欺瞞の書

 岸辺くんに進学希望がないのはわかったけれど、それでいいのかな。君にだって歳相応の体験をするほうが君の将来のためになると思うんだよね。
 予備校教師の言うことはそればかりで、岸辺露伴はそれを感情もなく聞き流していた。この点においてはまだ通っている高校の担任のほうがよっぽど扱いやすくて、彼は露伴に進学希望がないことがわかると二、三の美大の資料を出しながらも君はもうちょっと後で行ったほうが楽しいかもしれないね、だなんて言ってあっさり終わらせたのだ。彼は十分に今までの二年間で岸辺露伴が学校に影のないことを、そして影を作るほど居ようとしないことも知っていた。でも塾は行ってるんだってね、まあ、それも現役と既卒じゃあ雰囲気が違うから体験かもしれないねえ。妹の存在も、何故そのような羽目になったのかも知らない担任はそう言って面談を締めた。桜が舞う季節の2つの二者面談はどうも上手いこと進まず、ただただ名目のために無駄な時間であると岸辺露伴は思っていた。よっぽどこれに親が出てこないところを見ると本当は諦めてくれているのかとも思う。母の判断は未だに読めず、ただそれは彼女なりの親としての行動か、あわよくばという思いなのか、それとも妹と距離を置かせたかったのか、どれなのか、またはそのどれでもないのかわからなかった。尤も彼女は朝と晩にしか会わないし、受けさせられる模試なんかも目を通すことはなかったので、その真意はないのではないかとすら思っていたのだが。
 春に岸辺露伴の学年は1つ上がって、高校3年生になった。学校は大体の同級生がなんとなく進学するらしいけれども、確かにその的を得ない雰囲気の中に固く冷たい空気は存在していた。それが明らかに露見しているのが予備校の教室と画塾で、その空気に再び溶け込む気も、機会もない岸辺露伴はさらに寄り付く気もなく画集と単語帳を開いて過ごす。彼の予備校の体験は、確かに画集のタイトルが邦訳無しで読めるようになったことと、気の抜けた誰も持っているわけがない単語帳の表紙に周囲は絶対に話しかけて来ないことだけが生活に生きていた。将来自分がハイティーンを描く気になれば生きるのかもしれないが、少年誌、いや青年誌でさえ自分のような体験をそのままに描けばきっと世に出すことはかなわないだろう。
 歳相応の体験とは何か。周囲の大人は口々に露伴にその語を投げる。17歳は普通、どう過ごしているのか皆目見当もつかないまま岸辺露伴は授業中によく教室を見渡していた。手紙を書いて回すもの、週刊誌を読むもの、黒板に向かうもの、予備校の課題を隠れて解いているもの。露伴はそれのどれでもなかったけれど、確かに黒板に向かう事以外はしたことがなかった。じゃあ放課後はどうだと思えば、部活の体験もなく、同級生と待ち合わせて帰ったこともない。寄り道をすることはあるけれども。それから、待ち合わせて帰ることはあっても、恋人が妹だなんて人間が他にいるだろうか。岸辺露伴のなかで17歳は既に過ぎ去った体験なのではないかという思いがあって、彼は投げられる言葉に「陳腐だ」と一言で返すのが常になっていた。
 そもそも、歳相応であったら今自分はこうして漫画を描いて生計を立てられる程にはなっていなかっただろう。ぼんやりと露伴は高校を出たら家を出たい、と考えていて、それが高校卒業と同時のタイミングであったことだけが自分の中の歳相応さなのではないかと考える。単に両親が家から出す気がないということと、それからマリエと離れる理由もないと思っての思案の結果だったのだが、たまにその陳腐な年相応さに気づいて笑いがこみ上げる瞬間がある。彼女が寄り付きやすいように実家と、それから編集部の間に家を借りようと思っていた。

「この間、あの沿線の大学の辺りにいなかった」
「はあ?」
 母親が唐突に夜、食卓でそう言い出すことに岸辺露伴は不機嫌に答えた。彼女が言う駅名をおうむ返しにしながら露伴は不穏な表情を作ったけれども、彼女は露伴の作ったたけのこの煮物をつつきながらさらに日付を答える。先週のフランス語の予備校の日だった。
 春になってレベルが細分化されて、当たり前に露伴は下のクラスにいた。とはいえ周囲を構成する人物の服装の構成は変わらないし、むしろマリエと同じ曜日なのが動かない分よっぽどマシだった。いくら教師が煽れども、岸辺露伴が必要以上に予習も復習もするわけがなく、構内の模試ですら休まないだけ真面目だっただろう。一方マリエはやらされているという顔はしながらも、流石に学校の進度と合っているせいかきちんと机に向かっていた。露伴が手紙を燃やすせいで彼女はより孤立を深めているのは知っていたけれど、彼女はそれを望んでいたので別に気にすることなく露伴はその拙いノートの裏を捨てる。最初に自分が燃やしたものは、同年代なだけあってまともに感情が綴られていたけれど、最近のそれは全く日記めいた拙いもので露伴としても狩りのような気楽さで処分できたというのもあった。むしろその拙さでよく彼女のアンバランスな色香に気付いたな、とすら思っている。自分がかつてその年代だったとき、気付いていただろうかと問われればその片鱗は記憶の中に確かに存在していた。
 彼女は露伴のが手紙を握りつぶすことを知ってか知らずか、さらにその足に、体に、表情に、大人の影を深めていく。岸辺露伴はそのタイツ姿が恋しかったので、彼女のふくらはぎに、それから足首に、足の付け根に噛み跡と吸い跡を残すのがとりわけ好きだった。そうすれば彼女は三つ折の白い靴下なんて履けずに黒いタイツのままでいるからだ。新学期になるからやめてね、とマリエは抵抗したけれど、代わりにキャミソールの下を吸えば彼女は諦めたようにされるがままでいた。それをどう言い訳しているかは知らない。その理由に興味はなかったけれど、『成長期』にはあることだ、の一言で片付くと岸辺露伴は考えていた。
「そう、その日にねえ、露伴を見かけたって私の知り合いが言ってたのよ、サインもらえばよかったって」
「ああ……サインならいくらでも描くのに」
「でもなんでそんなところ居たの、あなた塾は」
「取材でね」
 どうしても若い男が車で女を拾っていく構図が必要でね。苦し紛れに露伴はそう言って席を立った。そんなもの、描く予定すらなかったし、大概の車ならもうとっくに描けたし、下心を隠そうとしている男の顔なんて見なくてもありのままに描ける自信があったけれども。母親はふうん、ああ今度色紙、買っておくわね、と言って日本酒でたけのこを流しこんだ。
マリエのこと、その後で迎えに行ったの」
「まあね、遅いし」
「頼もしいこと」
 本当に昔から仲が良いわよねえ。母親が晩酌をする習慣はいつから生まれたのかもう露伴は忘れてしまっていた。本当に、気味が悪いくらい子供の時から喧嘩もしないで。露伴はその日の行動を思い出そうとしていた。あの日は……。本当に昔っからさあ、いつもマリエもお兄ちゃんにべったりだし、お兄ちゃんもそれに付き合うし……あなた昔私にだってあんなにくっついてきたことないでしょう。あの日は確か、お互い面談期間で短縮授業日だったから昼もすぐに帰ってきて夕方までずっと家で体を重ねていた気がする――春だからとその後彼女と商店街の喫茶店でわらび餅を食べた。本当にさあ、兄妹じゃないみたいに見える時があるわ、私。
「母さんの期待どおりのいい兄妹だろ」
「急にどうしたの」
「別にどうもしないけど」
 明日締め切りだからじゃあ。そう言って岸辺露伴は部屋に引き返す。兄妹じゃないみたい。母のその言葉は的確だった。もう兄妹じゃないからそう見えて当たり前だ。酔っぱらいの戯れ言だと思っても、その一言に心拍数が跳ね上がる程度にはまだ岸辺露伴は17歳でしかなかった。悟られないうちに部屋に帰ろう、原稿の続きをしなくてはならない。
「おやすみ露伴。塾はあまりサボらないで、進学もきちんと考えて」
「サボらないよ。おやすみ」
 その日は久々に、露伴はマリエのタイツの片方を抱いて眠った。それからケント紙も無駄にせず、久々に夜中にゴミ箱を空にもせず、岸辺露伴は朝まで微動だにせず眠り込んでいた。翌朝、寝坊しかけた露伴は久々に自分以外の作る弁当を手に持って外出することになる。後にも先にも、マリエが露伴の分まで弁当を作ったのはこれきりで、あとは現在に至るまで彼が食べたことのあるマリエの料理というのはこれと、随分前に手伝ったカレーくらいのものだった。だし巻き卵の味が自分のそれに似ているのに驚きつつも、白米をふんわりといれたために片寄った未熟さが愛おしくて、露伴は帰りにその事を腕の中のマリエに報告する。彼女は難しいね、だなんて言って自分の彩りも片寄ってしまった話をいつもの路上で露伴に囁く。

 岸辺露伴は6月が嫌いだった。昔からそうで、仕事を始めてからは紙の湿り方が変わるので梅雨のこの季節はとりわけ嫌いだった。高校生の時分にはちょうど中間考査もあってただでさえ忙しいことも理由の1つであったけれども、それは今でも変わらないかもしれない。
 最後の校外学習にいくから、とマリエは家を出て行った。明後日には帰ってくると言っていたけれど、この雨では近郊の山の上ではさして晴れることもないだろうと露伴は雨具を再三確認させて、セーラー服の襟と、それからまとめた髪を撫でてからその姿を見送る。このために彼女は昨日塾を休むことが許可されていたので、露伴ももれなくサボって帰り、準備と称してほとんど遊んでしまったけれど、彼女の願いどおり噛むことだけはやめた。彼女の足にはまだ点々と跡が残っていたけれど、それを付け直すのは帰ってきてからにしようよ、とマリエはめずらしくしおらしく露伴の首にじゃれついたのだ。
 露伴のほうは全く変化もなく、ただ単に試験前の煮詰まった授業を聞き流して、黒板を写し、家でそれをまとめ直しては原稿を進めるだけの日々が待っている予定だったのだ。その間にそれぞれ一日ずつ放課後に用事はあったから、その行き来が一人になって、弁当の準備が半分だけでいいことが特異的だったかもしれない。久しぶりにコロッケでも買い食いするのも悪く無い、そう思って露伴はさして寄らない商店街でコロッケを買って夕方に食べた。懐かしいその油と香辛料の味は、自分がひとりきりだと思っていた頃の味に寸部違わずどこか寂しい気も思い起こされる。日が陰ってから口にしたのが間違いだった――これに白米さえ合わせれば、どう考えてもクレヨンで紙に向かっていたときと自分はさして変わらないことに気付いてしまうからだ。これに気付くくらいなら、サボらずに予備校にいけばよかったものを。
 そういえば、もうすぐマリエと初めてセックスをしてから1年になるのか、と露伴は気付く。あの時はまだ孤独も衝動も抱えていたけれど、もう少し季節が進んでいたからこんな雨の中で陰惨な気持ちで一人で過ごしてなんて居なかった。もう一人でないことを認識していたはずなのに、唐突に彼女が知るわけのない時分の孤独が舌から広がって手の中にありありと再現されていくのがたまらなく不快で、露伴は久しぶりにマリエの部屋で夕方から仮眠を取った。制服も脱がずに帰ってきたその足で、不在のマリエの残香を求めてそうしたはずなのに、気がつけばすっかり日は暮れて夜であることを窓と時計は指し示している。明かりの付いていない家の中は真っ暗で、マリエの部屋のドアを開けてもそれは変わらず、寝る前に思い出した幼い時の孤独だとか、それからいま腕の中にないものの残香だとかが暗闇の中でさらに際立って、岸辺露伴は全てをそのままにして寝直すことにした。原稿の進捗は、問題など生じないだろう。中間考査など今更どうでもいい。夏服に変わったばかりのスラックスを脱いで干し、シャツすら床に放って露伴は今度は自分のベッドへ潜り込んだ。服などもう着ていたくもないのに、かわりにかわりにとまとわりつく湿度から逃げるようにタオルケットに頭から爪先まで潜り込めども湿度は露伴を離してはくれない。喪った残香が鼻にはまだ残っているせいで今度こそ世界に取り残された気分になって岸辺露伴は目を開けずに、意識も残香も失おうと手を離す。それでもいつのまにか掴んでいたのは、いつも枕元におくようになっていたマリエのタイツだった。
 その晩露伴が再び起きたのはいつの間にか差し込んできた電球の明かりのせいであって、随分と暗闇の中に閉じこもっていた露伴はそれがひどく眩しくて身を起こす。大丈夫なの、という母の声とともに身を起こせば部屋の明かりは付けられていて、服くらい着て寝なさい、と母親は床に露伴が放っていたグレーのシャツを投げてよこした。
「家に帰ってきたら鍵は閉まってるわ、真っ暗だわでどうかしたのかと思ったわ」
「……調子が良くない」
「ああ……それはごめんなさいね。洗濯物、かごにいれておくから」
 湿気ったシャツなど着る気になれなかった。露伴は立ち上がって、そのシャツをベッドにおいたまま替えを取りに棚に行く。そのおいたグレーのシャツを母親は床に投げていたワイシャツとともに回収しかけて、あら、と声を上げる。
マリエの靴下がどうしてこんなところに」
 露伴はそんなの履かないし、これはマリエのよね。失敗した、と露伴は自分の背に冷や汗が浮くのを自覚していた。棚から一番手前のシャツを引っ張りだして被って、ああ、と露伴は返事をする。洗濯物の山に紛れ込んでてさ。これは嘘だった。少なくともこれは1年以上前からここにある。彼女が三つ折の靴下を履かなくなって以来のことだったし、彼女が式典以外で三つ折の靴下を履かなくなっていることは朝晩にしか顔を合わせない母親でさえ知っていた。
「梅雨なのに、タイツねえ」
 開けば彼女が引っ掛けて穴を開けたことがわかるだろう。化繊のやわらかい感触、それから同じ洗剤のはずなのにどこか違うそのタイツを不安になっては引き出しにから出していた。このところはずっと枕元にあったけれども。それの何が悪いのだろうか。
「まさかとは思うけど、マリエに変なことしてないでしょうね」
「ヘンって、変わってるッて言うくせに妙なことを言うね」
 僕にとって、マリエにとって変じゃないことだったら聞かれる理由もないけど。そう露伴は言ってベッドに座り込む。出て行ってくれよ、という思いだけは通じたらしい。彼女は数秒の沈黙の後露伴の部屋を出て行って、露伴は再び立ち上がって部屋の電気を落としてタオルケットのなかに戻る。柱が折れてなくなったかのような喪失感が再び指から広がってきて、それを否定するように目を閉じたけれどもなかなか今度ばかりは寝付けずにタオルケットのなかの水蒸気ばかりを増やしていた。
 夜にグラスが机にだんだんと音を立てていたことは、彼の夢でもなんでもなく、翌朝彼が起きればテーブルの上にはグラスが2つ置かれていた。再び子供のときの視点を思い出して露伴はその日学校を休んだけれど、探せども探せども彼の喪ったマリエのタイツはどこにもなかった。
 
 それから翌日の夕方、岸辺露伴は学校から数駅戻って懐かしい習慣に従ってその改札を出ていた。時間が読めずに道沿いでコーヒーを飲むことも考えたけれど、案外そんな時間というのは大学生もちらほらと街なかに蠢いていてあまり得策ではないと露伴はベンチで文庫本をめくっていた。数日ずれればよかったものを、やっと雨から晴れに変わった今日は外気にふれていたいと思わせる気候で、それでいて湿度からは逃れられなかった。柄にもなく筆を止めたから、今日は帰ったら続きをしないといけないとは思っている。
 どれくらいの間待っただろう。久しぶりにまともな本を読んでいた。主人公は”まともなパーソナリティの持ち主”で、展開も王道の中の王道を征くものだった。確かにそれはどこかしら彼の作品には生きることがないのかもしれないけれど、彼は好んで基礎のために古今東西のこの類の本を読む。自分が歳相応だとかそうじゃないとか、そういったことで詰問される度にマイルストーン的に歳相応さを定義するために読んでいたという意味もあったかもしれない。その本の半分を過ぎたころにようやくやっと目の前を数台のバスが通りすぎて、時間が来たのかと露伴は栞をはさみ直す。あとどれくらい読み進められるかは知らないが、そう遠くもないときに中断する時がやってくるだろう。手にやっとマリエの感覚が戻ることを思うと、露伴の指は少しだけ浮足立って大きくページを捲るようになる。
「露伴」
 目の前を紺色のスカートの裾が通りすぎているのをページの端で確認していた矢先、よく知った声がいつもと同じ抑揚で自分の名前を呼び、露伴はやっと顔を上げる。今年は全然日にも焼けずに、マリエは露伴の目の前で大きな荷物を持って笑っていた。
「なつかしい、ここ」
「去年ぶりだな」
 露伴はふせんを再び開いたページに挟んでそれを自分の鞄にいれる。それからマリエの手に握られた荷物のうち片方に手を伸ばして、それを1つ回収して席を立つ。そのまま空いた手でマリエの手を捉えて再び階段を下ればいいだけだった。しっとりした手の温度に、自分の不足分の何かを思い出して露伴は不意にその手に力が入る。彼女はそれを少しだけ返して、横並びに階段を降りていた。
「楽しかったか」
「うん。雨だったけど、十分楽しかったよ」
「そうか」
 山にいくのに雨っていうのもなかなかしんどいな。そう言って露伴は自分のかつての校外学習を思い出す。あれは去年だったか。集団行動に向いていない、と再認識するにはひどくうってつけの機会だったけれど、それでも屋外に身を置くのは良いものだった。
「露伴は何をしてたの」
「いつもどおりの日課だよ。学校に行って、塾をサボって、原稿をして」
「ホントにいつもどおりなんだ」
「そりゃあ僕だって寂しかったけど、別にマリエが居ないからって日課が変わることもないし」
 昔のことを思い出して体調を崩したなんて言えるわけがなかった。彼女が知り得ない時代のことなど言うつもりもなかったし、それから彼女の部屋で仮眠を取ったことも、彼女のタイツを未だに持っていて、それからそれが捨てられたことも言えるはずがなかったからだ。さみしかったのかあ、とあっけらかんとマリエは笑って露伴の手を解き、スカートのポケットから定期券を取り出した。
「私もさみしかったけど、露伴がいないって泣くわけにもいかないし」
 ピヨピヨと平和な音が改札から鳴っていた。定期券をしまい直した彼女は再び露伴の手をに自分の手を滑り込ませてそう囁く。まだ学校のそばだというのに、今日はやけに距離が近かった。
「早くおうちに帰りたい」
 僕もだ。その言葉は電車がホームに滑りこむ音で伝わったかどうかはわからない。ただ階段を再び降りるなかで、ぎゅっとマリエの手は露伴の指を掴んでいたので、その重さの分だけは正しく伝わったのかもしれない。それでも今日はまだ家に帰りたいような気分ではなくて、家を通りすぎてなおどこか全然知らないところまで乗り過ごしていたいような気持ちだった。それは昨日一昨日の体験があったかもしれない。彼女が居てなお、家に寄り付きたくない気持ちが募るのは何故だろうか。彼女は知ってか知らずか、電車で露伴にもたれかかって眠っていたけれど、疲れきっているのを知っていて尚自分の突発的な家出に付き合わせるだけの覚悟が足りずに露伴はいつもどおりの最寄り駅で彼女を起こして電車を降りた。突発的な家出をするには、自分たちには縛られているものがありすぎる。明日出しに行かなくてはいけない原稿もまだ机の上でその完成を待っていた。その提出と発表と、突発的な、先の見えない家出にかかることを比べるにはまだ岸辺露伴も、マリエも、十分に幼く歳相応だった。
 眠たい目をしたマリエと家に帰って、荷解きをさせてそのままソファで再び眠る。体を重ねるには疲れすぎていて、それから露伴にも余裕がなくて、制服を脱いだきりそうなってしまったのだった。露伴は一人で眠るにはまた腕のなかになにもない感覚がありそうで、腕の中にマリエを閉じ込める。再び目を開ければ腕の中から居なくなっているのではないかという気持ちがそうさせたのかもしれないけれど、それにしてはマリエも露伴のシャツを掴んでいて、空白の二日間の結果はそれに現れていた。洗濯機を回したままだったというのに二人はその仕上がった音にも気づかずに眠り続けていた。
 目覚めは再び明るさによるものだった。煌々とした電球が点けられた光で露伴は目を覚ましその腕の中を確認する。腕の中ではまだマリエが眠っていて、露伴はすこしばかり安堵する。
「ただいま」
 電気を点けた主はまっすぐ露伴を見つめていた。それから、露伴の腕の中にいるマリエのことも。
「本当に、何もないって言い切れるのかしら」
「おかえり母さん」
マリエを起こしなさい」
 冷徹なその一言に、露伴は手のひらに嫌な汗をかきながら腕の中のマリエを起こす。ほぼ下着姿のままの彼女はなあにぃ、と眠気を隠さずにとろとろと起きおがる。
「露伴は部屋に戻りなさい。マリエはそこにいて」
 全てが終わったような気がした。言葉に逆らえるわけもなく、露伴はマリエを横に座らせて席を立つ。何も下手なことを言わなければいいがと今更ながら思っていたけれど、彼女がお兄ちゃん、ではなく露伴と小さく呼んだのが聞こえて居た堪れなくなって露伴はわずか数歩で部屋のドアを開ける。閉め際に振り返って見れば、マリエと目が合って、これでも何も手を出せない自分の不甲斐なさが刺すように露伴の身を覆い尽くした。
 ドアに滑り落ちるように床に座れば、ぼそぼそと母の声とそれに答えるマリエの声がする。なにをしていたの。昼寝を。お兄ちゃんと変なことしてなんてないでしょうね。変ってなにが。お母さんはね、マリエが心配で、心配で、ねえ、お母さんには話してほしいの……。むしろお兄ちゃんには感謝してるのに、なあにお母さん、いまさらになって。ねえ何なのこの痣は、答えなさい、マリエ、本当になにもないって言うつもりなの。
 露伴は自分の手が震えていることに気付かずにそれを床につける。さっきまで自分の手の中にあったものが、もうこんなに遠い。いつだってそうだ。迂闊だったのは自分のほうだったかもしれない。時間の問題とは思わなかった。ただ自分の失敗が積み重なって彼女の疑いの目を産み育てたのはここ最近の出来事からも明らかだった。あの時タイツをしまっていれば、去年の夏にもっときちんと離れてさえいれば。それか、もう少し父が母を構っていて家庭が家庭らしくあれば。露伴は床にその手をおろして初めてそれが震えていることを露伴は自覚する。ドア一枚しか隔てていないのに何故こんなに二人の声が遠いのかと思えば、自分の妙に早まった鼓動の音が邪魔しているのに気付いたけれど、どれだけ息を吸ってもそれは収まらずにただただ露伴の耳を内側から邪魔していた。
「そんなこと、誰も許しなんてしないわ」
 ドア越しに聞こえる母の声が露伴の耳に刺さる。誰も許さなくとも、マリエは確かに露伴を許していてくれた。幼い彼女の肩に顔を埋めていた時に受け入れられたことを母は一生知ることはないのかもしれないが、別に誰の許しなどもいらない、と露伴は思っていた。家を出るなら、今しかないと思う。その晩に露伴はただ一言、唯一血縁関係のある保護者である父親に出て行きなさいと告げられるが、露伴はその言葉に自ら選択して従うことになる。マリエは、あのドア越しの表情以来、露伴が家を出るまで会うことは叶わなかった。その日は彼女と露伴が同席することは許されず、夜に露伴は部屋で父親のその一言を受ける。翌朝は休みのマリエを連れて母は朝早く出かけてしまって、夜になっても帰ってこなかった。露伴は何も考えないままただ足が覚えているというだけで編集部に原稿を出し、そのまま担当に家の探し方を聞いた。担当編集は深く聞きこそしなかったが――単に露伴が聞いていなかっただけかもしれないが――彼の同僚に聞いて回っては、同業者に向いている物件の大家のもとに共に周ってくれ、そのうちの一件と話をつける。そのまま大家は父親に電話をかけたが彼も話を適当に丸めたのだろう、納得されてから露伴は彼らの言う必要書類を集めるために学校にも寄らず、区役所に直行した。それは数代前の編集の言葉が染みる手続きの連続で、彼は印鑑証明も、確定申告も、全て何も知らない自分に教えてくれたというのにいかに無碍に扱っていたかということを直面する出来事でもあった。今度の担当には、もうあまり無茶なことは言わないでおこうと思ったけれど、突然の転居は十分無茶であったかもしれない。このときマリエだったらどんなお礼を考えるだろうか、と思った時点で視界が歪んで、露伴は区役所のソファでただ番号札を握りしめて泣いていた。
20160115 chloe, as the "innocent incest incident" #05
title quatation from Emil Cioran "Le livre des leurres".