世界の外ならどこへでも
わざと拙く一枚目の手紙を書きました、というのも日本語を忘れないためにという名目で、この体験をしているスポンサーにお礼のお手紙を書くといって私は先生の目をごまかしているからなのです。
訳文の1枚目はそういう唐突な文章から始まっていた。確かに、はじめに訳さずに読んだ一枚目の手紙は少し崩れた字で、かくも無残としか言いようのないまとまりのない文章が羅列されていた。幼いと言っても良いかもしれない。自分が高校を卒業してから半年は経っているので、彼女とて中学生にはなっているだろうにと思わざるを得なかったが、そういう理由であったというのはこの上がってきた訳文を見るまで考えもしなかった。それに加えて、露伴は自分がすっかりフランス語を読めなくなっているのに気がついていた。元からそこまで真面目に取り組んだ覚えなどなかったし、家族の目を盗んで
マリエに書き置きを挟んだ時以外に活用できた試しがなかったのだけれども。訳文の上の彼女はすこしばかり知っているよりお転婆なように見えて、この時ばかりは露伴は自分の不勉強を後悔した。原文のままの彼女の感覚は訳の上では失われているようだったからだ。
手紙に記されていたことは、だいたい今までの報告と、それから彼女の学費に関する感謝、それから慕情と愛の言葉で、露伴はまるでこの家に越してきた時のことが昨日のように思えて仕方がなかった。接触禁止を言い渡されて早一年と少しが経っている。二度も一人の夏を過ごし、露伴はかつてないほどストイックに作品制作ばかりに向き合っていた。あれから全ての放課後の諸々を放棄し、学校と、家と、家のすぐ近くの編集部だけで全ての生活が完結していたし、春からはもっと生活が狭まったのでよく取材旅行に行くようになったことだけは変化かもしれない。
露伴はそれから返事を書いて、それから返送先は今までどおり編集部で良いと書き足すことを忘れなかった。いつ何時これが誰か家族にバレては面倒を生むだろう、というのが露伴の目論見で、このやり取りは毎月月初に行われることになる。露伴は毎度、次から見知った書体の文字で書かれた日本語の
マリエの手紙を綺麗にファイルに閉じては抽斗にしまう。そしてあのときと同じ筆跡で日記じみた報告と、それからささやかな贈り物と素直な言葉を添えてそれを送り返すことが日常の一部になった。誰ももう、このやりとりを邪魔などしない。白い角ばった封筒にいつも何枚にも生活のことと、それから時折写真が同封されていることを露伴は何よりも心待ちにしていた。思えば彼女の映った写真などいつかの家族写真と、そうでなければ彼女の行事の時の写真くらいしかなくて、岸辺露伴のいまの住居に彼女の映ったものはなかった。自分が賞を貰った時の記念写真の横にそれを挟むことに決めていた。数通に一度挟まれるそれを心待ちにしている旨露伴は返事を書けば、毎度それが挟まれるようになった。代わりに露伴は自分の写ったものを送り返そうと思っても、取材旅行すら一人で行くのにそんなものは見つからず、毎度新刊を添えるのが常になっていた。それが帰ってくるときに支障にならなければいいが。
手紙の往復が数十通を数えるころ、岸辺露伴はいつ帰るのか、ということを問うた。翌月のその返事は不明瞭で、夏に本当は一度帰ったのだ、という事を述べていた。それは彼女が完全に向こうに通い始めてから二度目の夏で、それを知らないまま岸辺露伴は手紙を書いて送っていたし、それ以外は普通の生活を送っていた。7月の末に届いていた手紙には何もそんなことは述べられておらず、8月ですら同じような時期に送られてきていたので、てっきり何もなくただ淡々と学校外の家で過ごしているのだとばかり思っていたのだった。彼女は普段学校に住み込んでいたけれど、休暇すら帰れずにそういった子どもたちとまとまってサマーキャンプに入れられていたからだ。そこに母親の帰らせも、自分と接点をもたせる気もないという意志を感じて露伴は決して実家と接点を持つとも
マリエの話をしないようにしていた。
夏に祖母の葬式で鎌倉まで行きました。それでも、露伴も来るというのでその後にお線香をあげにいっただけなのだけど、あまりにも急で連絡ができなかったし、帰っている間に連絡を取ろうと思ったけど、ずっと家にいたので、取れなかった。一瞬家の前に行ったけれど、怖くて呼び鈴を鳴らすことなく帰ってしまった。だいたいそんな内容で、久しぶりすぎて戸惑ってしまったこと、それでも地下鉄に乗った時に再び心細い気持ちになったことなどがそこには綴られていた。高校の内部進学試験を受けにはもう一度帰るでしょう、その後帰れるかどうかがわからないので、きっといい子にしていますとも。
帰ってこなくともいい、と露伴は思っていた。会いたいというのは間違いようのない真意だったけれども、帰ってきてしまえばもう二度とこのように連絡を取ることだけは叶わないからだ。向こうから送ってくるのは別に良いけれど、二度とこちらからは送り返すことなど出来ない。読まれない思いが溜まっていっても辛い、と思っていた。離れて最初の一年と少しは忘れるようにすべての物事にのめり込んでいたのに、もうこんなに月に一度の紙に依存している自分がおかしくなって、露伴は書きかけの手紙を何度か捨てて、書きなおしては捨てて、4度目に書きなおして送り返した。彼女が帰ってくることになったら、居を移すのも良いかもしれない。少なくとも彼女が20歳に達するまでは触れるな、と言った父親の口元を思い出して露伴はそんな案をまとめていた。露伴はその年齢にあと数ヶ月で届く。つまりあと6年ほど待たなくてはこれ以上なく面倒なことになることを露伴は悟っていた。その前に、それより前に会ってしまったら自分が何をするのか想像がつかないとも考えていた。彼女の未来を捨てさせてまで自分は部屋に彼女を縛り付けるかもしれないし、泣き崩れるかもしれない。同意のない行為に及ぶかもしれないし、会えない間に育んでいた想像上の彼女と現実の彼女の差に幻滅してしまうかもしれない。
マリエが自分の部屋を訪れることがなかったというのは正解だった。確実に、そのチャイムが押されていたら自分は彼女を帰しなどしなかっただろう。
翌年の夏に彼女は高校から母校に帰ること、それからこのやり取りは翌年5月に送るもので最後になるだろう事を認めてきたので、露伴は記憶のない幼い時代に住んでいた街に物件を探し始めた。表向きは作品のためではあったけれど、彼女が帰ってくる前に東京を離れるべきだという思いから派生した事柄であって、今度の衝動を抑え込めないかぎり作品に影響が及ぶのではないかという恐れもあったので、これは間違いではない。もう露伴は成人していて、物件も一括で買えるだけの余力はあった。そうでなければ二度も担当編集の手をわずらわせる事になっただろうし、何より再び実家に連絡を取ることだけが癪だったのだ。家を出てから数度連絡は来たものの、基本的に露伴は実家に対する全ての連絡を絶っていた。連載の合間に北行のチケットを取って、北に向かう。現地の不動産屋にアポイントを取っておいたとおりに数軒周ってから、露伴はそのうちの一軒に決めた。一番大きい駅から遠く、かつて住んでいた区画とも逆で、いちばん洋風の趣きのある物件だった。ここにします、と即決したことに不動産屋は大層驚いていたけれどもそれを気にする余裕なんて殆ど無かった。不意に進むいつだかと同じような作業に数年前実家を出た当初のことを思い出して、露伴はこれ以降もあの時のことを思い出すなら転居は控えようと決意した。急なその決定に纏わる手続きの諸々はいつだってあの時の閉鎖的な気分をそのままに呼び起こした。それが転居届を出す時ですらそうだったし、手紙を捨てさえすれば、
マリエにまつわるものを捨てさえすればなくなるかと思えども捨てられずに全て缶に仕舞って、引っ越しの荷物の奥底に封印して送り出した。それは転居後も開けられずに作業台の抽斗の一番底にしまわれている。引っ越し以降に来た手紙は全て別のファイルに綴じていた。露伴は一度だって転居のことを
マリエに告げなかったし、いつか家を出た時のように居場所を告げられるだけの踏ん切りも覚悟もまだなかったのだ。
それにしても、何もこの街にまつわる記憶がない。本当に住んでいたのかどうか怪しいと思いながらも、自分の幼少期の暗い部屋に至った理由はこの土地にあることだけは薄ぼんやりと覚えていた。幼少期の手を引かれていた記憶、どうしようもなく寒かったときのこと、暑い夏のこと。当時から視線の高さも変わったのだから見覚えなどなくて当然なのかもしれない。今ではよっぽどあの埃臭い古書店の立ち並ぶ道だとか、それから高速道路下の川のほうが見覚えがあるというのは情緒のない事柄だ。手続きに関連して不意に鼻をくすぐって眼の奥を刺す数年前の記憶を振りほどくように露伴はその街を歩いてはものを描き、それから筆を進めては新しい生活を自分の手中に収めようとしていた。
それに関連して新しい力も交友関係も得たことは、岸辺露伴にとってみれば幸いに他ならない事だった。目新しいことが起これば過去のことなどある程度忘れておけるし、何より自分が何か大きな流れのなかに存在しているというのも新しい体験だった。それにしても、自分はこうして人の記憶や過去を読むことができるけれど自分のことは自分ですら読めないというのはもどかしくても少しだけ救われる思いがした。自分の過去を話して誰が幸せになれるだろう。それからこの現実を誰の目にも晒さずに二人の間でただ共有しておきたい気持ちの方が強かった。新しい友人の年格好に
マリエを思い出してなお露伴はそう思っていて、月に一度届く手紙を開き返事を書く度に確実に昔よりもずっと秘めやかな気持ちが沸き起こる。非日常な体験を君たちはしているかもしれないけれど、僕だってベクトルは違えどそうだった。得た力と同様に言っても説明しきれないし、説明する気もないけれど。何も変わっていないような日常を手紙に綴りながらふと手を止めた。何もかも変わってしまったけど続いている習慣を止めるなら今だと思ったけれど、止められずに今日もまた抽斗の中の写真を見て、少しだけ背の伸びた彼女に手紙を書いていた。
休みが出来たので会いに行くよ、と書いてからそれを破り捨てて、その理由も会いたい旨も書かないただの代わり映えのしない、まるであたかも東京で淡々と連載を続けているかのような事を綴り直して岸辺露伴は休暇の荷物を詰めた。同じ時間帯にいるということすら落ち着かずに露伴はそっと乗り継ぎの便名を見て、それから未練を振り切るようにミラノから南下するような電車の切符を手配した。中央駅の行き先に上るよく見た消印の地名を見て、露伴は乾燥した空気の中で破り捨てた手紙の文面を思い出して一瞬郷愁に駆られたけれども、ちょうどその電車がプラットフォームを離れるところで何も間違いを起こさずに済んでどこか安堵を覚えていた。一日を捨てて往復することはできる。それをしても会えることなんて絶対にないことは解っていた。それでいても途中の日程にその往復を足さざるを得なくなっている自分の性格を笑いながら岸辺露伴は手帳を開く。会えなくとも手紙の理解を図るリアリティにはなるはずだ、と自分の好奇心を抑えきれないのは悪い癖だ。でもそれで飯を食べているのだから今更改める気もなければ悪いとも本当は思っていない。会わないようにしようと転居までして、その上で何故こんな行動を取ろうとしているのか自分でもわからないでいる。それでも
マリエの書く湖の色を目で見て、その吸う空気を知りたいと思うだけでは理由にならないのだろうか。会えずとも行けば残香ぐらいは感じられるのではないかと、その自分の行動理由をかつて自分が実家を出て半月ほど経った終業式の日に見知ったあの駅に降りた行動に当てはめて飲み込もうとしていた。空白の日程をインクで染め、炭酸の混じったミネラルウォーターを口にしながらたまの休載も悪く無い、と露伴は一人満足したように身をシートに沈めて定刻を待つ。数分遅れで動く車窓すら許せるほどに露伴は満足感を覚えていた。その満足感は、いつか電車の中で腕の中に
マリエを抱きながら通学していた時間で感じていたものと似ていて、初めて乗るその電車にもどこか親しみを覚えて仕方がなかった。仕事なんてろくすっぽする気もなかったけれども、あの時分を思い出すとどうしても紙を取り出してものを描かねばならないような気持ちに駆られる。その対象がどれだけくだらなくて世俗的なものであれ。
20160127 chloe, as the "innocent incest incident #07"