愛とそれに似たもの

 母は高原学校の翌日の代休に、マリエをそのまま再び連れて東京から少し離れた山の中の温泉に連れてきた。いつのまにか母は私の荷物を再び鞄に詰めていて、私はワンピース一枚でその手に引かれて朝早く家を出た。露伴にコンタクトを取ることも叶わず、最後に見た虚ろな露伴の目の真意を読み解くにはあまりにもその瞬間は短すぎた。あの日は全く眠れずに、露伴がいつかマリエにお守り代わりに持たせてくれた彼の連絡先、それから彼の編集部の住所と電話番号が書かれたカードの文字を指で撫でていた。インクで書かれた、決して綺麗とは言えないけれど一番馴染みのあるその文字に何度救われただろうか。あの電車での遭遇の時以来、マリエは露伴がいない時に心寂しい気分になると定期券入れのそのカードを取り出しては撫でるのが習慣だった。それでもこれの存在が母に知れたら間違いなく捨てられるだろう、とマリエはそれを元に戻して眠る努力をしていた。お兄ちゃんと愛し合っているだなんて、誰が許すと思っているの。母はそう私達を詰ったけれど、事実兄はそれを許してくれた。仲睦まじい兄妹であることを母は求めたのに、睦み合うことは許してくれないらしい。
 馬鹿みたいに明るく母はその突然の旅行を楽しんでいた。思えば母が再び働くようになってからというもの、家族旅行なんて一度もしなかったし、それに異論を唱える気もなかった。存命する母の母は随分と長いこと患っていてマリエが休みに身を寄せる余裕はなかったし、何より露伴には関係のない老人でもあった。長期休暇といえば、露伴と少し足を伸ばして自由研究に行くのが常だったし、それに十二分に応えてくれることを両親も知っていたから何も言わなかった。昨日まで随分とねちねちと怒って動転していたはずなのに目の前で底抜けに明るく振る舞う母を、マリエは内心不気味に思いながら車窓をただただ眺めていた。何も面白く無い。露伴と自分を離したいからこうしたのだろうと思っていたけれど、そのために突然休みを取ることが可能なことにもマリエは驚いていた。特急の車内で開けられるビールの匂いに不慣れな気持ちになって、それを振り払うためにもマリエは眠れなかった睡眠を再びそこで取り直す。夢は見れなかった。夢のなかでなら露伴と何をしようと咎められなかったかもしれないのに。
 山奥の離れのような部屋についた途端に母はマリエを風呂に誘う。なんとなく薄々感付いてはいたけれど、やはりそういうことか、とマリエは思いながらそれを顔と声では快諾する。朝着替えた時にはすっかり跡は薄く目立たなくなっていた。それが目的ではないだろうが、マリエは何を聞かれても彼女の好きにはさせない、と思っていた。
 予想外に母は何にも露伴については問わず、ただただ今までの空白を埋めるようにぽつぽつと都度の出来事を上げながらさも良い母親であったかのような話を繰り広げていた。部屋についている露天風呂で、肩を並べながらマリエはのぼせかかった頭でただ頷くだけを繰り返す。ただ語られる事柄に、母がいた覚えはあまり無い。覚えている母とのことといえば、数年前に来た身体の変化に関することと、下着の変更についてくらいのものだった。よっぽど日々の出来事なんかは露伴のほうが知っているだろう。話したくないと思っていたわけではなかったが、話す機会もなかったし、彼女がいつも自分に求めるのはかつて彼女が出来なかったことの実現であることくらい昔から解っていた。それを達成しても彼女は決してほめてはくれなかったし、むしろ強く当たるので、マリエは母には何も逆らわずにただ頷く以外の選択を持たなかった。
 露伴にまつわる話は、一度も出てこなかった。日がな一日風呂と、部屋とを往復して、だらだらと読書をして過ごさざるを得ない中で母は一度もマリエを外に連れ出そうとはしない。そんな密度ばかりが濃い旅行のあとで家に帰り着いて初めて気がついたのは、玄関にはもう露伴の気配がなく、彼の大きい靴も無ければ、ふと見えた――勿論入れなかった――露伴の部屋はやたらとがらんとしていたことで、壁に掛かっていた唯一の家族写真、随分前に撮ったものもどこにいったのかもう掛けられていないことだった。マリエは露伴のことを聞けども、母親はそれには一切答えてくれなくて、代わりに当分塾の回数を増やしましょう、とだけ言った。不満を抱えつつも、これ以上母を刺激して大事にされることだけは避けたくてマリエは黙って部屋に戻る。露伴の私物がなくなっているということは、彼はもうこの家には戻ってこないのだろうか。まさかあの最後にみた視線だけがお別れになってしまうだなんて。
 明日の準備をしよう、と思って宿題挟みを開いた時、その中に固い紙が入っている事に気づきマリエはそれを取り出してその表と裏を確認する。よく見知った黒いインクはよく見知った言語で彼の新しい住所と、それから私のハンカチを借りたままだということを述べていた。出て行け、と自分が家を出る前に父が露伴に言ったことは覚えている。それが短期間で現実のものとなっていることをマリエはその三行の手紙と、その下に番地から記された住所で悟る。今すぐにでも行きたいと思ったけれど、きっとほとぼりが冷めないうちに行けば彼の支障になるだろうし、さらに周囲の不興を買うだろうことは目に見えていて、その暗号を私は大切に毎晩指で撫でてはまるでしおりか何かのように単語帳の間に差して隠した。これなら母にも開かれず、今後間違って捨てられもしないだろうという目論見からだったけれど、それは案外成功していて、マリエは学校でふと露伴の不在に気付いて鼻の奥がつんとしてきた時に開いてはインクで書かれたそれを眺めていた。決して綺麗とは思えないけれど、一番しっくりと馴染んだ文字だった。その住所がどこを示すのかマリエは休み時間にこっそりと図書室で調べていたけれど、案外学校から近いその場所を尋ねられるわけもなく、街角の地図の該当部分を眺めては一人で地下鉄に乗る日々がマリエを待っていた。何も知らない顔をして増えた新しい塾に足を運んでは、多種多様な年齢の人々の間をくぐって教室の席につく。購買には露伴の提出しただろう漫画の載った週刊雑誌が売られていて、そういえばもう家にその単行本も何もなかったことをマリエは思い出す。ここの購買には彼の単行本が翻訳されて流通されているけれど、彼はそれを読んだことがあるのだろうか。全てとは言わないが、彼だってある程度読めるだろうに、家にその単行本があったことはない。

 彼の痕跡は、もう家にはなくて、私が家を空けたあの2日間の間にそれが運びだされたのだろうということはとっくに見当がついていた。私は露伴の部屋だった部屋にはいることすら禁止されていて、その不条理さに腹を立てながら、でも私は露伴のように家を出る術も持てずにただ監視下にあった。母はまるで私が最初から一人っ子だったかのように露伴の話をするのを嫌がっていて、唯一の家族写真――私と露伴がそれぞれ入学式が被った時のものだ――が壁からなくなっていたけれど、それは母が嫌がったので父の机にあるらしい、ということだけは父の口から聞く。これら全てのことについて、父は私を咎めるでも、露伴を咎めるでもなく、そしてその理由やきっかけを問うでもなく私に謝ってきたけれど、私にはその真意を掴むことは出来なかった。露伴、という単語を口にしないまま、私の手はすっかり空いて一人で再び電車に乗れるようになっていた。いつだって定期券をしまってから手を少し上に上げてしまう癖も、それから学校を出て駅を通り過ぎそうになることも、年数から行けば多い体験ではないはずなのにすっかり身に馴染んでいて、それらの習慣を捨てることへの躊躇いはどの瞬間にも存在している。
 一度彼が来るであろう、変わっていないはずの原稿提出日に全ての放課後を捨てていつもの公園で彼の姿を待っていた事があった。期末試験のはじまる頃だったか、夏の暑い日差しから逃れて日陰のベンチで待っていたけれど、見知ったあの背格好はついぞ一瞬も通らずに日が暮れていってしまい、マリエは自分の予想以上に落ち込んで帰路についたことがある。そのまま目を閉じても地図帳では覚えている彼の家に行こうかとも思ったけれど、彼はもう再びそこを離れていて、作品のためにも自分との接点を切りたいのではないか、という思いが生まれたせいで、ただまっすぐに改札をくぐって電車に揺られる以外の選択を取れなかったのだ。
 夏が来ていた。終業式のあとの二ヶ月は、常に露伴とほぼふたりきりでずっと過ごしてきたというのに、肌を触れ合わせてから1年も経たずに離れたことに気付いてマリエは終業式のお祈りの最中に涙ぐんでその目を組んだ指で拭っていた。今年はいままでのようにいかないらしい。新しいことにたくさん触れれば、きっとマリエだって気分転換になるわ、と言われて提示されたのは短期留学の案で、明後日から家を再び離れざるを得ないということが解っていたのだった。夏前の三者面談に母は初めてアポイントを取ってはせっかくですから留学を、と明言していた。中高の間に姉妹校に行く人が学年に数人いることは知っていたけれど、まさか自分がそうなる運命とも思わずマリエはただ2人の大人の間で所在なく座っていることしかできなかったのだ。ええ、私がかつてできなかったものですから、マリエにはずっと身につけてほしくって。その真意が東京から、露伴から私を離しておきたいことくらい解っていたけれど、それについて指摘すれば全ての蛇足が彼の立場を悪くすることくらいはマリエにだって見当がついていて、そんなことができるわけなどなかった。ええ、フランス語はマリエさんもよく頑張っておられましたし、だなんて言葉が担任の口から出てくることも予想外だったけれど、それが複数年に渡るだろうことを2人が話しているのも予想外だった。来年の夏から数年は向こうに、という言葉に、まるでその選択が入獄か何かのような感覚さえしたけれど、母の監視下を抜けさえすれば露伴にコンタクトを取ることは可能なのかもしれないと思いつき、そればかりが今後のマリエにとっては一縷の望みだった。しかしながら彼らはマリエが何を思っているかなんて度外視してその計画をただまとめていた。いつかは帰ってこられるのだろう、という感想しかマリエにはなく、ただ、単語帳の間のケント紙と、それからパスケースの中の名刺大のカードだけはどこまでも持っていようという決意だけが胸の中にあった。
 彼らに隠しているこのケント紙は、いくら彼らが自分に強制させたとしても、彼らには読めない自分たちの間だけの暗号であることがとても面白くて、マリエはそれに笑みを湛えていたけれども、彼らはそれを新しい体験への期待と勝手に受け取っていた。ばかみたいだ、と思いながら帰宅したマリエは父がそっと鞄に入れてくれていたフォトフレームを下着で隠してスーツケースの奥底にしまった。露伴に会いたい、というシンプルな欲求が満たされるのは一体いつになるのだろうか。それについて思うと先が見えなくて何も考えられなくなってしまうので、私はいつも不意に夜目を覚ませば目の前に露伴がいて、それか、学校の門を出たら路地にもたれかかる露伴がいるのではないだろうか、と期待して毎日を過ごしていた。現実はそんなことなど一度もなくて、自分の見知った路地に彼の影があることなんてないし、勿論自分より授業の終わるのが早い露伴の学校のそばに行っても、提出曜日に編集部の前にいても遭遇することなど一度もなかったのだった。代わりにキオスクに毎週月曜日に並ぶ紙面の表紙に彼の描くキャラクターを見ることだけがマリエの習慣になっていた。それを手に取る機会なんてなく、ただ彼とお揃いの単語帳を開く度に虚しさがこみ上げてくる。同じ塾に通っていたはずなのに、いつのまにか高校生のクラスの座席表に彼の名前はなく、画塾の受付でも彼がそこから籍を消したということを告げられていて、かつての思い出の場所はどんどん空虚にその姿を他人行儀に変えていた。
 露伴はいまどこにいて何をしているのか。知りたいことばかり情報は入ってこないのに、その空虚を埋めるためだけに詰め込まれた語彙がぽろぽろと降り積もっては指から流れ出ていた。パスポートに映る自分の顔の中に露伴の面影を探しても、ありそうで見つからないことだけがマリエを悲しい気持ちにさせる。湖畔の校舎についたところでその虚無が止まるわけもなく、同じ都市にいるというだけの安心感すら失われていて、マリエがすこし乾燥して反ったケント紙を取り出す機会は着実に増えていた。

20160117 chloe, as the "innocent incest incident" #06