに弾かれることも、セーラー服の襟を引っ張られることも、数年経てば慣れはしたものの、会わないに越したことはなかった。
 神社の影をマリエは早足で歩いていた。境内の木のつくる影はすっかりまばらになっていたけれど、冬の陽のせいでその影は長い。影だけを踏むようにして歩いていた矢先に長ズボンの学ランの姿があってマリエは彼と逆側を取って歩こうとしていた。彼は誰かを待っていて、それはきっと中等部か高等部のお姉さまなのだろうとおもってマリエは息を詰めて歩く。さん、よん、ごほん、と葉のない木の数を数えて神社の角を急いでいた。曲がればすぐに大通りで、開けた分息が思い切り吸えるだろうからだ。
「ねえ君」
 長ズボンの男子学生を追い越した頃、マリエの背後にそんな変声期まっただ中の声がかかってマリエは足を速める。嫌な予感がしていた。そもそも変声期の声というのは兄のそれですら苦手で、マリエは数年前のことを思い出して足を進めていた。背後から知らない男の人に声を掛けられるのはもっと苦手だった。
「待ってよ」
 こういう時は何も言わなくていいと教えてくれたのは露伴だった。走ろうと思っても手提げもランドセルも重くて、がたがた音を立てて走りだせばすぐに横に男子学生が並んでいたのでマリエはびっくりして神社の柵につっこみかける。待って、と肩に掛けられた手はいつかのようにしっとりと気味が悪かった。
「人違いです」
「君、いつも木曜にここを通るだろ」
 君に用があるんだ。そう言って男子学生はポケットからよれた封筒を取り出して、ランドセルの肩紐を掴んでいたマリエの手を広げさせてその紙を握らせる。家に帰ってから開いて欲しい、と思ったよりも固いその封書を彼は再び両手でマリエの手を包んで言付け、マリエの名前を問うた。咄嗟のことにマリエはただ下の名前をぽろりと口走ってしまい、それに満足してか男子学生は僕は、と名を名乗る。しまった、という思いでいっぱいのマリエはその名前なんて耳に入っていなかった。せめて露伴か、母の名前でも言えばよかったものを。露伴の名前はどう考えても疑われたろうけれど、自分の咄嗟の行動の下手さが露呈するよりかはよっぽど良かったかもしれない。
「それじゃあ」
 来週もいるから、という言葉を最後まで聞かずにマリエは自分から相手の手が離れた瞬間に再び走りだしていた。冬用のショートコートの中で焦りでどんどん体が熱くなっていて、大きな道路に出て、すぐにある交差点の信号が点滅していたのに合わせるように走って渡ってはじめてマリエは足をとめた。早く露伴に会いたい、と思って、気味の悪い封書を手提げに押し込んでショートコートのボタンを開けてマリエはヘンシューブへの道を歩く。知っている道だから大丈夫だとは今日は思えなかったから、できるだけ大きな道を選んで歩いた。
 コートのボタンも外して歩いているマリエを見咎めたのは巡回している修道女でもなく露伴本人だった。寒いだろ、と露伴はマリエを見るなりコートのボタンを閉め、それから自分のマフラーを首に掛ける。今日は早く終わったから、といつもの公園のブランコに露伴は座って待っていたのだった。からのファイルケースを地面に置いて、学ラン姿にコートを羽織った露伴は缶コーヒーを手に持っていた。
「何かあったのか」
「ええと、走ってきて」
「走ったりしたら先生がうるさいのはそっちの学校だろ……」
 そうだけど、えっと。何から話していいのか整理のついていないマリエは露伴が首にマフラーを巻いてきてから自分の肩に手が置かれていることに安堵して、いつかみたいに再び露伴の胸に飛び込んでしまう。固いコートの生地が痛いことは、新しい学ランと変わりがなかった。お兄ちゃんと同じ、学ランの人でも、変な人っているのね。息を継ぎ継ぎそういえば、そりゃあな、と露伴は言いながら再び帽子を抑えてきた。一息ついてやっと気味の悪い封書を持たされたことに気付いてマリエは肘にかけていた手提げからそれを取り出して露伴に手渡す。家で見てって。言われたことはそれくらいしか覚えていない。露伴は不機嫌そうにそれを受け取ってコートのポケットにしまうと、性急にマリエの手を取って地下鉄の駅まで歩き始めた。
「神社の道を通ってたら、学ランの男の人に渡されて、肩を触られたんだけど、嫌だった」
「その道はもう通るなよ」
「うん」
 いつもよりも露伴の手は固くマリエの手を握っていた。改札でお互いにポケットから定期券を出すのに手を離すのも露伴は珍しく忘れていて、混む前の改札で一度立ち止まる羽目になった。こちらも変な体験をしたけれど、それ以上に今日の露伴はすこしおかしい、と思いながらもマリエは電車で露伴の手を握り返していた。露伴は不機嫌そうにドアの横にもたれかかって封書を開けて読んでいた。マリエは読む気などさらさらなかったけれど、中身は気になったので露伴に問えばくだらないから知らなくていい、と彼は言ってそれをポケットに仕舞った。
 帰宅後、露伴はまっすぐ何も言わずにコンロでそれを火にくべた。灰がちになったそれを熱っつ、と彼はシンクに放って水を掛けて消火していて、マリエが制服を脱いで戻った頃には表情もなくそれを袋にまとめて外に捨てに出るところだった。内容を決して露伴は教えてくれることもなく、もうあの道は通るなと念を押してきたのでマリエは二度と通らない、と安堵を生む指ときっちり固く指切りをした。それから、露伴はいくら話題を振っても会話を成立させてはくれず、ひどく集中した顔でマリエの向かいで原稿に向かっていたが、目の前の原稿用紙に線を一度も引かないまま彼は夕食の支度の時間まで固まっていた。その日は近しいはずの露伴がどこか遠い気がして、お風呂あがりに読書をする背中にくっついたらにべもなく居を移され拒否をされた。床に膝をついてその背中を追うのも悲しいので、マリエは部屋に帰って早く眠ることにした。翌朝の露伴はいつもより早起きで、充血した目でマリエの起きてきたことを認めると、挨拶を交わしてから支度を促す。その日の手はいつもどおりの柔らかさで繋がれていて、電車の中でマリエは普段通りにドアと露伴の間に挟まって露伴の胸元にくっついていた。
 翌日から躍起になってマリエは露伴の背を毎日追い求めていたけれど、露伴はもう春のようにはそれを許してはくれなかった。代わりに夜中にふと気が付くと部屋に露伴の影があることに何度か気付いてはいたけれど、大抵は深く眠っていたから、マリエは偶然だとしても嬉しいと思って起きて気付いた日も知らないまま寝直すことにしていた。本当は、背にくっつくよりかはどれだけあの安堵を生む手の中に居たいだろうと思うようになったのはこの季節からだった。神社の影を通るのはやめたから、もう二度とあのような目に遭うことはなかったけれど、それでも露伴があれだけ固く手を握ってくれたことはあれより前にも後にもなかったので、気味の悪くない範囲で彼の機嫌を損ねるような事があればいいのに、と思っていたことは日記にだけ伝えていた。露伴は知ってか知らずか、毎朝マリエのマフラーを正してはちょっと躊躇ったように肩に手を置いて、いってらっしゃいといって再び電車に乗り直すのだった。マリエはそれに甘えに甘えて、帰る度にそのマフラーを外させて、ジャンパースカートの上のセーラーカラーの上着の埃すら払わせるようになっていた。眉を寄せてため息をつきながら露伴がマリエと自分の名前を呼ぶのが嬉しくて、呆れた顔をしても手を繋ぐことだけは止めない露伴のことを好きだと認識したのは入試休みのこたつの中だった。一人で留守番をしながらうとうとしていたら、学校から帰ってきた露伴が心底穏やかな顔で真横に座ってきたので、その足に顔を寄せれば露伴はやわらかくマリエの名前を呼んで髪を梳いてくれていた。このままこの時間が続けばいいのに、と思って伸ばした足を露伴の爪先にくっつけていたら、起きるタイミングを逃してそのままされるがままに眠ってしまっていた。起きがけに頭がぼんやりしたけれど、きっとそれはこたつの熱さだけではないとマリエはやっと気付いて再び露伴に紅茶を求めては今度は隣に寄り添うようになる。
20160110 chloe, as the "innocent incest incident" #03