さかしま
「
マリエ」
露伴は達する時に必ず
マリエの名前を呼ぶ。それがくすぐったくて、それでも嬉しくて
マリエはその後に総じて俯く露伴の頭を撫でるのが好きだった。いつでも自分を愛してくれる、大きくて頼りになる影がこの時ばかりは弱々しく見えるからだった。体液が流れ出る感覚と共に露伴自身が体から喪われるのはさみしいから嫌いだったが、その後は丁寧に体を撫でるか、見かけよりもずっとたくましい腕の中に閉じ込められる。そのどちらもが好きだったので
マリエは我慢してされるがままに体温を手放していた。少年の心をときめかせるホラーミステリーを紡ぐ手は彼女のときめきをも創りだすことを他に誰が知っているだろう。すこしだけ膨らんだ胸を触れられるのは痛くても、それ以上に幸せな気分になるので
マリエは全てを露伴に許していた。事実、
マリエの破瓜も、何もかも、それより以前のことも彼はなんでも知っている。むしろ最近は、彼の知らない世界を怖がるかのような節があることに気付いていたけれど、
マリエはそれを知っていて告げずにいることがたくさんある。それの一つ一つに気付いた露伴が嫉妬に屈折するのを
マリエは楽しんですらいた。
一方で、深夜の岸辺露伴の部屋の電気が落ちる日というのは彼が受験生である時代が終わっても来た試しがない。彼がファイルに、家では捨てない分のボツ原稿を増やす枚数だけ彼の部屋のゴミ箱には丸めたティッシュが落ちる。そのケント紙とティッシュで出来た紙の山を屋外のゴミ袋に捨てて、それから本を読みながら寝るのが彼の習慣だった。ぼんやりした頭でどれだけ行を追っても岸辺露伴の追い求める確からしさだとか、考えに対する答えを記述してなどいなかった。古今東西の自分と同じ境遇の人間を行間に求めても、何故か多いのは父親の立場であって、否定的なそれも、肯定的なそれも、どれだけ読んだとしても彼が妹に抱いた感情を正確に分析しているものはない。自分が特殊な性癖を持っているのかと気になって敢えて歳相応の肌色の多い雑誌を隠れて買ったこともあったが、それにも十分興味は持てたので特別自分の嗜好が偏っているわけではないとわかっても、それでもケント紙に描かれるのは
マリエばかりであって、最終的に目に浮かんで追い求めているのも
マリエだった。自分の正当性を計るためだけに買い求めた蠱惑的に微笑む黒髪の裸の女性達は、後日原稿と一緒に焼却炉に投げ込んだ。
彼はそのうち近親相姦にまつわる文学を探して読むのを止めたけれど、深夜まで起きることだけは止められなかった。効率が落ちるとわかっていてやめられないので、彼はゴミを捨てて即寝ることに途中から切り替えていたけれど、却って電気を消すと目が冴えて紙に向かっている時のように細かなパーツの一つ一つが目に浮かぶ。結局本を読んでいた方が眠れるのは確かだった。お兄ちゃん夜更かしはだめだよだなんていう唇は、文学の通例からいけば自分の衝動を見せれば泣いて歪むのだろうか、と露伴は毎日の電車の中で思う。それは関係を持ったあとでさえ変わらなかった。むしろ岸辺露伴の衝動は増したし、彼の杞憂だとかは増しに増して
マリエのタイツを追う。もうお姉さんだもん、と彼女が制服の足元を三つ折の靴下からタイツに意趣を変えたことは、岸辺露伴にとって自分の衝動をより煽るだけの結果になっていた。禁欲的な色のタイツではあったけれど、薄いそれから肌が透けることを彼女は知らないのかもしれない。彼女が穴をあけたそのタイツを、靴を磨くからと一度は捨てる前に回収したけれども、露伴はそれを机にしまい込んで毎晩それをケント紙の上に置いてはそれを手に取っていた。
マリエが引っ掛けて伝線したそれを捨てる度に、露伴はそれを夜回収して、紙の山と共に捨てる。
「岸辺くんていっつもさっさと帰るよね、それよか」
塾一緒なんだけど、気付いてた?そう昼休みになったばかり、岸辺露伴が席を立つ直前に斜め前に座る女生徒は話しかけてきた。露伴はボツ原稿の入った封筒と、それから弁当を持って教室を離れることにしていたのでこれは想定外のことだった。興味ないと言って部活も、行事もほぼ放棄していた露伴に声を掛ける人間は少ない。大抵は露伴の仕事を知っていて声をかけてくるか、係か委員か何かの仕事のためにしかたなく声を掛けてくる人間だけだった。純粋な会話なんて、あまりしたこともなければする気もなくて、岸辺露伴は面食らいながらもその女生徒に知らない、と言って席を立つ。
「あっねえお昼一緒に食べようよ」
「悪いけど原稿進めたいから無理」
「へえ、見てみたい、横にいるだけでもだめ?」
「無理だね」
露伴が席を立って廊下に出て外に出ようとしてもなお女生徒はつきまとう。いっそ引かせたら良いのかもしれない、と思うけれども体面は大事にしてくださいね、という担当編集の下がった眉を思い出してその案を捨てた。それに、妹の裸を描いていることを知られるのはあまり良くないだろう。誰にも、それこそ担任に一度見咎められたこと以外は人の目を見ず燃えていくものだ。それに半分後ろめたい気持ちもある。夜中にゴミ箱を空にするようなものだからだ。
「君、僕が描いてるのって一般的にはサスペンス・ホラーだってこと知って付いて来てるのか」
「え、うん」
「発行前の原稿のネタバレはご法度なんだ」
完璧な言い訳だったと思う。これを機に彼女はその足を止めてついてこなくなったけれど、その日の夕方に予備校の受付で数学のクラスに行く同じ人物を見てこれからはもう少し気を付ける必要があるのかもしれないと思った。帰り道に一駅だけ
マリエと歩いている最中ですら、彼女の存在が誰かに見られたら社会的にどうなってしまうのだろう、ということに思いが伸びてしまっていて、いつもキスをせがむ路地をそのまま通り過ぎかけて
マリエの不興を買った。ろおはん、と間延びして自分の名前を呼ぶ声の本質的な甘さは何も普段とは変わっていないのだけれども。燃やせないまま鞄の中に入れっぱなしの原稿は、翌日にそのまま付け足して持ち越した。明後日の講義は休もう、と露伴は口をとがらせたままの
マリエに提案してその機嫌を取り戻し、いつもと一本違う路地に引き込んでその背を抱いた。確信したのは、別にこの関係が露呈しても、兄妹の間に家族愛以上の感情を認識できる人間が少ないということだ。今まで読み漁った文学からそれは明らかで、岸辺露伴を”ちょっと変わっている”と評したがる周囲にそれが露呈したところで何も変わらないとすら思う。顔が似ているわけでもない
マリエは半ば露伴の作品のようなものであって――それこそ審美眼から家庭教育、それからキスの仕方まで――作家が作品を愛さないわけがない、と言い切ることは十分に可能だった。
その日、岸辺露伴は夜に
マリエの部屋に赴いて、眠る彼女の手を少しばかり拝借した。言い様のない不安が、秋の習慣の変化からひしひしと露伴の背に迫っていたのだ。全ての不満を自分たちに向ける母の目、ゴミ箱を空にする前後の時間に家に戻る父の虚ろな目、同級生の好奇心に濡れた目、それからまた変わった編集の扱いかねる子供を見る目。放課後の予定を全てサボって夕日の差す部屋で寝ているとき以外の全ての目が岸辺露伴の背中を捉えているようで、居心地が悪かった。尤も、その不安を言動に変えた結果が編集の目に現れていることだけは自覚があったので、それは自業自得だということは知っていた。それでも何も解消なんてされないことを知っていたのに止められずにいて、その後悔の念もこの部屋に来た理由の一つに挙げられはするだろう。普段、手の先にいる
マリエが向ける熱の込められた視線だけが露伴の居場所を定義していて、できることなら誰にも見せたくないとだけ露伴は思っていた。そしてそれを繋ぐこの手も、誰も触れなければいいとばかり思って先に汚したいという気持ちばかりが募っていた。
いつのまにか随分大人びた顔になったな、と露伴は若干の後悔の念を抱きながら
マリエの額にかかる髪を撫でて気付く。もうすこしあどけない顔をしていたと思ったのに。いや、知っている子供の時分でなくなったからこういうことになってしまったのかもしれない。いつの間にか庇護していた作品が勝手に歩き出したかのような気持ちになって、それにも自分は焦っているのかもしれないと岸辺露伴は自分の行動を分析していた。分析してなお行動を止める気にも、愛着が失せるわけでもなく非生産的なので露伴はそれ以上考えるのをやめた。
非生産的な手紙というものが世の中には存在する。まだ関係を持つ前、体に触れられると
マリエを同意のない行為に持ち込みかねないと彼女の接触を絶った出来事もそれがきっかけだった。自分とさして年齢の変わらない男が、
マリエを垣間見てはその思いを用紙に認め彼女の肩を掴んで伝えた出来事は露伴の中の彼女に対する執着を決定的に客観視するには十分で、その拙い文章を思い出す度に灰にしたはずの感情すら思い起こされるのが露伴には耐え難かった。地下鉄の中でそれに目を通した時に彼女は無邪気にその内容を聞いてきたけれど、それを自分も思っていることを悟られるのが怖くて露伴はついぞ口を割ったことはない。以来その男が彼女に接触したかどうかは知らないが、多少なりとも恐怖を与えたようだから、あったなら
マリエは口にしていただろう。
新しく通い始めた予備校でもそれは健在だった。彼女の教室は別の教室であったけれど同じ棟の同じフロアでちらちら姿を見ることも精神衛生上あまり良いことではなかった。教室は他の受講科目とは立地と科目の特殊性から棟だけが分けられていて、露伴のような都立高校の学生なんておらず、一人上級生にいたけれどもその男は留学帰りであったし、あとは彼女と同じ制服をきた女子学生か、その斜向かいの学校の男子学生ばかりが席を埋めていた。
マリエと同じように2つに結われた髪からセーラーカラーに続く首を見ても何も思わなかったが、襟の校章が煌めく学ランが露伴の机の前に晒される度に火にくべた手紙を思い出すので露伴はやはり予備校も好きになれないでいた。唯一好きになれたのは誰もが自分の作品を知っていてもそれを露伴本人と結びつけることがなかったことくらいである。
好きになれなかったのはそればかりではない。ふと休憩時間に外を見れば、目の前の詰め襟の縮小版が嫌そうな顔の
マリエに声を掛けているのを見るのも気に入らなかった。機嫌が表情に直結しているのだけは兄妹で似ているという自覚が生まれたのはこの時だった。拙い好意の伝え方をする少年が
マリエに付きまとっていることも、一人進度のよっぽど遅い言語を読み解かされていることも全てが露伴の癪に触る。共通一次みたいな目標もなかったのに、半ば強制的に受けさせられていてもモチベーションが上がるわけがない。何度か窓の向こうで白い便箋が交わされていることも目で捉えていたけれど、それを目の前で止めるだけの理由も、目立つ理由もない程に露伴はそこで息を殺していた。よっぽど画塾のほうが局地的にはためになっている。
尤も、
マリエはその手紙を開けることもなくコートのポケットに突っ込んでいて、それがあることを告げることもあったしないこともあったが、大抵は家に帰るまでに露伴がさも知らない振りをしてポケットからそれを出し、家で燃やして捨てていた。気づかないまま翌朝に気付くこともあったけれど、そんな日の露伴はなんとも言えない気持ちになって大抵次の授業を切ることを提案してしまう。自分もあんな顔をして
マリエに話しかけているのだろうかと思えども、それを知る術も、指摘する人間もいなかった。
自分の二度目の入試休みに、再び担当が変わった。理由は解っていた。気難しい若い高校生漫画家には若手をつけるべきだろう、とあてがわれた仏文科を出た彼の元担当は、彼のその予備校の話を非常に懐かしんで雑談を広げてくれたし、先輩らしいコツだなんて言うものも滔々と語る。彼が、露伴の苛立ちの諸原因の先輩に当たることが、露伴にはどうしても飲み込めずにいたのだ。妹さんも一緒に通っているんだって?僕も当時のガールフレンドが同じクラスに通ってたよ。岸辺先生はどう?そんな話を雑談代わりにされても何とも返し難い。露伴は彼に過度に苛立ちと八つ当たりを含んだ返事をしていただろう。入社2年目の彼に返すにはそれは十分苛烈すぎたという自覚は露伴にもあって、変更を聞いた時に流石に申し訳ないという気持ちで元担当の彼に葉書を送った。プロ2年目にしてはじめての行動だった。
「ろ、はんっ」
今度はどの秘密がバレたのだろう。露伴はこのところ、私の秘密を嗅ぎ当てる度に性急に私を求めては手荒く私を達させようとする。確かに頭のなかが真っ白になって、私の体が表面から溶けて露伴と一緒になってしまうような快感が全身を通り抜けて至極気持ちのいいことに変わりはないけれど、ぽつぽつと体に跡を残すのだけはやめて欲しい、と思っていた。高校生の兄は体育でもロッカールームがあるのだろうが、小学生の着替えなんて、女子校であることも含めてすべてあけっぴろげだからだ。毎日登校しては制服から授業のための服に着替えることは十分知っているだろうに。いくらキャミソールを着ていても、目敏く同級生は私の体の跡を見つけてはそっと噂を立てるだろう。やめて、といってもそれを止める気はないらしく、私の胸の内側は転々と露伴の噛み跡と吸い跡が残っていた。固くて痛いのに、触れられてなお痛いのに、さらに内出血まであると走っても痛いことを
マリエは知った。こればかりはだれも知らないだろうけれども。
年内で最も寒い季節の昼、休みを満喫していた私たちはまた露伴の部屋で睦み合っていた。達してぐったりした私を赤ちゃんみたいに抱き上げて露伴は私の頬に唇を落とす。全身にこれをされるのも、するのも私たちは大好きでこうしたすこしだけ時間のある日はよくそうしていた。それでも私はなんとなく確信があって、それは今日きっと露伴は私に体液を飲ませる気だろうという予想だった。秘密が彼の目に晒される度に、彼は違う方法で私をわざと汚そうとする。目を舐め、顔にかけ、髪に、胸に……彼は大概その後でひどく私に謝るけれど、私はそれがまんざらでもないと享受している。わざと罰されたいとでも思って私は秘密を作ってはヒントをそのままに放置してしまうのかもしれない。嫉妬と優越感がないまぜになった露伴の目を見ていたら、彼は私に口を開けと言ったので、私は彼の好みだと知っていて舌まで出して目を伏せる。熱量と質量が私の口腔内を蹂躙する感覚に私は内心歓びながら露伴、とうまく回らない舌で兄の名前を呼んだ。私の名前が耳に届くのが早いか、味覚が勝るのが早いか、私は聴覚の方が早いと思っている。
手紙の燃える火は私に新しい愉しみをくれたのだ。二度目の拙い手紙を受け取って以来、岸辺露伴がさらに担当編集者に当たり散らしているのも知っている。それが原因で担当が変わったことも、私の塾のクラスの席割り表まで把握していることも、それから私のサイズアウトした下着と、タイツで自慰をしていることも。それでも作品だけはなんの心の荒れようも映し出さずに平生通り淡々と起伏に飛んだ展開を描いているのが面白かった。岸辺
マリエは、兄岸辺露伴に勝てても漫画家岸辺露伴には勝てないことがわかるからだ。
20160112 chloe, as the "innocent incest incident" #04
title quatation from Joris-Karl Huysmans "A rebours"